6. メントール
夜の底が白くなる。そんな言い回しが思い出される。まだ昇らない朝日を受けて、川面が鈍く光始めた。せせらぎや、さえずり、ジーっという蝉の産声が、寝ぼけたように聞こえてくる。夜は白い靄になって流れて消えていく。再び、人の目がそれと分かる山村の風景が戻ってくる。空は空となり、大地は大地となり、音は音となり、命は命へと帰っていく。
夜を徹して行われたヨイガシの熱もすっかり冷め、大人達が上社から降りてくる。戸草は、棚田の畦道に立ち尽くしたままで、山道を通りすぎていく大人たちの灰色の影を、見るともなく見ていた。
「戸草ぁ。おんしまだこげんとこにおったんかい」
世話役の腕章を外して、酔いも冷めたかにみえるさきほどの男が、山道を外れて畦を歩いてきた。戸草は煙草を探った。だがもう煙草は無い。
「ほれ。吸え。メントールじゃ」
「サンキュ」
戸草は素直に緑の箱から一本抜き取り、自分のライターで火をつけ、男も一本くわえたので、そのライターで火をつけてやった。煙は、夜が流れていく方向に渦を巻いていった。
「今年は何人いった?」
戸草は尋ねた。
「十二人じゃ。まあこげんもんじゃろ。俺らんときゃ、少しばかり多すぎたようじゃ。あんが異常やったんよ。十人から十五人あたりが、送りも楽ぞ。なんぼしきたりじゃちゅうても、むごい事には変わらんよ」
「お前でもそう思うのか。」
戸草の言葉に男は語気を荒げた。
「思わんでか! 次は俺の子ぞ。きさんは嫁もとらんで、ねぐさりくさって、ほうけぇ抜かすな、こんよこがみもんがっ」
男は怒鳴って煙草を吹き捨てた。青々としげる稲の中でジュという音がした。蛙になれなかったオタマジャクシが眠る数千匹が、怯えたように体を震わせた。それは田んぼ中の青黒い全ての稲に伝播した。男はぬれた手ぬぐいでゴシゴシと顔を拭った。
「すまん。ちっくと疲れた。おんしが勤めんかったんは、おんしのせいじゃねぇず。そん親も……」
「ほんで、いくたり戻るとふんじゅうや?」
戸草が突然、国の言葉で尋ねた。男は、うっと息を詰めた。その日最初の風が棚田を吹き上げていった。
「五人。いや、三人か。わからんよ。戻ってきたところで……」
男はそう言ってから、忌ま忌ましげに煙草の箱を取り出した。
「今度は長旅になるんじゃろ。選別じゃ。持っちょれ」
戸草は、素直に緑の箱を受取り、頭を下げた。
「ええか。子ば作りよるな。メントールば吸うても、子は出来るぞ。あんは、噂ぞ。お陰でわしはもうこの村離れられんくさ。おまんはええのお。糸ン切れた凧みてぇに、風の向くまま気の向くままじゃもんね」
「凧は糸が切れたら、飛んじゃおれんよ」
戸草はぼそりと、答えて、畦道を下りはじめた。
「あン? 何ぞいうたか。おい。戸草。戸草よぉ。次のヨイガシにゃ、せっくと戻ってきょ。きっと。きっと約束ぞ」
戸草は、振り向かずに、ただ手を上げて、メントールの煙のたなびく方へと、歩いていった。
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