第28話 高橋入道

 統虎は宝満山城に戻ると、すぐさま父に献言した。

「今すぐあの城を攻め落とすべきです!」

 が、紹運は、

「それこそ、愚か者のすることだ」

「なっ!」

「想像しろ。そんなことをすれば、島津や龍造寺、秋月らに道雪殿の死を知らせるようなものだ。第一、我らの手勢だけで簡単に落とせる城ではない」

 父は、息子の取り乱しように内心苦笑せざるをえない。

(しかし、この倅……。あの娘に手玉に取られて完全に正気を失っておる。それほど憎いのかな)

 高橋父子と家臣ふたりは屋形内にしつらえてある茶室にいた。草庵風のものではない。あくまで屋形の一室を茶室風につくりかえたものだ。

 落ち着かせるために、唐物からものの青磁を統虎のまえにおいた。みずからてたものである。こうばしい芳香が室内をみたした。茶碗には、ほのかに甘い緑の水泡が数かぎりなくたっている。

 だが、当の受け手は口をつけようともしない。

 逆上している息子に道理を説くことにした。仕方なしに。

「あの娘は、そなたを殺さなかった。それだけでも良しとすべきだろう」

「されど!」

「若殿、ここは」

 世戸口十兵衛が割って入り、慌ててそのときの状況を説明した。

 紹運は、端坐し瞑目している。張りつめた緊張感が漂っていた。そして重い口を開く。

「それで……。冷静さを失い終始相手に主導権を握られていたというわけか……」

 十兵衛はうつむいたまま返答すらできずにいる。兵法の精髄せいずいを極めた、まさに水も漏らさぬ詭計をめぐらせていたのだ。

ひとをいたしてひとにいたされ、『孫子』だな。……鮮やかな手際だ。よく考えろ、あの者……並々ならぬ才ぞ」

 紹運の言う「致人而不致於人」とは、《戦の上手い人間は相手を自分のペースに乗せ、自在に操る》ぐらいの意味である。さらに白文では、《それには相手に利益を見せ、あるいは不利益を示せ》と続き、別篇べつへんにおいて「善戦者、勝於易勝者也」と心得よと説く。つまり、名将というのは無理な戦はしない。後世にもて囃されるような勝利は最善の勝利とはいえない、勝って当然という状況を作り出すのが名将だ、というのである。

(まさしく善く戦う者だ……)

 この猛将はこれまで、戦場での誾千代の采配をじかに見ているため、彼女の指揮官としての才能を高く評価せざるをえないのだ。

 戸次道雪の生存に疑義を持っていなかった紹運は、今まで父道雪が軍の統率をしていると思っていた。だが違った。これまで数度の戦いを指揮していたのは、あの美しい衣裳いしょうを身に纏っていた少女であったのだ。

 高橋三河入道は驚愕している。その軍事的天才を認めざるをえないことに。

 そのことを今、この嫡子に打ち明けた。

「くっ!」

「それほど悔しいのか?」

 それは悔しい、なぜなら統虎はまだ初陣すらしていない。なのにあの女はすでに軍を自在にあやつる術まで身に着けているのだから……無念さを押し殺して口を開いた。

「いいえ」

「……無理はいかんよ。今のそなたではあの者には勝てん」

「⁉……」

「精進するのだ、勝ちたいのなら……。それにしても、そなた大層嫌われたものだ……太郎ならどうかな」

「父上!」

「冗談だ。そう必死になって怒るな……」

 統虎は、父の言いようが不服であったが、認めざるを得ない。自分には無い政略の才をまざまざと見せつけられた思いがして無性に腹立たしかった。しかも、体よく城から追い出されたおのれは全身から汗がふきだすほどに惨めだ。このことが世間に知られれば後の世まで物笑いの種となろう。

 紹運は唸った。

(この分だと、用意周到に策をめぐらしていることであろう。……道雪殿、良き跡継ぎを育てられたな。それにしても、まだよわい十三か……末恐ろしい)

 また、傷ひとつ付けずに我が子を送り返したところも抜け目がない。細部にわたって綿密に計算し尽くしている。このメッセージを息子に託してよこした人物が戸次道雪ではなく、その忘れ形見という事実は紹運を震撼させた。決して甘く見ることはできない相手である、と肝に銘じることを強いられる結果になった。


 灯影ほかげゆらめく寝所。

 部屋にはすでにしとねが敷かれている。

 誾千代は、鏡台きょうだいのまえで正座していた。芳野に髪をかせていた。湯殿で女たちにかしずかれ白の寝間着姿となっている。黒漆で仕上げられた鏡台には、蝶の螺鈿らでん杏葉ぎょうようの金蒔絵がほどこされている。引き出しが三段ほどついており、引き出しのなかは丹漆が、表面は黒漆が塗られていた。そのつやめいた黒漆のなかに小ぶりな夕顔の花やしなやかな蔓葉の金蒔絵がまるで一幅の絵画のごとくちりばめられている。

 まさに善美をつくした調度品であった。南蛮漆器という。当時南蛮商人がその美しさに魅惑され買い集めた。

 誾千代の南蛮漆器は亡き父から袴着はかまぎの祝いとして贈られたものだ。今となっては父が『源氏物語』にでてくる「夕顔」のような女性に育って欲しいと願っていたか確かめることすらかなわない。誾千代はそれを父に問うたことはなかった。問うても詮無いこと、と思っていた。だが、誾千代をことのほかいつくしんでくれた父である。大きな手で抱きあげてくれたときの笑顔がいまだに忘れられない。

(問うてみても……)

 この頃よくそう思う。深い後悔にさいなまれている。なんと言ってもまだ十三歳なのだ。普通の大名の娘なら、まだ父母にかしづかれている年頃である。亡き父が恋しくないはずがないではないか。

 この南蛮漆器は誾千代にとって、金銀宝珠にもまさるものだ。

「若くてみずみずしい御髪ですこと……。おなごに妬猜とせいさせるような……」

 侍女頭の声が少女を追憶から呼び覚ました。

「……男にとつぐと髪がすたれるのか?」

 芳野には誾千代の問いが新鮮だった。

「ふふ……。そういう訳ではございませんが、二十も半ばともなれば色々とあります」

「……そうか……わたしには、まだ分からないことだ。……が、心得ておこう」

「下世話にも申すではありませんか……。年には抗えぬ、と」

「そう悲観したものではないよ、芳野」

 誾千代は自身の髪を丁寧に梳いてくれる学問の指南役の面輪を見ていた。鏡越しに視線をうつした。

「まぁ……。お上手ですこと……」

「……そういう言葉は男に使ってやってくれ……」

 困ったような顔つきとなった少女は、言い寄る男も多いこの侍女頭が、それらをやんわり断りつづけているのを知っている。そんな大人の魅力をみとめていったのだ。

 芳野は、こんな小さなことで困ったような態度を見せてしまう誾千代を可愛いと思う。

遺言いごんを履行していないという意味では、不孝をしていることになりますね。泉下の御父上様はどうのように……」

玄元げんげん聖祖せいその五千言ごせんげん……。……わたしは劉徹とはちがって、王子喬おうしきょうとなる望みはもたぬから、遠からず詫びることになるだろう。……今は許して頂くしかないな……。わがこころいしにあらず……引き返すことはない…………我が房杜ぼうととなってほしい」

 芳野は、誾千代の髪をきながら、

「さぁ、駑馬どば愚蒙ぐもうの身にはとても……。されど……せめて、鎮西を平らげて手向けとなされたら……」

 誾千代は、師に苦笑を返す。

ようなん使めんせしむべし……………壮王のひそみに倣うか」

 芳野は、眉をひそめた。

「言葉遊びもほどほどになさいませ……そのようなことを軽々しく。……世評も煩くなりましょう」

「……わたしは、郷原には興味がない」

 都から下ってきたこの寡婦は、少女の師傅しふにして、一度目を通せばどんな漢籍でもそらんじることができ、二度読む必要はない。たぐい稀な、冠絶の頭脳をもつ女人であった。誾千代は、この碩学から学び、『四書五経』(儒家)『荀子』(儒家)『韓非子』(法家、韓)『貞観政要』(李世民、唐)『史記』『戦国策』『十八史略』『孫子』(兵家、斉、呉)『呉子』(兵家、魏、楚)『六韜』『三略』(呂尚、周、斉)『司馬法』(司馬穣苴、斉)『尉繚子』(尉繚)『李衛公問対』(李靖、唐)、代表的な漢籍はすでに読破している。『陶淵明』『李白』『杜甫』『王維』『白居易』らの詩も、ほぼすべて暗誦できる。馬を走らせている所在無いつれづれのときに、古の詩人たちの作を沈吟するのも愉しい。

 本朝の古典などは、言うにおよばない。

(……やはり孝子様をお連れするのだった。臼杵にいるよりこちらにいらした方がやすく過ごして頂けたような気がする……)

 誾千代は、あの深窓の姫君を腕づくでも立花山に連れ去るべきだった、という未練が心にかかってはなれない。部屋の隅の二階厨子のうえに、小さな鈿合でんごうあり、となりに香炉がおいてある。可憐な姿が、孝子とかさなった。

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