2.朝顔

 朝顔の芽が伸びるところを見た。未明、湿った土をわずかにはね除けて、一列にまっすぐ、一斉に立ち上がった。黒い種子の半分に割れたものを窮屈に被ったままだったが、瑞々しい白から黄緑色への階調は、種子の重さからは解き放たれているように見えた。谷底から届く沢の音は、雨をはらんで柔らかかった。冷めやらぬ夏の日の濛気が、立ちのぼることも、地に降りることもできぬままじんわりと止まっている。七年目の蝉がジーという産声をそこここで上げた。


「夜の田の稲は揺れない」と言った男がいた。続けて、「夜半の風は音ばかりで気流は起こらないからだ」とも言った。


 細い月の明かりに浮かぶ山々のシルエットは、青白い夜空よりも黒かった。山を形作っている無数の葉っぱは闇に塗り込められて、ただ山という一塊になった。除虫灯の下には焼かれた蛾や甲虫が落ちつくした。動くものは何も無かった。

 そういった全てのものを背後に感じながら、男は、十二本の朝顔の芽吹きを見ていた。



 男は懐中電灯を携えた一群に混じっていて、頻繁に顔を照らされるのに辟易していた。「懐中電灯でむやみと人を照らしてはいけない」

と、男が手を翳しながら諭すと、子供たちは「何でー」と、言いながら光を集めてきた。

 子供たちは男を知らない。だが男は、この子供たちと、その親たちとを知っていた。ふとしたときに浮かび上がる子供の表情が親の面影に結びつくと、様々な感情がわきおこり、それは残像のようにいつまでも目の前を漂っていた。


「戸草。お前たいそうな人気やのう」

 青年団世話役という腕章を巻いた男が、子供の囲みの中にいる男に怒鳴った。酒の匂いが辺りに広がる。子供たちは、

「臭い臭い。おいちゃんまあた呑んじゅうな」

 と言いながら、世話役も取り囲んでいく。

「この村には子供が多いな。お前もここに戻ってきているし。村長も安心だな」

 戸草と呼ばれた男は、子供達に揉みくちゃにされながら答えた。世話役はペッと唾を吐き捨て、

「横着モンが」と怒鳴った。

「二十五ンなったらみんなここさ戻るが掟じゃ。長はえらい心配なさっとったぞ。キサンが戻らんちゅうてな。そんが五年もひょんがってから、モヤシみてえになりよって。ヨイガシぐらいは顔を出さんか、このボケが」

 世話役は、蟻のように群がる子供たちの中でびくともしない。

「そんな掟は知らないよ。今度の帰省だってそう長居をするつもりは無いと、長にも言っておいた。しきたりだのなんのって、別に強制されてるわけでもないんだよな。長はよかろうと一言いったきりだ。今の俺は、ここに来るのがやっとの死に損ないだ。役なんて勤まるものかよ」

「はっ。ヤクタイもねえ。勤めも果たせんかったもんにおぶせる役なんぞあるかよ」

 世話役は、そう言った後、はっとした様子で戸草の顔をうかがった。そして、わずかに目を伏せた戸草を見ると、肩をいからせながらくるりと背を向け、法被を脱ぎ捨てた。背中一面を彩る大輪の花の彫り物が懐中電灯の明かりに浮かび上がり、子供たちがはやし立てた。

「ああ、出た出た。お花のおいちゃんの花が出た」

「おいちゃんお花がまた増えとーじゃなかか。こないだは四つだったけんど、今夜は六つ咲いとー」

「つるも伸びとー。もう背中が見えんくらいじゃ」

「おおよ。おいちゃんの花は怒るとでっかく咲くんじゃ。餓鬼どもあんまりおいちゃんを怒らすな。こん花は餓鬼の血ば吸うてでかなるんじゃ」

「嘘ぞー」


 子供たちと世話役はぞろぞろと社へ移動していった。五年に一度のヨイガシが始まるのだ。男は、遠くから聞こえる鼓や笛、そして大勢の人間の声の塊から隔てられた閑静な棚田の畦道に、懐かしさを感じながら、再び一人で立っていた。

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