冥界解明迷宮 ~朝顔の棘~

新出既出

1.迷宮

 全国ツアーの最終日、彼女たちはカラフルなバニーガールみたいなコスチュームの耳をしきりと気にしていた。僕はステージスタッフアルバイトとして舞台袖にいて、さまざまな物を号令一つで出したり引っ込めたりする仕事についていた。開演ブザーが鳴り、大歓声が起こった。その時、僕は、幕の襞に隠れるように垂れ下がっているロープの輪を見つけた。前奏が始まっていた。僕は、慌ててロープを掴むと、思い切り背伸びをした。その下を、彼女たちの耳が跳ねていった。そんななか、一対の兎の耳が僕の顎を撫でた。一瞬ではあったが、その時確かに、彼女は僕に目配せをくれた。僕は三ヵ月ぶりに彼女と目をあわせることが出来たのだった。会えなかった期間が、薄い透明な板の重なりみたいになって重さを無くしていった。



 そのゲームは『冥界解明迷宮』という。二人一組で、鍾乳洞の地下迷宮を攻略するというものだ。エスケープルートは無いらしく、生還率は30パーセントに満たない。残りの70%以上の人々は迷宮をさまよい続けており、いつしかそこで職につき、地下でしか通用しない通貨を得て、生活を始めているともいう。身内から捜索願いが出されているという話もちらほらとあるのだが、参加誓約書の署名があるので、警察が介入することも出来ないらしい。数名の刑事が潜入捜査と称してゲームに挑んだというが、彼らも結局地下の住人となって久しいともいう。


 なぜ、彼女がこのゲームに参加したいと思ったのかは分からない。参加者リストは公開されており、そこに彼女の氏名が載ったのが引退会見の翌日のことだったため、ワイドショウのネタになった。巷間の興味の中心は、彼女が誰をパートナー選ぶのかだったが、テレビでは、彼女の電撃引退と、その直前に暴かれた、ある俳優とのスキャンダルとの関連を、下世話に嗅ぎ回ってばかりいた。


 僕が彼女との約束の17時に30分ほど遅れて『冥界解明迷宮』の入口に到着した。人だかりの中からようやく見つけた彼女の傍らには、知らない男がいた。僕は男を見てすぐ「負けた」と思った。それは例の俳優では無かった。それはそうだろう。あっちはまだ芸能活動を続けていくのだろうし、今回の件が、そちらサイドからのリークだというのは、既に公然の秘密となってもいた。あの俳優にとっては、スターになる可能性を捨てて、光の無い地下迷宮へ挑むなんて馬鹿げたことだという以前に、選択肢にすらならなかったろう。テレビカメラでも付いてくるのならば別だが、その時には、地下迷宮らしいセットをスタジオに組むに違いない。このゲームに参加しようという二人の間には、現世のどんな絆とも違う強靱なものが通っていなければならないのだと思う。その入口に、彼女は、痩せこけた白髪の男と立っていたのだ。


 僕はあのくたびれた男のどこに負けたというのだろう。男はひどく猫背で、ボサボサの白髪が顔の大半を隠していて、膝が曲がり、ガクガクと震えていた。何の生気も感じられない、しなびた男。そんな男を遠くから見ただけで、僕は、敗北を認めたのだった。


 彼女のように華やかでかわいらしい子が、僕とつきあってくれていた事が奇跡だったのだ。年齢、学歴、年収、顔だち、視力、身長、体力、職歴、どれをとっても、中の下というランクに納まる僕にとって、唯一飛び抜けていたのが彼女だった。僕が、こんなことを口にすると、彼女はきまって「あなたのいいところは私が知ってるから、いいの」と言ってくれた。付き合いはじめた頃の僕は、そんな彼女に引け目を感じたものだ。でも一緒にいる時間が長くなるにつれて、僕は彼女に対して安心できるようになっていった。


 やがて彼女がデビューして、僕は陰の存在になった。テレビや雑誌で彼女を見るという生活を続けていくうちに、僕の劣等感は再び募っていった。彼女が仕事で疲れたり、悩んだりしている時に近くにいられないというのが、何よりもこたえた。一緒にいる時間の量だけが、僕と彼女とを結び付ける唯一の証だったのだと、その時には思っていた。


 全国ツアーを終えてからも彼女はあいかわらず忙しく、メールのやりとりすらできない日々が続いていた。僕は、彼女と二人きりでいるときにだけ存在することができたが、そのとき世界は彼女を失い、彼女は世界を失ってしまう。そんなこと、僕一人の存在であがなえるものではないだろう。


 ほどなくして、週刊誌が彼女のスキャンダルを報じた。相手は、僕ではなかった。彼女が初出演した映画に準主役で出ていた俳優だ。僕は「負けた」と思った。

 写真は男の車から彼女が降りるところ。車を止めた男が、待っていた彼女の肩を抱いて男のマンションのエントランスへ入っていく所。そして明け方、スエット姿の二人がマンションから出て車に乗り込む所だった。僕は雑誌を買って、それをぐちゃぐちゃに丸めてごみ箱に放り込み、それからまたごみ箱から拾い上げて、そのページを破り捨てて、またその破ったページを机の上で広げてみたりした。ワイドショウが彼女の話題を始めると、即座に別のワイドショウにチャンネルを変えて、またそこでも彼女の事に触れられるとすぐに、別のチャンネルに変えてみたりした。雑誌は復元できないほど細かく千切った。ワイドショウが終わると、僕はチャンネルをあちこち切替えて、今度は彼女の話題を扱っている番組を探し始め、見つからないと分かると、録画していたワイドショウを見た。雑誌の切れ端が入ったゴミをコンビニのごみ箱に捨てにいくついでに、新しい雑誌を二三冊買ってきたりもした。月曜日に記者会見が開かれるとテレビでは言っていた。僕はその会場にもぐりこむ方法を考え続けた。


 記者会見の席上、彼女は唐突に引退を表明した。弁明する彼女の怒哀を楽しもうと思っていたレポーター達は、一瞬だけ言葉を無くしたが、直ぐに罵声と質問が飛び交いはじめ、フラッシュが間断なく焚かれた。そこにマネージャーが駆け込んできてこけた。テーブル上にあったガラスの花瓶が落ちて砕けた。「本日はこれで会見を終了いたします」だがそんな一方的な宣言を聞き入れるレポーター達ではなかった。最前列に座っていたレポーターは、転がっているマネージャーを介抱するふりをしながら「続けないと、四年前の封印破っちゃうよ」などと脅していた。場内は騒然としていたが、彼女は大きな丸いサングラスをかけたまま、正面を見据えていた。


「引退は今回のスキャンダルと関係があるんですか?」


 どさくさに紛れて僕はそう怒鳴った。会場が静まり返った。彼女はサングラスを外して僕の顔を見つめた。会場全体が固唾を呑んで見守る中、彼女の頬を一筋の涙が流れた。ストロボが彼女の涙をひときわ美しく輝かせていた。「それではこれで終了させていただきます」

 顔が血で染まったマネージャーが、彼女の前に立ちはだかり、会見は終わった。


 僕はうれしかった。彼女は僕のところへ戻ってくるために、仕事をやめると言ったのだと思ったからだ。何故そんな虫のよい事を一番に思いついたのかといえば、結局それは僕の望みだったからなのだろう。彼女の涙は、僕の質問に対する抗議だったのだと思った。彼女の前に這いつくばって許しを乞う自分を思い浮かべ、その幸福に涙がこぼれた。



 その翌日、僕は、久しぶりに、彼女と、ペントハウスで一日を過ごした。

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