第28話 高橋入道
統虎は宝満山城に戻ると、すぐさま父に献言した。
「今すぐあの城を攻め落とすべきです!」
が、紹運は、
「それこそ、愚か者のすることだ」
「なっ!」
「想像しろ。そんなことをすれば、島津や龍造寺、秋月らに道雪殿の死を知らせるようなものだ。第一、我らの手勢だけで簡単に落とせる城ではない」
父は、息子の取り乱しように内心苦笑せざるをえない。
(しかし、この倅……。あの娘に手玉に取られて完全に正気を失っておる。それほど憎いのかな)
高橋父子と家臣ふたりは屋形内にしつらえてある茶室にいた。草庵風のものではない。あくまで屋形の一室を茶室風につくりかえたものだ。
落ち着かせるために、
だが、当の受け手は口をつけようともしない。
逆上している息子に道理を説くことにした。仕方なしに。
「あの娘は、そなたを殺さなかった。それだけでも良しとすべきだろう」
「されど!」
「若殿、ここは」
世戸口十兵衛が割って入り、慌ててそのときの状況を説明した。
紹運は、端坐し瞑目している。張りつめた緊張感が漂っていた。そして重い口を開く。
「それで……。冷静さを失い終始相手に主導権を握られていたというわけか……」
十兵衛はうつむいたまま返答すらできずにいる。兵法の
「
紹運の言う「致人而不致於人」とは、《戦の上手い人間は相手を自分のペースに乗せ、自在に操る》ぐらいの意味である。さらに白文では、《それには相手に利益を見せ、あるいは不利益を示せ》と続き、
(まさしく善く戦う者だ……)
この猛将はこれまで、戦場での誾千代の采配をじかに見ているため、彼女の指揮官としての才能を高く評価せざるをえないのだ。
戸次道雪の生存に疑義を持っていなかった紹運は、今まで父道雪が軍の統率をしていると思っていた。だが違った。これまで数度の戦いを指揮していたのは、あの美しい
高橋三河入道は驚愕している。その軍事的天才を認めざるをえないことに。
そのことを今、この嫡子に打ち明けた。
「くっ!」
「それほど悔しいのか?」
それは悔しい、なぜなら統虎はまだ初陣すらしていない。なのにあの女はすでに軍を自在にあやつる術まで身に着けているのだから……無念さを押し殺して口を開いた。
「いいえ」
「……無理はいかんよ。今のそなたではあの者には勝てん」
「⁉……」
「精進するのだ、勝ちたいのなら……。それにしても、そなた大層嫌われたものだ……太郎ならどうかな」
「父上!」
「冗談だ。そう必死になって怒るな……」
統虎は、父の言いようが不服であったが、認めざるを得ない。自分には無い政略の才をまざまざと見せつけられた思いがして無性に腹立たしかった。しかも、体よく城から追い出されたおのれは全身から汗がふきだすほどに惨めだ。このことが世間に知られれば後の世まで物笑いの種となろう。
紹運は唸った。
(この分だと、用意周到に策をめぐらしていることであろう。……道雪殿、良き跡継ぎを育てられたな。それにしても、まだ
また、傷ひとつ付けずに我が子を送り返したところも抜け目がない。細部にわたって綿密に計算し尽くしている。このメッセージを息子に託してよこした人物が戸次道雪ではなく、その忘れ形見という事実は紹運を震撼させた。決して甘く見ることはできない相手である、と肝に銘じることを強いられる結果になった。
部屋にはすでに
誾千代は、
まさに善美をつくした調度品であった。南蛮漆器という。当時南蛮商人がその美しさに魅惑され買い集めた。
誾千代の南蛮漆器は亡き父から
(問うてみても……)
この頃よくそう思う。深い後悔にさいなまれている。なんと言ってもまだ十三歳なのだ。普通の大名の娘なら、まだ父母にかしづかれている年頃である。亡き父が恋しくないはずがないではないか。
この南蛮漆器は誾千代にとって、金銀宝珠にもまさるものだ。
「若くてみずみずしい御髪ですこと……。おなごに
侍女頭の声が少女を追憶から呼び覚ました。
「……男に
芳野には誾千代の問いが新鮮だった。
「ふふ……。そういう訳ではございませんが、二十も半ばともなれば色々とあります」
「……そうか……わたしには、まだ分からないことだ。……が、心得ておこう」
「下世話にも申すではありませんか……。年には抗えぬ、と」
「そう悲観したものではないよ、芳野」
誾千代は自身の髪を丁寧に梳いてくれる学問の指南役の面輪を見ていた。鏡越しに視線をうつした。
「まぁ……。お上手ですこと……」
「……そういう言葉は男に使ってやってくれ……」
困ったような顔つきとなった少女は、言い寄る男も多いこの侍女頭が、それらをやんわり断りつづけているのを知っている。そんな大人の魅力をみとめていったのだ。
芳野は、こんな小さなことで困ったような態度を見せてしまう誾千代を可愛いと思う。
「
「
芳野は、誾千代の髪を
「さぁ、
誾千代は、師に苦笑を返す。
「
芳野は、眉をひそめた。
「言葉遊びもほどほどになさいませ……そのようなことを軽々しく。……世評も煩くなりましょう」
「……わたしは、郷原には興味がない」
都から下ってきたこの寡婦は、少女の
本朝の古典などは、言うにおよばない。
(……やはり孝子様をお連れするのだった。臼杵にいるよりこちらにいらした方がやすく過ごして頂けたような気がする……)
誾千代は、あの深窓の姫君を腕づくでも立花山に連れ去るべきだった、という未練が心にかかってはなれない。部屋の隅の二階厨子のうえに、小さな
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます