4.穴

4.穴


 静寂のしじまの向こう側で提灯がいくつも明滅した。上社へ登る行列の灯だ。戸草は最後の煙草を取り出し、惜しげもなく火をつけた。そうしなければ、自分というものが消えてしまいそうな気がしたのかもしれない。新月の星空は地上を照らすこと無く、林立する杉の木立も厚みを無くしていた。山には空間の濃淡しかない。人はその濃淡に取り込まれて消えていくだけだった。戸草は、ゆっくりと煙草をくゆらした。「この火が消えたとき、自分はどこにいるのか分かったものではないぞ」と思いながら。


「ヨイガシ」という風習はこの村に独特のものだ。五年に一度、そのとき三歳から五歳の子供達は皆このヨイガシに参加する。そしてこれに参加した者は必ず二十五才の夏に伴侶と伴ってこの村に戻ってくるのだといわれている。戸草は岩屋の頂へ揺らめきながら登っていく提灯行列の火を目で追いながら、自分が参加するはずだった時の様子を思い出そうとしていた。その時に岩屋へ入った連中が、今ヨイガシへ出ている子供たちの親なのだ。あの親達は、子供たちにこれから何が起こるのか、承知しているのだろうか。戸草は、フィルターのところまで吸いつくした煙草を捨てた。チンチンという鐘の音が聞こえてきた。この音が戸草に昔の事を思い出させてくれた。


 上社には神体となっている巨大な円錐形の岩がある。周囲をぎりぎりと蔦のようなものにまきつかれた、その裂け目に入っていくのだ。そこで、子供達は白い着物に着替えさせられる。その時、着物は前後左右を逆さまに着せられ、草履も左右逆に履かされる。そして、一人一人、岩屋の突き当たりにある祭壇の裏に穿たれた穴に入っていくのだ。そこは、ぼんやりと青白い。恐怖に泣きだしたくなるが不思議と声が出ない。怖くてしようがないのに、前から引っ張られるがごとく、後ろから押されるがごとく、整然と穴に入っていくのだ。奥から犬の吠える声が聞こえる。それから、それからどうなるというのだろう。五歳だった戸草には、その先のことは分からない。だが、そういう自分にしか分からないこともあるのだと、戸草は思った。

 鐘の音は続いている。だが提灯の火はもう見えない。


 小学校の頃、すでに両親はいなかった。村長の世話になりながら中学校を卒業するとすぐに村を出た。そして二十五の春に失業した。幸い、貯えがそこそこあったので食うに困るという状況にはならなかった。拘束時間が長く、給料と休日が少ないという仕事だったし、とりたててそれを天職と決めていたわけでもなかったので、悲壮な感じではなかった。貯金といっても、それを使う暇がなかったというだけの事だ。一週間程は、ビデオを借りて見ていたり、散歩したりして過ごした。仕事に追われている時には、いろいろな事をしたいと思ったものだが、いざ自由な時間をどっさり与えられるとかえって何も手に付かないものだ。やがて、戸草は部屋からほとんど出なくなった。腹が減ったら貯金を下ろしてコンビニに行く。それも日に一度あるかないかだった。


「結局、自分のやりたいことが分からない人間は、生きている意味は無い」戸草は「餓死」を選択した。


 いや選択という言葉は当たっていない。ごく自然に、食欲が失われていったのである。その分、貯えは長続きするというのが奇妙な気もしたが、敢えて空腹を我慢するつもりは無かったので、腹が減れば金を下ろしてコンビニへ出向いた。筋肉はごっそりと落ち、髪は肩につくほどになった。部屋ではほとんど裸でごろごろしていた。風呂にも入らなかったのか、というとそんなことはなく、寝ているのに飽きるとそのままゴロゴロと黴だらけのユニットバスへ転がっていき、シャワーを浴びたし、髭剃りをしたりしていた。それから鏡の前に立ち、目ばかりが大きくなっていくのを見るのだ。瞳はどんどん透明になっていくようだった。鼻もどんどん尖っていくようだった。いっそ坊主にでもなろうかと思って、笑ったりもした。しかし、今更、何か新しい事を覚えるなんて、御免だった。天命でも降りてこないかななどと考え、その馬鹿馬鹿しさにまた笑ったりもした。同じ季節が巡った。5年が経って、戸草はまだ生きていた。そして、あの村を見ておきたくなった。これが最後、というつもりで、故郷を、ヨイガシを、見ておこうという気になったのかもしれない。


 ――実現不可能な夢なんて、生きていくのに邪魔なだけだと思う時もあった。その時は、生きていても仕様がないなと、思った。何にも楽しくなんてなかった。モデル事務所に籍だけ置いていたけど、来るのはチラシの仕事とか、地方イベントのアシスタントばかりだった。ストリートで歌っていた時もあったけど、酔っぱらいに絡まれるばかりだった。ギターが弾ければよかったのかな。ピアノを持って歩くわけにはいかないし、キーボードは高かったし。ダンスレッスンにも通いはじめたけど、モデルの仕事だけじゃレッスン代も出ない。結局アルバイトに明け暮れて、やっぱり夜の仕事に入っていくしかなくなっていった。始めは、バーでピアノを弾かせてもらうっていう話だったけど、席に付かなきゃ首だとか言われて、住み込みだったから文句も言えなくて、嫌なことばかりだった。でも、そこに来ていたプロデューサーが、私の歌とピアノを聞いてくれて、オーデションの話をくれた。死のうと思って屋上まで行った日の夜だった。あの時、死んでたら今の私はいないんだと思う。あそこに、彼がいなければ……

 あーあ。こうやって書いてみると、なんてありがちなストーリーなんだろうって思う。テレビドラマならこんな古臭い展開、即却下よね。でも、そんな展開を地でいかなきゃならなかった私は、もっと悲惨だった。それに、日の当たる場所へ出てからだって、やっぱり、夢と現実のギャップの大きさを、改めて思い知らされる事になった。

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