第6話 Look at me
外は本格的な冬模様。とっくに仕事は終わっていたが、彼はまだパソコンから長時間目を離さず、ときどきうめき声をあげていた。しばらく一緒に帰っていない。早く帰れば自分も有意義な時間が過ごせるものを、私はどうしたら彼が仕事を終える時間まで暇を潰せるか真剣に悩んでいた。
近くによく話す男性同僚がいたため、通りすがるついでに、私は声を掛けた。
「まだ仕事ですか?」
「はい、今日責任者がお休みで、僕が20時半まで残らないといけないんですよ。」
「どこもかしこも今は忙しいのに、私はここ数週間、仕事がそんなになくて、これから来るしわ寄せに今から戦々恐々としてます。」
そこからしばらくくだらない話に花を咲かせつつ、私は時々遠くの彼の様子を伺った。あまりにも眼精疲労に耐えられなくなったのか、途中からブルーライトカット眼鏡をつけ始めた。初めて着けたのを見たとき、あまりにも似合っており、もともと理知的な顔なのに、さらにその要素が増して、見つめてしまったことを覚えている。
今日も実は午後の早い時間、私の前の空いた席に座り、斜め前の同僚と仕事に精を出していた。すぐ近くで彼の声や笑い声が聞こえたり、顔を上げればすぐ間近に表情を見られるのはもちろん嬉しいのだが、さすがにそこまで露骨に見ることはできず、1時間ほど声を聴きながらも悶絶していた。
そんなことを思い出しつつ無駄話をしていたが、話に目処がついてしまい、私はしぶしぶ自席に戻った。椅子に腰かけ、背もたれに掛けていたブランケットを膝に掛けた。メールでも返そうかなと思いながら、一度前方を向いた。すると同時にパソコンから顔をあげて休憩している彼とばっちり目が合った。
珍しく私はどぎまぎすることもなく、一度目をぱちくりした。その間に彼も私をじっとみて、私は「何?」と小首を傾げて尋ねた。
「終わらない。疲れた。」
「お疲れ様です。もうちょっとで解放されるでしょうから。それでも疲れてますよね。」
「あー、もう家でやろうかな。」
「そうしましょう、家でやりましょう。」
「とりあえず明後日までに必要なことはあとちょっとで完成するんですけど、あまりにも使い方が複雑なシステムなので、ある程度理解できる人にも説明したんですが、それでも説明して一緒にやらないと無理なレベルなので、他の人には難易度が高すぎると思うんです。」
「それなら私とかはもちろん分からない・・・」
彼が今精を出している仕事の進捗状況を聞きながら、それ以外の話も交えて10分ほど休憩がてら会話をした。このまま一緒に帰れないかな。
彼が席を立ったタイミングでそろそろ自分のリミットも迫ってきたため、私は半ば諦めてマグカップを洗い、お手洗いに立ち、帰る準備をした。オフィスを去り際に、私は鞄を持ったまま先程まで話をしていた同僚のところに寄った。入れ違いで同僚と話していた彼が自席に戻った。
「帰っちゃいますよ。あと20分くらい、頑張ってください。」
「いいなあ。お疲れ様です。」
同僚は疲れたなあ、などぼやきながらジュースを一口飲むと、私を見送った。私はさあ帰るか、と歩き出そうとすると、真後ろから「居残り、頑張って」と男性の声が聞こえた。振り向くと、すぐ後ろに彼が立っていた。荷物を既に持っている。
私はドアの外に出てから、「もうお帰りですか?」と彼に聞いた。
「はい、もう家でやります。」と、彼は答えた。
私たちは更衣室まで一緒に歩き、同時にドアを開けた。私は入り際に、
「あの、まっすぐ帰りますか?」と声を掛けた。
「帰りますよ。」そう返事が聞こえた。
「じゃあ、途中まで一緒に。」私はいつもよりなぜか自分が積極的なことに違和感を覚えたが、そういう日もあると思い、ドアを閉めた。
一緒に帰ろう、と言っても、彼がドアの外で待ってくれているかは分からなかった。しかし、ドアを開けるとすぐ前で彼が待っており、会釈してくれた。
「寒い・・・更衣室も、これから履くブーツも絶対冷たい。」
「寒いですよね、今日はおでんかなあ。最近忙しすぎて、帰ったらすぐ寝落ちって感じだから、夕飯を作る暇もなし。」
私たちはそう言いながらお互い肩をすくめて、外に出た。しかし、いざタイムカードを押そうとしたとき、彼が隣で「あっ」と声を発し、ポケットや鞄を漁り始めた。
「スマホ忘れた。」
「取りに行きますか?」
「はあ、この間も同じことした。デスクの上だ。」
そういうと彼は小走りで社内へ戻っていった。私は待っていることが正しいのか分からなかったが、守衛さんがいる門も外へ出て、震えながら待つことにした。
1,2分後、彼は走りながら戻ってきた。
「実は朝も同じことしたんです。」
「え?」
「駅に近いところまで来てから忘れたことに気づいて、ダッシュで戻って、自転車ひっぱり出して、降りてからまたダッシュして、最寄り駅に着いてからもここまでダッシュ。」
「お疲れ様です。」
「しかも最近朝ご飯食べずにここまで来るんですけど、起きて貧血というか、気持ち悪くて、吐くほどじゃないけど、嗚咽程度は出るんだよな・・・。」
「そりゃそうですよ、連日遅くまで仕事して寝不足・疲労蓄積してるだろうし。それに朝ご飯抜きで急いで来るなんて、私なら無理だな・・・。」
私はそう言いながら彼の横顔を見た、日ごとに疲れてきている。きりっとした目元は変わらないが、心配だ。
「本当に傍目から見ててもあまりに大変そうで、皆心配してますよ。いつ倒れるんじゃないかって考えると、気が気じゃなくて・・・」
「ほかにもやることあるんですけどね。また休日出勤だし、全然進まない。」
それから話は今日の午後のことに変わった。
「今日も自分で来週の負担を減らしたいから午前は仕事を結構いれて、午後一でお客さんが来たから対応して、そこから入力作業。」
「お疲れ様です。そういえばずっとやってましたね。一つ一つ確認してたから、骨が折れそうだな~と思って聞いてました。」
私は午後の作業を思い出した。人の名前を一人ずつ読み上げ、二人で確認している声がしんとしたオフィスに響いていた。彼の手際の良さが際立ち、やはり仕事ができるなと思いながら聞き惚れていたが、やってる本人は絶対大変だっただろう。
「実は作業しながら、何か反応するかな~ってちらちら見てたんですよ。」
「何を?」
「え、君を。」
「え!?嘘、全然知らなかった!大変だなと思いながら声は聴いてたけど。ちょっとまって、恥ずかしいからやめて!」
私はいきなり投下された爆弾発言に動揺し、隣を歩く彼の右腕を叩き、軽く揺さぶった。彼は軽く笑い声をあげ、
「いや、そんなしょちゅう見てるわけじゃないですよ。」
「そりゃそうですよ、そうだったら緊張するし、笑っちゃう。」
私は笑いながら冗談めかしてごまかしたが、内心どうしたらいいものか、という感じだった。
そこから色々話したり、疲れている彼と沈黙があったりと、後半戦はあまり実のあるものではなかった記憶がある。しかし、彼に見られていたことがあまりにも衝撃的で、私はこれからいつ気を抜けばいいのか。それだけが頭の中をぐるぐるめぐっていた。
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