第2話 紡がれる言葉に期待する


昨夜はあまりよく寝られなかった。充実感と高揚感に支配され、動悸が止まらず、寝付くのに時間が掛かった。


朝の電車でも、昨夜のやりとりを読み直し、私は窓の外に彼の横顔を思い出そうとした。


この日は昨日と打って変わって、とにかく忙しかった。単純にやるべきことが多いのと、午後は直接私に対するものではないが、クレームがあったりしたため、同僚と今後について協議したりと、心身ともになかなか疲弊した。


あまりの疲れに、甘いものなしには作業に戻れず、私は近くにあるブーランジェリーへ足を運び、数少なくなった焼き菓子のショーケースから、パウンドケーキとフロランタンを選んだ。


会社に戻り、コーヒーを淹れ、給湯室にあるフォークを借りた。丁寧に包まれたケーキを取り出し、クッキングシートに乗せた。食べる前に忘れてはいけない業務をTO DOリストに書き始めた。


その時、視界の右端にグレーのスーツが見えた。誰かはそれ以上見ずにも分かったが、ギリギリまで振り向かず、待っていた。彼は私に話しかける代わりに、デスクの右端に私が貸していた書類をそっと置いた。


「お楽しみの前にすみません。」


彼は私のデスク上にあるケーキに目をやり、書類のお礼を述べた。


私がお茶をしようとするときに、よく彼が用事を持ってくることからのやりとりだった。私はちょっと冗談めかして、


「ほんと、いつも今から!って時に来て。」


と笑い、あとどれくらいで今日の仕事が終わるかの話を始めた。


「目標は18時半なんですけどね。」


そう言いながら横目で時計を見る彼を、座ったまま私は見上げ、手元にあったフロランタンの入れ物のマスキングテープを取った。無言で彼の前に差し出し、容器を振った。


「あ、これ好きです。」


彼は小さなフロランタンを指先でつまんだ。右指に持ち替え、つまんだ左指を少し舐め、一口かじった。そのしぐさにあまりにも色気を感じ、私は一瞬目線を落とした。


「よく昔、母親が作ってたんですよ。お菓子作りが好きで、クッキーやらケーキやら。これも作ってました。」


「何、そのハイレベルな暮らし。羨ましい・・フロランタン、美味しいですよね。」


私は内心、元々字の綺麗さや常にハンカチを持ち歩いてたり、趣味のいい筆記具を胸ポケットに差している様子から、育ちがいいのだろうと思っていたが、きっと彼の家庭は相当しっかりした教育を施し、理想的な母親がいるのだろう、と感じた。


その後、何人か私の近くに仲のいい同僚がいたので、彼女たちにもおすそ分けした。


それからお互いに仕事をして、私は正直彼の目標には間に合わないと思っていた。また昨日みたいに一緒にならないか、と期待していたが、そもそも自分が帰れるか怪しかった。


しかし、予想よりだいぶ早く印刷が終わり、大量の書類をロッカーにしまうと、


「終わったー!帰れる!」


と周りにいた同僚に宣言し、本当にやらなくてはいけないことがないか確認し、荷物を持った。彼に視線を向けると、彼もそろそろ帰りそうな気配がしたが、あまり期待はしないで、私は部屋を後にした。


更衣室で昨日と同じ作業をしていると、ドアのすりガラスに彼の姿が映った。そして、隣の部屋のドアが開く音がした。


私は電気を消すと、下の階へ向かった。靴を履き替えていると、


「あら、結局」


と、ちょっと拍子抜けした彼の声が聞こえた。


「私、仕事追い上げましたからね。お疲れ様です。」


そういうと私は先に外へ出た。一緒になって嬉しい気持ちと、正直狙った自分がいるので、また一緒かと思われてるのではという不安から、どうせタイムカードを押してれば、追いつかれ、帰り道は電車まで同じなのに、先に帰ろうとした。


しかし、口は正直で、


「でも、結局行く先同じなんですけどね。」


と声を掛けて、彼が靴を履き替えるのを待ち、一緒に歩き出した。


昨日同様、世間話をした。仕事の話、旅行の話。ただ、彼は明日から約1週間出張で、帰宅したら荷造りをする必要があるという話をした。年末年始の休暇が始まるのに、1週間も余計に会えないのだ。


駅に着き、今日は乗り換え駅までは同じため、一緒に階段を上がった。ちょうど登りきったタイミングで電車が滑り込んできた。土曜でホームは観光客や休暇を楽しんだ人が多く、乗り換えに便利な車両のドアに間に合うか微妙だった。


私は発車ベルが鳴るのを聞き、ひとつ手前のドアから入ったが、彼は間に合うと言い、予定通りのドアから乗車した。車両の中で落ち合い、ほっと一息ついた矢先だった。彼に近い方の、車両と車両の接続側に近い、6人がけの座席に、4人見慣れた人達が腰掛けていた。


彼女たちは私達を一瞥すると、立ち上がり、彼に挨拶した。彼の部下達だった。見たことある程度で、私はその中の誰とも話をしたことはないが、普段は和気藹々と話すようなタイプの人達だったので、若干不安を覚えた。


私達が乗り込んできたと同時に、彼女達の目には、明らかに好奇の色が現れたのを見たからだ。「あの2人?どんな関係?」まさにそう言いたがっていた。

しかし、彼女達が私達に話しかけることはなく、安堵した。


「車両変えますか?」


私は不安げに彼を見上げたが、


「いや、このままで大丈夫です。」


と、淡々とした答えが返ってきた。


「帰ろうとした時、同じく帰りそうな雰囲気だったので、またタイミングが合うのも失礼かと思い、本当は退勤を遅らせようと思ったんです。でも、疲れには負けて・・・」


私は急に言い訳がしたくなり、言わなくてもいいようなことを呟いた。


彼はそれにはっきりした返答はしなかった。私は自分の失態に落胆し、どうしようもなく、窓の外に見えるバスターミナルの賑わいを睨んだ。


すると、彼の声が横から聞こえた。


「出張最終日、会社に一度戻って来るんで。」


その唐突な一言に、私は彼を見上げた。顔色を変えるわけでもなく、しかし、彼は真面目な顔をしていた。


「戻って来るんで」と言われても、「来るから何?」と聞いてみたかった。そんな図々しい真似は出来ず、当たり障りなく返事をした。


しかし、彼が戻ってくることは、年末年始の休暇に入る前に、一度会えることを意味していた。唐突に彼はこの話をふったため、意図が分からなかったが、私は願っていた。


「出張最終日、会社に一度戻って来るんで。だから会えますよ。」とか、「だから帰りに、どこか寄りませんか?」。


そう言って欲しいと。彼の突然の発言、真剣な横顔に願った。


乗り換え駅に着き、私達はエスカレーターに乗って上へ向かった。同じ車両にいた人達は、降りたのかどうかさえ分からなかった。


もう少しでエスカレーターが上まで着いてしまう。後ろに彼を感じながら、私はいつまでもこのままでいたい、と切実に思った。しかし、それは有り得ない。代わりに少しでも彼を目に焼き付けたく、私は振り向いて、尋ねた。


「次、会うのは年明けだから、2週間後ですかね?」


私は5日後に出張帰りの彼に会えないことを想定して聞いた。


「あー、そうですね。」


「出張、気をつけて来てください。良いお年を、お疲れ様です。」


私は彼の目をよく見て、笑顔で別れを述べた。彼も私に挨拶し、私達は別々のホームを目指して歩き始めた。


2週間、彼の顔を記憶にとどめられるだろうか。いくら好きな人でも、正しい情報は風化してゆく。私はひたすら願った。


一目でいい、5日後彼に会いたい。


ターミナル駅は人で熱気に包まれていた。私はその中を歩き、ホームへ階段を降りた。冬の風が頬を撫でた。私はイヤホンをつけると、寂しさを紛らわすように、明るい曲を選んだ。



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