第2話 花霞

 ふっと息を吐いた。

「やぁ!」

 誾千代の品のある低い声が、あたりに響く。

 あぶみをきゅっと踏みしめて、馬を走らさせた。つややかな黒髪が、ゆるやかにひるがえる。狩装束かりしょうぞくをとおる風の感覚は何にもまして心地よい。

(……こうでなくてはな。城から出たのは正解だった)

 足をくれ、黒鹿毛くろかげの速力を一気に上げた。それを追尾するように、十数騎があとにつづく。

 風にのった髪は絹糸のようになめらかに流れ、ときおり姿をあらわす耳は小ぶりで、可憐な横顔は大人になりきれてないが、白雪のような肌によって輝いている。

 切れ上がったまなじりと軽くむすんだ唇にちりばめた微笑は、この乱世にどこか期待をかけているようにもみえる。ほっそりとした腰をしゃんと立て、驪馬れいばをあやつる。

 風を斬り裂いて突き進むことに高揚した気分。自然、詩を口ずさむ。

胡馬こばだい大宛えんのなあり

 鋒稜ほうりょう痩骨そうこつなる

 竹批たけそぎて双耳そうじそばだち

 風入かぜいりて四蹄していかろし

 所向むこうとこ空濶くうかつなく

 真堪しんにしせいをたく死生するにたう

 驍騰ぎょうとうなること如此かくのごときあれば

 万里ばんりも可横行おうこうすべし

 天生の麗質は隠し難い。華やかに装ったいにしえの美姫、みな動揺し、恥ずかしさのあまり、花のかんばせを袖で覆い隠す。李武后もかくや、と思わせる美貌であった。

 少女は、手綱たづなの手触りの楽しんでいる。昨日さくじつ、新調したものだ。

「今日は、どこまで行くおつもりです?」

 少年の声が、うしろから追いかけてきた。

「愚問だな……忠三郎ちゅうざぶろう。そういうありふれた質問は愚か者のすることだ」

 前方をするどく瞻視せんししたままの誾千代は、そう言った。

(思うようにするさ)

 心のなかでそう語る誾千代の眼前に、筑前のパノラマが広がる。緑が、新鮮な香りを醸しだしている。昨夜降った雨が影響しているのだ。

 この筑前の国は、現代でこそ政令指定都市の福岡市を中心に人口が密集し、大都市圏を形成している。

 しかしいまは、太宰府や博多など一部の例外はあるものの、そのほとんどは、ごうと呼ばれる律令制度下の末端行政単位のもとに構成されていた小集落群から発展した郷村ごうそん(畿内周辺では惣村)であるが、それも現代の市町村とは比べものにならないほど家屋の密集度は低い。

 現代の総人口は1億3000万人弱で、この桃山時代の総人口が1500万人、しかもその十分の一ほどの人口のほとんどが大都市。つまり京都、堺や博多、あるいは大名の城下町や寺内町、門前町や湊町に集まっているのである。それ以外の鄙びた土地の人影の寂しさは容易に想像できる。

 そのため、人馬の往来も少なく人家もまばらであった。もちろん、道路は舗装されていない。だから、雨が降れば、泥濘ぬかるみが生じて人々の交通は不便となる。それは、一般の通行人にかぎらず、馬借ばしゃく車借しゃしゃくといわれる運送業者にも影響を及ぼした。

 雨は、恩恵ばかりをもたらすものではない。

 誾千代は、器用に馬をあやつって泥濘ぬかるみを跳躍させる。

「……おおっ……」

 あとにつづく忠三郎たちは、感嘆の声をもらした。

 が、その称賛を気にも留めずに誾千代は走りつづける。

(……狩りの前に……。……嫌なことはかたづけておくか)

 ちらりとある人物を思い出した。

 その人物は、誾千代の幼年期における学問の師で、太宰府の北方二里ほどのところにある寺の住持じゅうじをしていた。徒然草を記した吉田兼好のようなやさしい面差しの老僧である。

 真紅のすね当てと頬貫つらぬきが黒い腹を打つ。少女の青驪せいりが疾駆し、速力がさらにあがる。

「……太宰府にゆく。遅れるなよ、忠三郎」

 その一言で少年には、あの寺だな、と察しがついた。

 歴史的に言えば、大宰府である。が、 誾千代は地名としての太宰府を言っている。

 大宰府とは、かつてからとの外交を担っていた朝廷の出先機関である。また、九州全土と周辺三島を統括する行政長官の御座所でもあった。が、今では往時おうじの面影は、なくなっている。

 有名なのは、菅公(菅原道真)が流罪に処された場所であるということだ。そのとき残した和歌は、世に広く知られている。花山院が撰進させた拾遺和歌集に、悲哀とともにつづられた。

 それから、およそ四百年後の南北朝時代には、足利氏と敵対した南朝方の拠点となった。しかし、それも長くは続かなかった。北朝方司令長官の今川了俊いまがわりょうしゅんに敗北し、南朝方は衰退の一途をたどったからだ。

 太宰府に行く誾千代の胸は、少しざわついていた。

「前髪が、少し……うるさいな」

 誾千代はひとりごちた。

「なにか、おっしゃいましたか?」

 忠三郎だ。

「……気にする必要はないよ。……放っておけばいい」

「そうですか……」

 忠三郎の瞳は、前方を駆ける誾千代の姿を終始とらえていた。

(……いい香りだな。……あぁ……。誾千代さまのものか……)

 それは、誾千代の香りであった。

 香炉で沈香じんこうくゆらせてそれを愉しむような、特に、青公家あおくげ女房にょうぼうどものするようなことは嫌いであった。しかし、父には逆らえないため、着用している純白の直垂ひたたれ小袴こばかまなどからも、馥郁ふくいくたる香りが溢れるようにただよう。

「城督としての覚悟と女のたしなみは別物だ」

 と、つねづねさとされてきた。

 目的地につくと、誾千代は軽妙に馬をとめた。

 そして、まだ若い少女のしなやかな身体が地上に降りたった。

 供の若党わかとうに落ちついた感じのする紅色の射籠手いごてをはずさせ、手にしていた重籐しげどうのゆみもあづける。

 誾千代と十数人の供侍たちは、石段をさっと上がると、まっすぐに本堂に向かって歩いて行った。この時間、師の禅僧栄海は弟子たちと座禅をしていると知っているからだ。

 誾千代の小気味の好い足音が本堂の廊下に響く。

「誾千代どのか?」

「……ああ、そうだ。……久しいな。和尚わじょう

 その声は、老僧をいたわるようにやわらかだった。

「お待ちしておりましたぞ。御身おんみを待てども、なしの礫……。拙僧は、光源氏を想う六条の御息所みやすんどころのような心持ちでおりましたぞ」

「ふ……。御坊ごぼうの冗談も、堂に入ってきましたな」

「いやいや。決してたわむれなどでございませんぞ」

 栄海は、ゆったりと話した。

「ふふ……だが……。戯言ざれごとはその辺りにしてもらおう!」

 誾千代の残忍そうな瞳が、ぎらりと光った。

「この寺は、島津方の密偵を匿ったと聞く。返答やいかに!」

(なにっ!)

 忠三郎ら近習が太刀に手を付けて身構える。

「……そういう記憶はないが。お疑いとあらば家捜しなさるがよい」

 栄海は、落ち着き払って首をまわしている。

 が、弟子たちは違った。

「誾千代さま! これは如何なるっ!」

「騒ぐなっ! これ以上喚けば騒乱罪とうけとる。あるいは自白とみなすが、それでもよいのか?」

 誾千代の細い腕が、舞うように空を切った。

 それを見た忠三郎ら近侍たちがその場から散って、一斉に捜索を始める。

「寺のすみずみまでさがせ! しらみつぶしにするのだ! 老師……。覚悟はできておられましょうな?」

「無論のこと……。が、証拠がでねばどうなさる?」

「……そのときは、この戸次べっき誾千代の首級をさしだそう……」

 遠くでうぐいすの鳴く声がきこえた。

「山々の桜も、早晩散り始める。あなたの玉の緒のように……」

 誾千代と栄海の視線がちりちりとぶつかっている。脳裏には、栄海から教えをうけた幼き日々の記憶が走馬灯のように浮ぶ。

「これまでのご薫陶には感謝する。……しかし、裏切りを見逃すわけにはいかない」

「ふふ……。よくここまで御成長召された」

「誾千代さま! このようなものが……」

 その書面に目を通した誾千代は、かすかに眉根まゆねをよせた。

 そして、若党がもってきた少しきいみがかった奉書紙ほうしょかみを、眼前の禅僧たちに見えるように大きくひるがえした。

 彼らの顔は恐怖にふるえている。

「裏切りの証拠だ! 和尚、散り際は美しく……。そう教えてくれたのは、あなたであったはずだ」

 遙か遠くにみえる山桜が、この世の生を愛おしむように煙っていた。

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