彼女との敗北

 次の試験のことだった。


 その日の順位発表はやけに騒がしかった。廊下に張り出されている順位表の前に、お菓子にたかるアリのように人が群がっていた。

 群衆を押しのけると、一位という輝かしい数字の横に書かれている名前は僕ではなく、笹場紗枝李だった。


「ささ……ば?」


 周りの人間は呆然とする僕を見て、みじめに思ったのかそそくさと離れていき、いつのまにか人だかりはなくなった。

 何度見ても変わらない結果に僕はただただ唇を噛みしめていた。


「私の本気、いかがです?」


 急いで振り向くと、そこにはやはり笹場が出会ったときと変わらない笑顔を貼りつけて立っていた。


「笹場……」


 乾いた唇からはその名前しか出なかった。


「あら、やっぱし私が一番やないの。すみませんねぇ。次からはもう少し手ぇ抜きましょか?」

「いや……いい」


 自分でも驚くほどか細くなんとも頼りない声が出た。笹場は不敵な笑みをやめ、目をぱちくりとさせた。


「お前の……キミの実力が僕より上だっただけ。それは認めざるをえないことだ。そのような無駄な気づかいはいらない。……おめでとう、そしてすまなかった。次こそは僕が上になりたいものだな」


 はは、と形だけの笑みをつくる。人生初の敗北で挫折だ、仕方がないだろう。僕はいつでも月代の名を背負って一位の座を誰にも譲らなかったのだから。

 それを見た笹場は心底驚いた顔をして僕をじろじろと、檻に入れられている動物を観察する目つきで見た。つい後ずさってしまう。


「なんだ、そんなに見て」

「月代さん……いえ、成美さんと呼んでも?」

「……本来なら拒否するところだが、今はキミが上だ。構わない」

「私、成美さんのこと好きになりました」

「そうか……は!?」


 一度頷いてしまったその言葉に、人生で出したことのない下品な大声をあげてしまった。

 当の本人はけろっとしている。なんてことない、当然のことを言ったまでとでもいう風に。それがさらに僕を焦らせた。


「あ、友情の好きじゃなくて恋愛の好きですよ」

「そこではなく、どうしてそのような、その、急に。いやなぜなら一般的には僕に嫌悪するだろう! 大口叩いていた男がこのような無様な姿を!」

「そこがええんやないですか」

「は……!? も、もしや笹場紗枝李、キミは勉強ができる阿保なのか! そうかなるほど、それなら僕への同情を恋情に勘違いしてしまうのは無理もないな!」

「さぁ? 阿呆は誰でしょうねぇ?」


 僕は月代成美だ。求愛なぞ受けてきたことはいくらでもある。それどころか求婚までも。僕の立場か、才能か、美貌か。この三つのどれかに惚れたという女ばかりだった。

 けれどこのケースは初めてだ。どのような思考回路で僕に恋を抱いたのか全く分からない。理解ができない。この女は一体なにを考えているんだ。

 戸惑いながらも反論すると、笹場は普段通りけらけらと笑う。


「威勢をはっとった人が意気消沈する姿、可愛くていじりたくなって、えらい好きです。特に成美さんみたいな人が挫折したらもう……」


 舐めるようにじっくりと僕を見る視線に身の危険を感じた。感じたことのない感情が僕を支配していく。

 笹場は指を組み、上目遣いであざとく僕を見つめた。容貌はとても良いはずなのに、なぜか素直に可愛いとは思えない。


「お返事はいつでもええです。それより提案なんですけども」

「提案? 取引ではなく?」

「嫌やわ、私そんな極悪女ちゃいますよ。……成美さんは当然来年も生徒会長になるんですよねぇ?」


 僕は黙って首を縦にふった。


「うちの学院はちょっと変わっていて、三学年の中から生徒会長を選ぶ方式でしょう? 前例では、三年間生徒会長を務めた人もおるとか。月代である成美さんは三年間生徒会長の座にいたい。けれど高圧的に振舞っとった成美さんが、格下の小娘に負けて二番になったなんて、そんなの評判下がる一方ですよねぇ?」

「ぐっ……」

「ただでさえギリギリの票数で得た危うい地位なのに、今回の試験でどうなることやら」


 正論だ。今まで頂点に立ち大きい態度をとっていた人間がころげ落ちたとき、群衆からは恐怖ではなく見下す対象となってしまう。


「生徒会長総選挙で集まる票は少なくなって生徒会長にもなれない。それを回避するために、私が成美さんの評判を上げてきますよ。私、結構顔が広いんで」

「……狙いは金か?」


 相手の考えを探りながら聞くと、たちまち笹場の顔は不機嫌になった。


「せやから違いますって。好きな人に尽くしたいだけです。私、一途ですから。それともこの案に乗らへん気ですか?」


 その真っ直ぐな目は嘘をついてるようには思えなかった。僕は頭を抱えて息をついた。

 本当に、思考が読めない女だ。


「分かった。……よろしく頼む」


 俯きながらも提案に乗ると、笹場は心の底から嬉しそうに顔をほころばせて、僕よりずっと小さく白い手を差し出してきた。反射的に握ろうとした手を一瞬引っ込めようとしたが、戸惑いつつも彼女の手を握る。ろくに物も持てなさそうな心もとない柔らかい感触に、本当にこんなか弱そうな女に負けたのかと改めて驚いた。

 後の生徒会総選挙では、笹場のおかげか無事に僕がまた生徒会長に選ばれることになった。予想の二倍の票数を獲得したのは驚愕だったが。それと、投票する際の生徒の表情がどこか恐怖におびえていたり、何かを崇拝するような恍惚としたものだったりしたのは一体……。

 とにかく生徒会長になれてよかった。今はそれだけを考えよう。

 僕の名前が生徒会長という肩書きとともに載せられた貼り紙を腕組みをしながら眺めて余韻に浸っていた。


「お久しぶりです、成美さん」

「……!」


 どうしていつも背後から声をかけてくるのだろう。そのせいで毎回変に驚いてしまう。


 後ろを向けば予想通り笹場がいた。


「おめでとうございます」

「ありがとう。……色々。それに笹場もおめでとう」


 笹場はうやうやしく頭を下げた。

 そう、彼女はどうしてか副会長になった。

立候補者の演説に彼女がいたときは目も耳も、脳すらも疑った。

 まさか僕の弱みを握り利用しようとしているのか?

 そんな悪い考えを打ち消そうと会話をつづけた。


「キミの顔が広いのは事実のようだな。不思議だ、たかが和菓子屋の娘だというのに。それにしてもこんなに票が……。生徒にどのようなことを吹き込んだ?」

「なんも言ってませんよ。なんらかはしましたけど」

「した、って……! 恐喝か!?」


 慌てて聞くと、笹場はいたずらっ子のようにくすくすと笑った。


「すみません、冗談ですよ。ほんまにからかうと面白いわぁ。そないなとこが好きなんですけど」


 いや、目が本気だったぞ。とは言えず、笑う彼女を前に僕は黙って突っ立っていることしかできなかった。以前の僕ならこんなこと想像もできなかっただろう。

 僕はそこでようやく笹場への得体の知れない、初めての感情に名前をつけることができた。


 恐怖だ。


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