3.ペントハウス

 ペントハウスとはいっても所々ガラスが破れ、サッシも錆びてぼろぼろだ。これが高層マンションの屋上に立っていて、しかも壁や天井のほとんどがガラスというのでなければ、相当なあばら屋に見えたことだろう。管理会社が倒産し、競売にかけても売れず、建物の解体費用も出ないこの場所は、都会の空白地帯だ。


 浴室の目隠しの為に作られた蔓棚は、白茶けた蔓だけになっていたが、その棘はいっそう固く鋭い。僕は、結局この町でも居場所を見つけられず、この場所へ流れ着いてしまったのだ。眼下を濁流が流れていくのが見える。この建物自体が、流れからはじき出されて引っ掛かり、戻ることも進む事も出来なくなった漂流物で、自分もまたそんな澱みに引っ掛かったゴミのようなものだと思った。枯死してなお頑に鋭い棘に人指し指をこわごわと押しつけ、「痛い。けっこう痛い」などとひとりごちるしか能の無い敗残者にとっては、こんな場所でも勿体ない程だと思う。

 この高層マンションは、壮大な失敗作だ。ただあまりにも堂々としすぎているので失敗作というよりも、新しい廃墟のように見えた。新しい廃墟に、しかしなんの意義があるだろうか。いずれ更地にされるまで、その巨大さのみを拠り所にして建っている。建っている事が、新しい廃墟の抵抗になる。そのてっぺんに、抵抗する気力も能力も無い自分がいて、十本の指先から遙かな地上を流れる濁流に、おそるおそる血を落としているのだ。


「飛び下りるなら屋上からがいい。真っ赤な夕焼けが分厚い雲を紅蓮に焼いた、そんな空の下がいい」


 ヨレヨレのナイロン製のパーカーで陽射しを遮り、埃まみれのソファーで寝ている僕に気づかない様子でふらりと現れたのが、彼女だった。その時の彼女の服装がどうしても思い出せないのだが、飛び下りるつもりだったようなので、スカートではなかっただろうと思う。地面に激突してからスカートの乱れを直せるという保証は無いのだ。やっぱり死ぬなら無様な姿は晒したくないだろう。もっとも能味噌をアスファルトにまき散らすのが、無様でないかどうかは知らないが。


「自動車のね、屋根を狙って飛び下りるの。知らないかな。アメリカのロックフェラーセンターから飛び下りた、世界一美しい飛び下り死体の写真」


 彼女はフェンスの無い屋上のへりに腰掛けて、足を宙でブラブラとさせながら話していた。午前11時を過ぎ、ビルの窓という窓から、黒い板をかざした人々が顔をのぞかせていた。彼女も大きなサングラスをかけていた。そうだ。丸い形の顔の半分も隠れそうなサングラスだった。僕はガーデンテラスのなれの果てに腰を掛けて、フード越しに彼女の声を聞いている。


「人がいるビルだとね、落ちていく時、中の人とつい目があってしまうことがあって、それはそれは気持ちの悪いものらしいのよ。ま、どうでもいいんだけどね。こっちは死んじゃうんだから」

「じゃ、なんにしても、今はやめといた方がいいね。なにしろ人目が多すぎる」

 ひび割れたガラスに、三日月の太陽が落とす奇妙な光と影の交錯していた。彼女は天を仰ぎ、空高く手を差し伸べた。


「どうしてそんなに死にたいの?」

 僕は尋ねてみた。彼女はそれまで、ずっとあちらを、つまり中空を見ていたのだが、その時はじめて腰をぐるりと捩じってこちらを見た。凄まじいビル風が吹き上がり、彼女のスカートが大きく風をはらんだ。ああ、彼女はスカートを履いていたのだ。白い、簡素な、ロングスカートを。


「そういう質問をされたくないから、ここに来たんだけどな」


 そう言って、彼女は目を閉じると背筋をピンと延ばし、両足をこちら側へくるりと回した。そして真っ直ぐな白い棒になって狭い縁の上を半回転したところで、干してあったクッションにどさりと落ちた。仰向けのままじっと目を閉じた彼女の側まで僕は歩いていって、しげしげと見下ろした。半袖の白いワンピースで、靴は履いていなかった。僕は、彼女と何ものかを共有できるとは思っていなかった。また彼女の「死にたい」という欲望を人質にして、何かの要求を通せるとも思わなかった。そもそも要求自体が無かった。それでも、僕は彼女に近づいていった。サングラスに、僕と、僕の背後の空と、鎌形の太陽とが映っていた。


「どう思う?」と彼女が言った。

「満点だと思う。練習にしては。でも本番ではきっと、こんな旨くはいかないと思う」と僕は答えた。

「やっぱりね」

 彼女はそういうと、さっぱりと立ち上がり、スカートをパンパンとはらった。

「また、来るかもしれない」

 そう言われた時、僕は肩を竦めることしかできなかった。なんの言葉も浮かんでこなかったのだ。彼女とまた会える、なんてあり得ないと思っていたからだ。


 彼女は裸足のまま帰っていった。これが僕と彼女との最初のエピソードだ。彼女が屋上の縁に立ち、地上を覗き込んでいる時、最初にどんな会話があったのかを、僕は覚えていない。きっと、その会話に失敗していたら、彼女は今この世にはいないのだろうと思う。だからといって、別に僕は彼女に恩を着せているわけではないのだ。そこで死んでいたほうが、マシだったかもしれないのだから。


 ――田舎を出たかった。そんなありきたりな衝動だけだった。保証なんて何もなかったけれど、可能性ですらない可能性を夢見てそれに人生を賭けられる若さだけで、私はもうはち切れそうだった。始めて乗る急行列車は、私の夢に向かって進んでいるのだと思っていた。でも、現実は違っていた。密かに、でも強靱に編み上げてきたはずの私の夢なんて、クモの巣よりも弱かった。来る日も来る日も私は自分に問いかけた。こんな夢でも持ちつづける事が大切なんだって言えるのかしら、って

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