第5話 ハッピーアイスクリーム
いつもより長丁場な仕事がそろそろ終わりを迎える。ここ数日、どうしても元気が出なかった。理由は明白だ。彼が冷たいのだ。今まで単純に仕事の用件が最低2日に1個はあったのが、ついにネタ切れになっただけなのかもしれない。勤務中の交流は減り、今まで若干自意識過剰なだけかもしれないが感じていた視線も全く感じなくなった。そうなると自分がちらちらと彼を垣間見ることも、今まで以上に罪悪感が増し、控えめになってしまう。
この1週間、全く話していないわけではない。つい先日も廊下でタイミングが合った際に、一緒にオフィスまで歩いた。前日にしていた話の続きを振ってみたり、共通の友人の話を持ち出してみたりした。しかし、彼の反応は薄く、目も合わせてくれなかった。正直何か機嫌を損ねることをしたか、もしくは私の気持ちを薄々感じ始め、ありがたくないがために引き始めたのか・・・。あまりの変わりように涙が出そうだ。
思い当たる節はなくはない。一つ目。実際私は仲良くなるまでに誰とでも時間がかかる。そのうえ、彼は比較的冷淡だ。そのため昨年の夏頃までは本当に苦手で、挨拶することさえハードルが高かった。しかし、気づいたら好きになってしまい、彼との接点を探してばかり。そうするうちに偶然が重なり、長話をしたり、ついに業務上の必要性とはいえ、向こうからLINEが来たり、一緒に帰宅するタイミングが一緒になったり。そんな中で、むしろ喋らない日の落ち込みは半端なかった。ようやくそんな関係になれたがゆえ、「夏頃までは近づきがたかった」と、直接白状したのだった。彼は、「直接言えるなら、大丈夫なのでは?」と言ってくれたが、案外傷ついていたり。
2つ目。確証はないけれど、フラグを自らへし折った説。最近よく一緒に帰ることが続き、先週「俺とばかりでいいんですか?」と聞かれた。私は内心、許可が出るなら毎日帰りたいと思っていたが、あからさまに言葉にすることもはばかられ、「何も後ろめたいことはないから大丈夫ですよ。」と答えた。ものすごい都合のいいうぬぼれ解釈と一言断ってから言うが、もし彼の質問の裏に好意があったとしたら、私は「あなたには何も思ってないから」と同義のことを言い放ったことになる。好きなのに、ものすごく好きなのに、彼に脈なし確定判決を通告した形になってはいないだろうか。
理由はなんであれ、とにかく冷たいのだ。今週も今日で終わり。彼と話せるチャンスは今日もなさそうだ。真っ暗になった窓の外の景色をカーテンを開けながら眺め、ため息をついた。人が少しずつまばらになっていくが、彼もそろそろ終わるだろうか。正直、毎日「今日こそはすぐに帰るぞ」と意を決して出勤しているのだ。しかし、いざ残業が始まると、自分のすべきことが終わっていたとしても、彼と帰るチャンスが欲しくて、1時間もだらだらデスクで「仕事のフリ」をすることが止められない。もはや病気なんじゃないか?と自分で自分が心配だ。そのうちストーカーと間違えられてもしかたないかもしれない。待っていたからといって、帰れる保証もないのだから、本当にやめたい悪習慣である。そもそも彼は私と帰りたいなど露にも思っておらず、毎度鉢合わせる度に仕方なく肩を並べてくれているのかもしれない。
様々なことを回想していると、彼と一緒に仕事をしていた同僚が帰宅準備を始めた。私は手帳を開き、退勤時間をメモし、デスクを軽く整えて、部屋を後にした。彼がすぐ帰るかは分からない。それでももうこれ以上引き延ばすつもりもなかったし、もしタイミングが合ったとしても、この冷え切った状態でどうやって会話すればいいのかも分からなかった。
とは言え諦めきれず、更衣室でのろのろとコートを羽織って、ボタンと金具を留め、マフラーは手間のかかる巻き方にした。いつも手こずるくせに、今日は一発で巻けてしまった・・・。髪型を整え、口紅を塗り、一度ドアの前で立ち止まった。そしてドアを開けた。階段の前で先輩に会い、1分ほど立ち話をして、下に降りた。社外のドア前には別の仕事でまだ帰れない先輩が疲れた顔をして立っており、労いの言葉をかけて私はタイムカードを押した。
タイムカードの入ったケースを鞄にしまおうとしたとき、視界の端に人影が映った。まだ数十メートル離れていたが、彼がこちらに向かって歩いてきた。いつもなら会釈をしたりしてそこで待つのだが、先輩が近くにいるということも抜きにして、自分でも驚くほど身をこわばらせると、何か悪いことがみつかった子供のようにそそくさと荷物をまとめ、駅に向かって歩き出した。
彼の歩幅であれば追いつかれるし、既に彼の足音であろうものが近くに聞こえている。けれど過剰な期待はしないでおいた。きっと一緒に帰りたくなければ追いつかないか、さすがにその調整には骨が折れるから、別ルート、つまりあと数歩先にある曲がり角で駅方面へ曲がると思ったからだ。私は先にその十字路を直進した。ほとんど諦めモードで後ろの足音が消えるのを待った。しかし、予想に反して足音はさらに近づき、私の右側に黒い人影が並んだ。
「お疲れ様です。」
彼はこちらを見るでもなく、すっと私の隣に寄ると、今まで一緒に歩いていたかのように歩調を合わせてきた。私は彼の接近と比例するように身を固くし、声を聴いた瞬間、彼の横顔を仰ぎ見て、全く同じ言葉を返し、視線を前に戻した。
「今日は大変そうでしたね。私はあまり仕事がなかったけど、傍から見ていて朝から晩まで忙しそうでしたから。」
当たり障りのない仕事の話。毎回もっと面白くて、彼を知れる話題はないのかと自分を責める原因になる話題だ。しかし、ただでさえ緊張するのに、気の利いたことなど言えないのだ。
「まあ、そうですね。でも、作業自体は得意なのでそこまで。むしろ、来週の休みも出勤になったのが結構痛い。休みがなくなるんだよなあ。」
彼はそういうと風邪予防のマスク越しに苦笑した。ここ最近、本当に忙しそうだ。心なしか顔が疲れている。しかし、この間のように冷徹な感じは減っており、少しほっとした。
「私は明日休みなので、皆には申し訳ないけど、ゆっくり寝ていたいと思います。」
商店街の人ごみにかき消されないよう、私は一言一言を噛み締めるように吐き出し、時折自分より20センチ以上背の高い彼の顔を見上げた。相変わらずあまりこちらに視線を投げてはくれない。
駅の改札に向かうエスカレーターに乗り、私は彼よりも先を進んだ。一度会話が途切れると、何を話したらいいかわからない。思わず、「寒い・・・」というつぶやきだけが漏れた。彼は一呼吸置くと、
「今週末、平野部でも雪らしいですよ。まあ、たいして積もらないとは思うけど。」
と言った。仕事、天気。ああ、なんて当たり障りのない話題なんだろう。時々もう少し深入りした話もしないわけではないが、大体この2点。もし彼が私のことを好きだったら、普通もっと趣味とか彼氏の有無とか休日の過ごし方とか・・・聞きたいことは山ほどあると思う。それなのに聞いてこないということは、やはり期待できないのかもしれない。
そんな風に思いながらホームへの階段を上って、きっと今日も5分後に自分が最寄り駅で降りるまでに、なんの進展もないのだろうと気落ちし始めたときだった。
「あれ?」
私たちの斜め前方に、見慣れたすらりとした高身長の青年が歩いていた。同じ部署の後輩だった。彼とは同じ趣味を持つ者同士、プライベートでもそこそこ仲良くしているらしい。私とも1年しか入社年数が違わないため、会社の中では仲のいいうちの一人である。彼がいることによって、好きな人との話が円滑になることもあるくらいだ。
私たちより先に電車待ちの列に並んだため、全く私たち二人には気づいていなかった。私と彼は示し合わせたようにちょっと迂回すると、そのまま彼の背後へ付けた。私はジェスチャーで、「先に行って」と合図すると、彼は後輩の背中にさらに1歩近づいた。そこに電車が滑り込み、ドアが開き、後輩は逆側のドアに近い場所へ陣取った。すぐさま私は後輩の腕を掴み、彼はそのままずいとさらに一歩詰め寄った。
「うわっ、びっくりした!」
後輩は私たちが思っていた通りの反応をしてくれて、私も彼も笑い声をあげた。
「何、どうしたんですか!?」
後輩は私たちを交互に見ながら尋ねた。
「「別に、何も」」
示し合わせたわけでもないのに、言葉もスピードも間の開け方もぴったりと合わさった。私は即座に彼の横顔を見上げたが、今回も顔色一つ変えていなかった。特に何が、というわけではないが、二人の呼吸が合ったことに一人で感動し、また、「ハッピーアイスクリームだなあ」と心の中で独り言をつぶやいた。
そのあとは何も変わったこともなく、三人で他愛もない話をして、私は2駅先で乗り換えのために電車を降りた。ようやく心の靄が取れ、さっきの偶然を微笑みながら思い出した。彼が実際私のことをどう思っているかは未だ分からない。それでも、少しずつ、1回ずつ、こうやって肩を並べられる機会を期待して毎日過ごすことが自分を幸せにしてくれることを実感したのだった。
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