第2話 花霞
ふっと息を吐いた。
「やぁ!」
誾千代の品のある低い声が、あたりに響いた。
(……こうでなくてはな。城から出たのは正解だった)
足をくれ、
風にのった髪は絹糸のようになめらかに流れ、ときおり姿をあらわす耳は小ぶりで、可憐な横顔は大人になりきれてないが、白雪のような肌によって輝いている。
切れ上がった
風を斬り裂いて突き進むことに高揚した気分。自然、詩を口ずさむ。
「
天生の麗質は隠し難い。華やかに装ったいにしえの美姫、みな動揺し、恥ずかしさのあまり、花の
少女は、
「今日は、どこまで行くおつもりです?」
少年の声が、うしろから追いかけてきた。
「愚問だな……
前方をするどく
(思うようにするさ)
心のなかでそう語る誾千代の眼前に、筑前のパノラマが広がる。緑が、新鮮な香りを醸しだしている。昨夜降った雨が影響しているのだ。
この筑前の国は、現代でこそ政令指定都市の福岡市を中心に人口が密集し、大都市圏を形成している。
しかしいまは、太宰府や博多など一部の例外はあるものの、そのほとんどは、
現代の総人口は1億3000万人弱で、この桃山時代の総人口が1500万人、しかもその十分の一ほどの人口のほとんどが大都市。つまり京都、堺や博多、あるいは大名の城下町や寺内町、門前町や湊町に集まっているのである。それ以外の鄙びた土地の人影の寂しさは容易に想像できる。
そのため、人馬の往来も少なく人家もまばらであった。もちろん、道路は舗装されていない。だから、雨が降れば、
雨は、恩恵ばかりをもたらすものではない。
誾千代は、器用に馬をあやつって
「……おおっ……」
あとにつづく忠三郎たちは、感嘆の声をもらした。
が、その称賛を気にも留めずに誾千代は走りつづける。
(……狩りの前に……。……嫌なことはかたづけておくか)
ちらりとある人物を思い出した。
その人物は、誾千代の幼年期における学問の師で、太宰府の北方二里ほどのところにある寺の
真紅の
「……太宰府にゆく。遅れるなよ、忠三郎」
その一言で少年には、あの寺だな、と察しがついた。
歴史的に言えば、大宰府である。が、 誾千代は地名としての太宰府を言っている。
大宰府とは、かつて
有名なのは、菅公(菅原道真)が流罪に処された場所であるということだ。そのとき残した和歌は、世に広く知られている。花山院が撰進させた拾遺和歌集に、悲哀とともに
それから、およそ四百年後の南北朝時代には、足利氏と敵対した南朝方の拠点となった。しかし、それも長くは続かなかった。北朝方司令長官の
太宰府に行く誾千代の胸は、少しざわついていた。
「前髪が、少し……うるさいな」
誾千代はひとりごちた。
「なにか、おっしゃいましたか?」
忠三郎だ。
「……気にする必要はないよ。……放っておけばいい」
「そうですか……」
忠三郎の瞳は、前方を駆ける誾千代の姿を終始とらえていた。
(……いい香りだな。……あぁ……。誾千代さまのものか……)
それは、誾千代の香りであった。
香炉で
「城督としての覚悟と女のたしなみは別物だ」
と、つねづね
目的地につくと、誾千代は軽妙に馬をとめた。
そして、まだ若い少女のしなやかな身体が地上に降りたった。
供の
誾千代と十数人の供侍たちは、石段を
誾千代の小気味の好い足音が本堂の廊下に響く。
「誾千代どのか?」
「……ああ、そうだ。……久しいな。
その声は、老僧をいたわるようにやわらかだった。
「お待ちしておりましたぞ。
「ふ……。
「いやいや。決して
栄海は、ゆったりと話した。
「ふふ……だが……。
誾千代の残忍そうな瞳が、ぎらりと光った。
「この寺は、島津方の密偵を匿ったと聞く。返答やいかに!」
(なにっ!)
忠三郎ら近習が太刀に手を付けて身構える。
「……そういう記憶はないが。お疑いとあらば家捜しなさるがよい」
栄海は、落ち着き払って首をまわしている。
が、弟子たちは違った。
「誾千代さま! これは如何なるっ!」
「騒ぐなっ! これ以上喚けば騒乱罪とうけとる。あるいは自白とみなすが、それでもよいのか?」
誾千代の細い腕が、舞うように空を切った。
それを見た忠三郎ら近侍たちがその場から散って、一斉に捜索を始める。
「寺のすみずみまでさがせ! しらみつぶしにするのだ! 老師……。覚悟はできておられましょうな?」
「無論のこと……。が、証拠がでねばどうなさる?」
「……そのときは、この
遠くでうぐいすの鳴く声がきこえた。
「山々の桜も、早晩散り始める。あなたの玉の緒のように……」
誾千代と栄海の視線がちりちりとぶつかっている。脳裏には、栄海から教えをうけた幼き日々の記憶が走馬灯のように浮ぶ。
「これまでのご薫陶には感謝する。……しかし、裏切りを見逃すわけにはいかない」
「ふふ……。よくここまで御成長召された」
「誾千代さま! このようなものが……」
その書面に目を通した誾千代は、かすかに
そして、若党がもってきた少し
彼らの顔は恐怖にふるえている。
「裏切りの証拠だ! 和尚、散り際は美しく……。そう教えてくれたのは、あなたであったはずだ」
遙か遠くにみえる山桜が、この世の生を愛おしむように煙っていた。
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