87(3)

 ――そうか。

 初めはぼんやりと、次第にはっきりと。

 ウィリアムズは己が見た光景の意味を悟る。

 ――あいつ、死んだのか。

 自分でも驚くほど平静だった。頭の中が、しんと静まり返った地底湖のように、冷たく澄んでいる。

 肩の荷がひとつ降りた、と考えるべきだ。少なくともフランが死んだいま、〝会社〟にすぐさま処分されることはない。ここでノウマンをどうにか撒いて、逃げ延びれば自由の身である。儲けなら前金だけでも多少は出るし、ソリチュード号を売れば、もう少し――

 艇が加速した。

 こともあろうに、ナノマシンをバラ撒く怪獣に向かって、真っ直ぐ突っ込んでいく。

 どうなっている? 操舵系がイカレたのか? おまけに、誰かがすぐ近くで叫んでいる。とんでもなく――うるさい。

 黙れ、と言ったつもりだった。だが、声は出ない。

 もう出していたからだ。叫び続けているのは、自分だと気付いた。艇を勝手に操り、ノウマンに無謀な突撃を仕掛けているのも、ほかならぬこの手。逃走を命じる思惟に叛いて、肉体が暴走していた。

《せっかく過去に折り合いをつけられたというのに、同じことを繰り返すつもりか?

 せめて喚くな、ウェストリバーエンド。戦士の感情は抑制されてこそ美しい》

 口が、何ごとかを叫んだ。おそらく罵倒の言葉だったろう。

 反射運動を絶え間なく繋げているような身体に、理性はまだ触れられない。マスドライバーに反応弾を装填、矢継ぎ早に撃つ。碧い光が吹き付け、起爆すらさせずにペレットを消し去る。

 反撃のプラズマ砲斉射が来た。これまでできると思ったこともないような乱暴さで、燃料射出、角度変更、起爆、噴射。推力ベクトルを縦横に振り回し、弾幕の隙間へ船体をねじ込むようにして避け切った。どうやら自分がやっているらしいと解っていても、まるで現実感のない曲芸。

 フランのために、こんな力を出しているのか。

 視界が上下する。肉体が首肯したのだ。頷いた拍子に滴が飛ぶ――涙。そんな馬鹿な。この俺が、サイボーグ一匹死んだくらいで。

 戸惑いをよそに、碧い燐光が迫る。まずい。フランのものと同じなら、わずかに掠っただけでも食い殺される。回避は間に合わない。フラン? そうだ、もうフランはいない。を起動すれば、相手が軍用ナノマシンとて、気休めくらいには――

 男が指を動かそうとした瞬間、サブスラスターの推力を大きく超えた不可思議な加速度が、攻性分子流の上へと艇を押し出した。

《その船体……あの娘が手を加えたのか。器用な細工だ》

 いまウィリアムズの意識はそれを聞き、側面カメラが映しているものを見る余裕があった。

 翅だ。

 玉虫色の微光を纏う、細長い膜翅。

 フランが背負っていた、ナノスケール・スラスター配列構造マトリクス。それが、ソリチュード号の装甲から無数に生え伸びている。翅の配置には、どこか美的センスに基づくこだわりが感じられ、これがフランの手になる改造であることを証していた。

 フラン。

 黒焦げの首しか残らなかった、あの鬱陶しくも愛らしい生きもの。

 彼女の遺した想いが、この艇に宿って、自分を護っている。頭の一方ではセンチメンタリズムに過ぎぬと理解しながらも、いま一方では、強くそう信じた。

 なぜなら、十二枚に束ねられた、この翅群は。

 ――まるで天使の、翼じゃないか。

 少女の祈りが形になったものと、そう見えたのだから。

「う、ううォ、うォああ――あああアアァァァ――」

 咆哮が、指先から感覚質クオリアを呼び戻す。

 ウィリアムズ・ウェストリバーエンドの意思はついに、己が肉体と一個の調和を奏ではじめた。刻み込まれたすべての技能記憶がネットワーク化し、意識と無意識の融け合う場と化した身体。その速度域に、限界まで加速された思考が追いつく。

 機械化も遺伝子改造もしていないただの人間が、持って生まれ、培い生きてきた力の全的結合。霊と肉の境界はほどけ、筋繊維の一本ずつ、神経節を走る電位差のパルスひとつさえ思惟の下。薬物がもたらすまやかしの全能感とは違う。覚醒した細胞たちが一丸となってふるえ、未来の可能性事象をも知覚の内側へと引き込む。

 プラズマ砲はおろか、光速のフォトンカッターまでも、発射前にその軌道を視ることができる。予知ではない。。換言すれば、勘と経験。数十年かけ積み上げてきた技倆が、変性意識トランスの中で本能と融け合い、彼の反応速度をマイナス秒の領域に突入せしめた。

《肉の限界に縛られながら、そうも動くとは。素晴らしい》

 バハムートが恐るべき俊敏さで錐揉み回転し、三百六十度の螺旋状に、〝月翅バタフライ〟の輝きを撒いた。

 虹で織り上げられた羽衣が、りん、と虚空を打つ。瞬時に回頭したソリチュード号の船尾で、矢継ぎ早に爆光が砕け、碧い奔流は核パルスの衝撃波面に散った。

《〝月翅バタフライ〟は君の艇に到達した。だが……そちらのナノマシンもある程度、対抗分子兵器アクティヴ・シールドとしての機能を有するようだな。あの娘、まったく器用だ》

「てめえに何がわかるんだよ! 言ってみろ鉄クズ! あいつの――何が――てめえなんぞに――」

 安全値を遠く超えた加速度。それが、上下左右から次々に襲う。遠心力が四肢の末端に血液を押し込み、レバーを握る手には赤いまだら模様が浮かんだ。おそらく身体の中心から遠い脚はもっと悲惨だ。これ以上無茶な機動を行えば、破裂する。

 視野がブラックアウトやレッドアウトを起こしていないのは、保持アームがシートを目まぐるしく回転させ、耐G姿勢を維持してくれるからである。それとて限界はあった。

 だとしても。

 ウィリアムズは、加速を緩めない。限界など知った話か。いまはただ、このへの報いを。

 もちろんこれは命を懸けた戦いであり、ユハナンのとき以上に、ノウマンを責めるのは筋違いな話だ。戦場の公平性。強い方が生き残る。そんなことはわかっている。

 ――

《悲憤か。まるであの時の再現だが……彼女はいったい、君の何だったのだ? 弟子か、娘か、愛妾か――》

 フランは自分にとって、何だったのだろう?

 襲い来る熱プラズマの瀑布を、無造作にかわす。その回避運動で、一気に彼我の距離を詰める。残りのほとんど全ペレットを給弾レールに流し込みながら、ウィリアムズは考えていた。

「あいつは、俺の」

 娘、ではない。人の親になるという心地を、擬似的にしか知り得なかった自分でも、フランとの関係が親子でなかったことぐらいは解る。

 姪か? あれはただの演技だ。めかけ――論外である。

 自分が彼女にとって何であったかは、おそらく解る。お客様クライアント名付け親ゴッドファーザー。しかしその逆など知らなかった。彼女の助けで薬を抜いてからは、考えないようにしていた。

 だと思っているのではないか――そんな自分の内心を、知るのが怖くて。

 馬鹿な話だ。滑稽なほどに臆病だった。

 そんなもの、のに。

「あいつは……俺の……!」

 フランが望んでいた関係を、当人に訊く機会は、もう永久に来ない。

 だから仕方なく、フランが言った通りのことを答えた。

「……〝嫁〟だッ!」

 至近距離。右側面へ回り込んだ。フォトンカッターは射角外、プラズマ砲二十四門がこちらを向く。洩れ出す臨界放射。だがこの距離では、旋回砲塔による射線の補正速度を、ソリチュード号の機動が凌駕する。

 虹の翼が、銀河をうち煽ぐ。九十度回頭、船尾をバハムートへ。ウィリアムズは燃料射出口を開いた。全弾装填済み。二百三十発の核融合ペレットがぶち撒かれ、大魚の脇腹に向かって流れ飛ぶ。点火イグニッションレーザー発振。呪いを込めて。燃料弾が密集したところを、連続でポイント。質量が内破し――

 小太陽が、生まれ落ちる。

 不安定化したヘリウムが次々と誘爆し、碧翼そなえる白鯨を、光と衝撃波のなかに呑みくだしていった。

 許容量を遥かに超える運動エネルギーの波濤が、ソリチュード号の緩衝板に激突した。メインの六枚は基部から吹き飛び、ひと回り小さいサブパネル六枚と、パラボラ型の底部パネルだけで爆風を受け止める。装甲が溶融し、波打ち、泡立った。千切れ飛んだ膜翅が、万色の羽毛となって虚空を舞う。

 ウィリアムズに叩き付けられた反作用は、超高速で迫る不可視の壁だった。シートの慣性減殺機構がフル稼働してなお、身体中で皮膚が裂ける。骨が砕け、肉が潰れる。手と足が同時に破裂し、血と肉片は一瞬で背後へ流れ去った。左耳からも温かいものが流れ出ている。右耳は轟音がこびりついて取れない。鼻腔の奥で血の臭い。舌には鉄と胃液の味。

 そして、視界が闇の彼方へ遠ざかった。ブラックアウト――意識はまだ切れない。だが、脳も拉げそうだ。

 見えずとも解る。裂傷、骨折、内臓破裂、その他諸々。治療も施せない状況では致命的だった。ウィリアムズ・ウェストリバーエンドの生命は、ここで潰える。

 加速度がわずかに弱まり、もう少し込み入った思考をする余裕ができた。気密は破れなかったようだ。空気を吸い込むと、折れた肋骨を肺が押し上げる。ばきりめきりと骨を伝う振動。痛みはあるが、控えめにしか自己主張してこない。死にゆく男の胸で暴れても、楽しくないのだろう。

 吸った息を吐きながら、鉱夫はそれをかすかな声に変えた。

「やったぜ、フラン……」

《――戦場で、女の名を呼ぶという行為は》

 ウィリアムズの耳には、まだ何も聞こえていなかった。自分の声も、それ以外の音も。惑星が爆破される瞬間、その地上で聞くような――ひとつの世界が終わるような。そんな音だけが響いている。

《半人前の兵士が死に際にすることだと、軍では笑われていたものだが……君には当てはまるまいな》

 視界もぼやけ切って暗い。コックピット内がおぼろに見える。半分しか光っていないあたり、スクリーンは死にかけだ。左半だけ映るその中央には、次第に強くなる蒼白い光があった。

《我がバハムートを構成する装甲及びフレームは、電圧調整によってリアルタイムで物性を変化させる。量子ドット技術を応用した人工原子マトリクス〝月暈オリオール〟……あらゆる攻撃に対し、最適な物質構造を瞬時に選択する、万能の物理防御システム。

 この装甲は本来、強力な指向性エネルギー兵器でもなければ貫けないほどの防御性能を有している。流石に、事実上ゼロ距離で二百以上の反応弾が爆ぜれば、被害は甚大だったがね――》

 視覚と聴覚が効かずとも、どうやらノウマンを仕留めそこなったらしいとは察した。

 意外なことに、絶望はない。持てる力を出し切ったと、全身が主張するからか。大げさに落胆する気力も残っていない。単に、どのみち死ぬと解り切っているせいかもしれなかった。

 ただ、フランに申し訳ないと、あまりに陳腐なことを考えている。

《生きているのだろう? 君の呼吸がまだ聞こえる。私は敬意を表したい……老朽の個人艇と、脆弱な肉体でこの艦に立ち向かい、あり得ぬはずの深手を強いた奮戦。驚嘆に値する。

 はなむけだ、強敵ともよ。失血で逝く前に、バハムートの最大火力で葬ろう――冥府で再び、妻と契れ》

 耳鳴りが止み、ノウマンの時代錯誤な賛辞をかろうじて聞き取る。とはいえ、できることなど何もない。スクリーンに映る光の正体も、ピントが合わないなりに見当はつく。

《圧縮粒子、再チャージ完了。兵装認証コード、対地掃射砲〝弥涯プロヴィデンス・エンド〟》

 荷電粒子の輝きが膨れ上がる。ウィリアムズは静かに、かすむ目を閉じた。

 エネルギーの壮大なる無駄遣い。もしかしたらノウマンは、皮肉や嗜虐心から主砲を使うのではなく、本気で敬意を示そうとしているのかもしれない。だとしたら、滑稽な戦士だ。笑ってやるつもりにさえなった。

照射アレルヤ

 瞼の裏に、光が弾け――


《――おおっと失礼、おれの方が速いね》

 予期せぬ声が耳孔から飛び込んでくる。鉱夫の五感がいっせいに、死のまどろみから醒まされた。

 明晰を取り戻した目が見たものは、背中から爆炎を噴き上げるバハムートの姿。ウィリアムズの攻撃で抉られていた右舷からも、白い煙と繊維のようなものが飛び出ている。

 映像は船首メインカメラのものだった。ということは、ノウマンは超高加速で飛び出したソリチュード号を追い抜き、わざわざその前に出て正対し、主砲を放とうとしていた計算になる。馬鹿馬鹿しいほどの性能差。とはいえその余裕がノウマンに様式美へのこだわりを残し、背中から撃つのを良しとさせなかったおかげで、が間に合ったらしい。

 他のスクリーンはすべて死んでおり、闖入者の姿は見えない。もっとも、あの陽気な声だけで誰かは分かった。例の白い装甲が生きている背部を撃ち抜ける、〝強力な指向性エネルギー兵器〟も、の艇には搭載されている。

《ヒュー、たまたまぶっ放したイオンキャノンがたまたまサイコ野郎をぶっ飛ばしちまった。宇宙の量子論的神秘ってヤツさ。正直言うと、むしゃくしゃして撃った。今は反省してる――》

 傾ぐ巨艦の後方を、猛スピードの飛翔体が通り過ぎる。残像しか映らなかったが、間違いなく、カジャス・バルシェムの艇であった。

《ウィルよォ、さっきの借りはこいつでチャラだぞ!》

 カジャスの艇の推進機構はRF誘導プラズマロケット。核パルス推進に比べ瞬発力は落ちるが、継続的な加速にはこちらが強い。

 ウィリアムズに逃がされた後、カジャスはガス惑星の重力を利用して加速。さらに最大噴射で加速度を上乗せしながら、スピードを増しつつ緩やかな楕円軌道を描いて、星の裏側からこの戦場へと反転してきたのだ。そしていまノウマンを狙撃し、超速のまま離脱していく――

 手負いの大魚がこうべをめぐらし、怒りの眼光で新たな敵を射た。

《あれッ、レーザーまであんのかよ》

 いかに速度を稼いでも、光速のフォトンカッターより疾くは飛べない。そしてカジャスの操船技術は、人並み以上の水準ではあれど、ウィリアムズほど戦闘慣れしたものではなかった。

《そうそう旨い役どころはねえか……くそ、死ぬまでにべっぴんの宇宙人と、死ぬほどファックする予定だったんだが――》

 爆音と、破壊的なノイズ。声が途切れる。

 ウィリアムズからは、もうカジャスの艇が見えない。手が動かないために、カメラの角度も動かせない。それでも、白い装甲が一瞬明るく照らされたことで、彼は悪友の死を知った。

 バハムートが向き直る。艦首の砲口には、粒子加速器の臨界放射を湛えたままだ。開いた装甲が口となり、フランとカジャスを灼いた発振レンズが眼となり、禍々しい笑顔を象る。

《ふむ――道連れが増えたようだ、ウェストリバーエンド。あの者に、彼岸への水先案内を頼むといい。

 では、仕切り直そう。幸い、君の為の〝弥涯プロヴィデンス・エンド〟はまだ撃てる……もはや邪魔は》

《とぉー、こぉー、ろぉー、がぁー》

 ふたたび、予期せざる声――

《ぎっちょんッ!》

 バハムートの六眼がひび割れた。

 弾体が小さく、ウィリアムズからは見えなかったが、すべてのレンズに単分子ブレードの楔が何枚も撃ち込まれている。

 失調していたメインスクリーンが息を吹き返す。メインカメラの前に現れたのは、背中であった。玉虫色に仄光る翅を生やし、同じ彩りの羽衣を纏う、少女の背。

 男は、声を出そうとした。

 しかしそれは、掠れた息にしかならなかった。

 半ばは呼吸器のダメージゆえに。半ばは――喉に込み上げた固いものゆえに。

《黄泉路を引き返してきたか。君も素晴らしい戦士だ》

 古の船で舳先を守る、女神像のごとく。

 ソリチュード号の船首に、フランが立っていた。

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