#38 730ーBU04
午前9時。銀バス、井の頭営業所。
今日は作業があるから午前中に営業所に来てほしいと前から言われてたが、何の作業をするのかは聞かされていない。
まぁ、恐らく路線会議ではないだろう。板金の手伝いかちょっとした事務作業の手伝いになるんだろうな。
そんなことを考えながら営業所の事務所に入り、中で事務作業をしている運行管理者に挨拶を交わす。
すると、ちょうど事務所内に小汚ない作業着を着たもっさりヘアのおっさん、整備課担当の瀬戸山さんが声をかけてきた。
「おっ、来やがったなぁ~! さっそく簡単な作業をやってもらいたいから作業着に着替えて工場に来てくれ!」
「……へい」
うん。呼んでおいて来やがったはあんまりだと思うんだよ。
ここは俺の好きな場所だし何度来ても飽きないけど、本当は休みの時ぐらいは家でのんびりとしたかったんだよ。
……言わねぇけど。
「瀬戸山さん。あんたもう50前半なんだから省吾くんが来る度に上がるそのテンション落ち着かせた方がいいじゃない? もう年なんだから体に障るよ?」
「うっせ! 人のことを年寄り扱いしやがって。あんまそんなこと言ってるとお前のオンボロ
「はっ!? やめて、やめてください。それだけは勘弁してくださいっ!」
年寄り扱いされた腹いせに定期点検の打ち切り宣言をする瀬戸山さんに、それを懇願するように止めに入る運行管理者及びドライバーの
ちなみに、この人の担当車両は一昔前に走っていたタイプの3ドア車。
他の地域はどうか走らないが、都内を走るほとんどのバスが運転席の横にある前ドアと車体の中央部分にある中ドアの2ドアが主流になり、バス停もそれに合わせてガードレールや点字ブロックなどが設計されている。
3ドア車の需要はなくなり、最後の一台を中古販売に出そうと話し合っていると担当を希望したのが廃車になるのを必死になって止めるこの男、天願さんだったらしい。
都内で唯一と言っても過言じゃない3ドア車は通常の運行中は前ドア、中ドアしか使ってないが、終点でバス停に車両をちゃんと寄せることができなかった場合、若しくは予定している時間より大幅に遅延が発生し、
他にも、行先表示が巻き取り式である方向幕なのが最高なんだとも言ってたな。
つまり、この人もバス好きの人間の一人である。
そんな二人の会話を尻目に、俺はロッカールームにまで足を運び、瀬戸山さんに言われた通りに作業着に着替えてると、さっきまでぎゃーぎゃー騒いでいた瀬戸山さんと修理工場へと足を運んだ。
「ここに幅1メートルのテトロンフィルムの長尺幕がある。これで方向幕を作ってくれ」
テトロンフィルム―――白無地でフィルム素材の長幕と作ってほしいとのこと。
順番と配列の見取り図が用意されていて、他にも速乾性のあるスプレータイプのりと、貼り付けてゆっくり剥がせば貼りたい箇所だけがきれいに残る印刷済みのカッティングシールが用意されていた。
おふ……。時間と手間がかかる仕事が舞い込んできた。
てか、方向幕だって言ってたよな? 下手な貼り方をしたら見映えが悪くなるし、表示する枠内に納めなきゃならん。
えぇー……。スゲー手間かかるし時間かかるし神経使うじゃん……
「急ピッチとは言わねぇができるだけ作業は進めてくれ。できるとこまでで構わん。後で俺がまた呼びに来るから、その時点でこの作業は終了でいい」
なるほど。あまり急がずノルマも無いとなればこちらとしても伸び伸びとできる。
気むずかしく考える必要はなさそうだな。
「んじゃ、後は任せたぞ~」
「……へい」
背中を向け呑気な声で軽く手を上げながら工場を後にする瀬戸山さんを見送って、再び方向幕の設計レイアウトに視線を向ける。
最初は“故障”から始まって……思うんだけどこの故障の表示って必要なの? 要らなくね?
まぁ別にいいんだが。
その他には……
“試運転”“貸切”“修学旅行”“臨時”“回送”と続いてて……
次は本格的な行先表示になるわけだが、これはいったい何コマ―――
この時、俺はこのレイアウトを見て絶句した。それと同時にまんまと騙されたと本気で思った。
行先だけで120コマ分はある。ってことは最初に見た故障から回送までの分を入れると、約126コマは少なくとも作んなければならない。
確かに瀬戸山さんの言うとおり貼って剥がすだけの簡単な作業だ。だが、手元が狂えば形は歪になるし見栄えも悪くなる神経を使う作業。
一つの
「はぁ~……」
誰もいない整備工場内で盛大にため息を吐いて方向幕の作製に取りかかることにした。
# # #
方向幕を作製するに当たって不明なことが一つ浮上した。
今の時代、ほとんどのバスがLED化が進んでいて、今となってはカラーLEDが登場し普及している中でのこの方向幕作製。
何で今さら巻き上げ式の方向幕を作ろうと思ったんだろうか。
まぁ、何か考えがあるんだろう。
巻き取り棒に方向幕を固定して、枠などを簡単に作ってからカッティングシールをキレイに張り付けて巻き取っていく。
そんな行程を何度も繰り返していると、気がつけば120以上あったコマは気がつけば残り5コマにまで減っていた。
あれ? これ以外と今日中には終わりそうだな。
だが、下手に急いでやると汚くなるからここは慎重に作業を進めなければならん。
「へぇ~。バスの行先のやつってこうやって作られてるんだね~」
「直接印刷されてるのかと思ってたけど、まさか一つ一つ手作業で作られてるとは思わなかったわ」
「しかも、それを作ってるのがシーマンだなんて驚きでしかないよ」
おかしいな。俺のことをシーマンって呼んでるやつは学校では美浜、銀バスでは本社の井上部長しか知らんはずだけど……
誰だよ。ここの営業所でもそんな変なあだ名を広めたやつ。絶対色んな運転手に笑われるやつじゃねぇか。
つか、さっきから視線をスゲー感じるんだが……
そう思い恐る恐る振り返ると、乗合研究部のメンバーが俺のすぐ後ろに立っていた。
「うひょっ!?」
ビックリしすぎて変な悲鳴あげちまったよ。
つか、何でこいつらこんなに近いんだよ。顔とかすぐ近くにあったからドギマギしちゃったじゃねぇか。
「塩屋くん。そんな汚い悲鳴を上げないでくれるかしら? 塩分大量に摂取して私の血圧が上がったらどうしてくれるの?」
「俺人間だからね? 調味料の塩じゃないからね? あと、それはお前の生活習慣が悪いから改善しろとしか言えねぇよ」
あと、汚ない悲鳴ってどんな悲鳴だよ。
確かにキモかったけど……
「シーマン、その作業あとどれぐらいで終わりそうなの?」
「まぁ30分くらいあれば終わるんじゃねぇか? あんまり急いでやっても汚くなるだけだからな。慎重にやんねぇと……」
「あら。あなたが存在しているだけで確実に汚れていくことは確実よ? ほら、埃とか」
「俺はハウスダストじゃないからね?」
それより、何でこいつらは会社のジャンパーを着てるんだろうか。
見るからに暑そうなんだけど。
そんな事より、こいつらがジャンパーを着ている以上の疑問が今浮上しているわけで。
「……で、何で野矢先輩がここにいるんですか?」
「何でいちゃダメなのっ!? 同じ部活仲間じゃんっ!」
いや、ここは部活関係ないからね?
「先輩、ここでは遊べませんよ? あなたの居場所はここじゃないですよ」
「別に遊びに来たんじゃないよっ!?」
先輩の話だと三ノ輪達と吉祥寺駅で合流してそのままここまで来たんだとか。
社会見学を名目にして一緒に立ち入らせてもらったらしい。この件は本社の井上部長と、ここの運行管理者の天願さんから許可を得ていた。
いや、許可しないでくれよ。俺が疲れちゃうじゃん。
方向幕最後の行先を貼り付け、キレイに巻き取れば全ての作業が終了。
疲れた。無茶苦茶神経使った。
もう今すぐ帰りたいです。
「作業がようやく終わったようね。では、食堂にでも行きましょうか」
「いいねっ! 私お腹すいたよ」
「バス会社の食堂って始めてだから緊張するな~。しょーくん色々と助けてねっ♪」
「他の飲食店と何も変わんねぇよ……」
食堂に入ってそれぞれ食べたいものを注文し食べ進めていると、瀬戸山さんが食堂に顔を出した。
ご飯食べ終わったら俺のとこにまで来てくれとのこと。
今度は何の仕事を押し付けられるんだろうか。そんな不安を抱きつつもすぐに食べ終わらせ瀬戸山さんがいる事務所に向かった。
瀬戸山さんと合流すると、ついてこいと言われて車庫内を一緒に歩いていると銀色に塗装された見慣れない車両がポツンと停められていた。
「おぉ……! これは―――っ!」
「なんだ。お前知ってたのか。こいつはBU04だ」
目の前に止まっているバスは大手トラック製造会社が製造していた大型バスの一つで、車体は丸くめに作られているのが特徴であり、1972年式とかなり古いタイプになる。
別名、モノコックバスだ。
名前の由来は“モノコック構造”と呼ばれるフレームの替わりに鉄板などの外板だけで強度を得られるように設計されたことから、マニアの間でそう呼ばれている。
より高い強度を得るためにボディに丸みを持たせてあるのに加え、鉄板の張力を高めるために“リベット”と呼ばれる釘みたいなのものが数多く打たれているのも特徴の一つだ。
これに対して現在のバスは、鉄骨で車体の骨格を作り、そこに外板となる鉄板を張っていく“スケルトン構造”が主流となっている。
モノコックバスは、外板の厚みとリベットが多用されていたことから軽量化にもそれなりの限界があり、窓や扉を大きく取ることが技術上困難だった。
それに、車体が重ければ重いほど燃費も悪くなる事実がある。
そのため、軽量化に成功した今のバスが主流となり、モノコックバスは徐々に衰退していくことになったわけだ。
今では現役で走っている姿は関東ではまず見られないし、国内でも限られた場所でしか見れないだろう。
唯一、沖縄でも長年走り続けていたが、運営会社が変わってその会社の方針で
知ってるも何も俺が小学時代まで現役で走ってたバスだ。このバスのエンジン音が好きで狙って乗ってたこともあったぐらいだ。
ちなみに、このバスは沖縄で捨てられているのを譲り受け、東京まで輸送したあと
「何かすっごく古そうなバスだね!」
「これって他の場所にも走ってるの~?」
「走ってはいるが場所は限られるだろうな。国内でも数台しか現役で走ってないって話だぞ」
始めて見るタイプのバスに『へぇー!』と声を揃えて目を輝かせる美浜と野矢先輩。
三ノ輪に関してはいつの間にか小型のデジカメを手に取り、少し離れた位置からパシャパシャと写真を撮っていた。
……俺も後で写真撮っておこう。こんな激レアな車両をお目にかかれるなんてなかなか無いぞ。
「おーい。そんなとこで話してないで早く乗ってくれ」
既に先に乗り込んでいた瀬戸山さんにそう急かされ俺たちは急いでバスに乗り込んだ。
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