5.棘
彼女とその男とは、『冥界解明迷宮』参加者の列から少し外れたところで、楽しげに話していた。参加の記念写真を取るフラッシュがあちこちで焚かれた。僕は、その中にきっと写真週刊誌のカメラマンもいるのだろうと思ったが、もはやそんなものは無関係だと思った。生還率30%のこのゲームへの参加を決めた時から、彼女も僕も、その30%に入りたいなどという希望は無かったのだ。互いにそれと口にしたわけではなかった。だが新月の星空の下、飛行機の明滅を一緒に見上げながら、僕たちは覚悟を決めたはずだった。
「なんて事はないさ。屋上から地下に移動するだけのことだから」
「そうね。どっちにいても二人だけの世界にかわりはないわ」
地表を流れる水が最も汚れている。水蒸気となって上昇した雨も、地下にしみ入る伏流水も、途中で自然に濾過され、しかも公害が無いからだ。僕たちは美しい水になりたかったのかもしれない。
「やあ。遅くなってごめんね。朝顔の手入れをしていたものだから」
少しおどけ気味に声をかけると、彼女は一目散に駆けてきて、体をぶつけるようにして僕に抱きついてきた。
「こないかと思った。こないかと思った。やっぱり来てくれないんだと思った」
僕はとても驚いた。驚きながら嬉しかった。そして誇らしかった。フラッシュがひっきりなしに焚かれた。僕は細くて小さな彼女の体をきつく抱きしめながら、少しびっくりしたような顔をしている男の方を見た。男は老人のように見えた。僕が見ていることに気づくと、彼は、ボロボロに抜け落ちた歯を見せて笑った。
「ねえ。ねえ。彼は誰?何の話してたの?」
僕は彼女の背中や髪を撫でたりして、なだめながら尋ねた。彼女は「え?」といって僕の胸に顎をつけるようにして上を向いた。鼻と目が真っ赤だった。僕は微笑んでいつものように彼女の額に自分の額を軽くこすりつけた。こうすると、気持ちが落ちつくらしいのだ。
「あ。彼? 彼はね今ここで会ったんだ。おもしろいんだよ。ヨイガシって知ってた?」
「ヨイガシ?」
僕はそう繰り返して、再び彼を見た。彼は先程と同じ位置に立って、同じように口をあけていた。僕は、先ほどの劣等感と同じ大きさの、苛立ちを感じていた。ともすれば、相手の貧相さをなじりたくなるのを必死でこらえ、むしろこの哀れな男に、彼女のすばらしさのほんの少しだけでも、恵んでやろうと思った。そうすることで、僕が感じた惨めさと、残虐さとを帳消しにしてしまえるのではないかと考えたのだ。
「知らないな。それで、その話は終わったの? もし途中だったら、僕も聞いてみたいから、終わりまで聞かせてもらえると嬉しいな」
僕の心の中にわだかまったのが何かなど気付かない彼女は、僕の中でクスクスと笑った。
「途中だったの。いいところ。聞いてみようか」
彼女は僕の腕の中でくるりと後ろ向きになると、男に向かって呼びかけた。
「戸草さあーん。この人。私のパートナー。でね、さっきの話、聞きたいって、いうんだけど、いいかなあ?」
僕は彼女を背後からまたぎゅっと抱きしめた。なんと嬉しい事だろう。彼女は僕をパートナーだと、なんのてらいもなく紹介してくれたではないか。それにひきかえ僕は、なんと馬鹿なのだろう。さっきまでの僕の逡巡は、結局、彼女を冒涜しているのと同じことだった。
「ごめんね」
と僕は囁いた。その囁きはあまりに小さかったので、こちらにやってくるみすぼらしい男を喜々として見つめる彼女の耳には届かなかったようだった。また、僕の胸にかすかな棘が生えてきた。
――夢は近づけば近づくほど遠くなっていくものね。現実がブレンドされて苦いブラックになるの。でももう、逃げる事は出来ない。目の前を見ると、ほら、もう分かれ道なんてどこにもないから。どうしてだろう。どうして私はこの道を選んで来てしまったのかしら。本当に、この道で良かったのかしら。目の前を見ると、ほら、もう分かれ道なんてどこにもないから。目の前を見ると、ほら、もう、すぐそこに、深い崖が、口を開けているから。だけど立ち止まるなんて出来ない。この道の先に、ゴールは無いけれど。夢は踏みにじられてしまったけれど。
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