87(2)

《久しいな、ウェストリバーエンド》

 ソリチュード号のコックピットに、ざらついた金属質の声が響く。悪寒を伴う合成音声。ノウマンだった。

 相手を名指ししておきながら、平然と全周波オープンチャンネルで発信されている。それを聞く者とて、もはやフランを除けば空域に残っていない。

《最後に会話をしたとき、君は正気ではなかった。あれきりになっていたが……君がそれからどうしたか、私なりに心配もしたのだ。

 まだ、私を恨んでいるか? ……、この私を》

 ぎしり、と。

 己の息を噛んで、ウィリアムズはフラッシュバックする記憶の痛みに耐えた。

 伝えられなかった言葉。落ちた涙。爆発する運動エネルギー。

 指先に残る、耐えがたい後悔の感触――

「……もう、恨んじゃいねえよ。その後で助けられもしたしな。

 は俺がやるべきことだった。できなかったから、おまえが代わりに、やってくれただけだ……」



 あのとき――亡者たちに包囲されながら、震える手でユハナンに向けた銃を。

 ウィリアムズは結局、撃てなかった。

 決意したつもりだった。何を犠牲にしても救いたかった弟子を、せめてこの手で終わらせてやるのだと。それこそが唯一の救いであるのだと――信じて、いまこそ引鉄を引けると思った。

 それでも――撃てなかったのだ。

 代わりに撃ったのは、遺跡荒らしを終えて戻ってきたノウマン。ウィリアムズを押し包もうとしていた感染者たちを、圧縮粒子ブラスターの精密掃射で薙ぎ払った。雨と放たれた光軸の一筋が、事務ブースのガラス仕切をまるく熔かし――そのまま、復活しつつあったハロルド=ユハナンの首から上を、荷電粒子束の有り余る運動エネルギーによって爆散せしめたのである。

 こうして、後世に〝ハロルド禍〟と呼ばれる災厄の元凶は、地の底で人知れず冥府からの帰還を阻まれ――

 同時に、世界が救われるその瞬間を目撃していたウィリアムズ・ウェストリバーエンドの中で、世界よりも大切な何かが失われた。


 気が付けば、ウィリアムズはソリチュード号のエアロックで倒れており、ノウマンの姿はなかった。

 顛末については、朧な記憶だけがある。

 あのあと半狂乱になった自分は、残弾の全てをノウマンに撃ち込み――に対する殺意以外の何もなかった――命中した全弾が傷ひとつ付けられないのを見ると、弾切れの銃を握りしめて殴りかかったのだ。歩行戦車にも匹敵する戦闘サイボーグ相手に。完全に自暴自棄の、筋違いも甚だしい自殺的特攻。

 ノウマンは、死を求める鉱夫の感傷になど付き合わなかった。手加減した副腕のパンチ一発でウィリアムズを昏倒させ――おそらくそのまま、採掘基地の外まで運んだのだろう。実際に見たわけでも、メッセージが残されていたわけでもなかったが、他にウィリアムズを助け出せる者があの場にいたとは思えない。

 それが肉を捨てた男の意外な優しさであるのか、必要とはいえ目の前で弟子を惨殺した罪の意識が成せたことかは、のちにウィリアムズが考えてみても解らなかった。

 確かなのは、何もできなかった自分がおめおめと生き延び、そしてユハナンがここにいないということ。

 いるわけがない。気を失う前、己を狂わせた光景が蘇ってきて、ウィリアムズはまた防護服の中で吐いた。

 悪夢ではない。現実だ。ユハナンは死んだ。

 なぜ?

 ナノテクのせいか? ハロルド・ヘンリックスの狂った夢を実現できてしまう、ナノマシンという技術。そもそも存在してはいけなかったのではないか?

 サイボーグのせいか? 血肉を機械に置き換えたノウマンが、人の心のわからない化け物になってしまったから、あんなにも呆気なくユハナンは殺されたのか?

 それとも、か――



 瞑目した数秒の間に、よぎり去る痛みの記憶。

 不思議と、もはや薬の力を借りることなく、ウィリアムズは耐えることができた。

「……確かに俺は、おまえを恨んだ。ナノマシンも、サイボーグも。ユハナンを殺したものは、何もかも憎かった……。

 だが――そんなのは全部、だ」

 瞼を開く。

 火球の連爆を背負い、ソリチュード号が虚空を驀進する。かつて相対したことのない、最強の敵の射程圏へと近づいてゆく。

 恐れはなかった。

 燻っていたはずの憎しみもまた、幻であったかのように。

「誰か何かのせいにしときゃあ、俺はただ奪われて傷ついただけの被害者でござい、って顔をしていられた。ヤクに溺れて落ちぶれて、マトモな人間として生きねえことも正当化できた。

 たぶん俺は、〝それだけ大きなものを失くしたんだ〟と、誰かに訴えたかったんだ。憐れんでほしかった。俺がになっちまうほど、あいつには価値があったんだってな……」


 ――そのいたみは忘れてやるな。一生付き合え。失くしたモンの価値を、てめえに証明する値札だ。


 かつてフランに垂れた訓言を、この十七年、自らが蔑ろにし続けてきたのだと気づく。本当に情けない男だった。鉱夫の口端に、苦く湿っぽい微笑が滲む。

「無駄なこった。解ってたよ。で、死んだ奴の価値も大きさも、他人に伝えられやしない。証明できるのはだけだ。その俺が、自分さえ信じられねえ生き方をしてたら、いったい誰がを覚えててやれる?」

 命よりも、世界よりも大切な何かを失った。死に等しい悲痛を味わった。

 それでも世界は眼前にあり、己はここにある。

 まだ生きている。

「――憎かったさ、ノウマン。でもいいかげん飽きたぜ。

 死ぬまでクズのまま過ごすには、俺の余生はちと長すぎる」

 生きているのだから――

 たったこれだけ、言葉にすれば何の意味もないほど当たり前のことが、十七年かけて辿り着いた答え。

 。心の奥底ではとうに出ていた結論。フランの助けを借りてようやく直視する勇気が持てた、己の生に対する消極的な、しかし絶対の肯定。

《君の復活を歓迎する。そうでなくては、あのとき助けた甲斐がない》

 応じるノウマンの声。電子的に合成された音声でありながら、その響きはどこか喜色を帯びて聞こえる。

 ウィリアムズはマスドライバーを巨艦へ向けた。

 まだ撃たない。これは意思表示だ。

 復讐のための戦いなら、もう撃っている。そうでなくとも、向こうは先に撃ってきている。だがこの戦いは、のためにするもの。

 相手が応じるなどとは思っていなくとも、言っておかねばならない手続きプロトコルというものはある。

「一度しか言わねえ――失せろ、。モノポールさえ譲ってくれりゃあ、見逃してやってもいい」

《君は面白い物言いをする》

 大魚が全身の砲塔をざわつかせた。これも意思表示だろう。

《磁気単極子があれば、我がバハムートは更に強大な存在となる。しかしそれ以上に魅力的なのは、強敵と出会うことだ》

「なに?」

 ウィリアムズの全身の毛が逆立つ。膨れ上がる脅威の感覚。

 こいつは俺を、のだ、という確信――。

《敵だ、ウェストリバーエンド。最強の敵こそは、最も得がたい至宝。私が力を求めるのは、より強い敵と戦うため。

 いまこそ知りたい――かつて伝説の鉱夫として名を馳せ、ついに怨恨さえ超越した君が、私の敵手たり得るかを》

「そうかい」

 結局こうなるのだ――どこか清々しい思いで、ウィリアムズは引鉄に指をかける。

 憎しみはない。これは復讐ではない。

 ただ、ここで戦う運命だっただけ。

「俺を助けたこと、せいぜい後悔しやがれ」

 大小二隻の船が、同時に発砲した。


 発射に先行する一瞬の臨界放射を見て、ウィリアムズは緩衝板の角度を変えつつ、ペレット二発を連続起爆した。艇が螺旋状にロールし、プラズマ砲の射線を外す。サブスラスターの噴いた推進剤が、さらなる光熱の轟風に吹き飛ばされる。

 彼が放ったペレットの方は、二発目のプラズマ砲を浴びて爆発した。加速のために後部で起こしている核爆発と合わせて、もし宇宙に空気があれば、凄まじい音が響いていることだろう。

《もう座標も覚えていない。銀河の果てにほど近いどこか、ケンタウルス腕の片隅……》

 唐突に語り出すノウマンの声。

 遠い響きに応えるように、バハムートの艦首装甲から六つの円いレンズがせり出した。グロテスクに配置された、深海魚の眼にも似ている。

《エメラルドグリーンの空、どこまでも続く浅瀬……砂と、海の惑星だった。そこで、私は戦っていた》

 左右に三基ずつ並んだレンズが、ちかちかと点滅する。

 星間物質の塵が燃え、切れ切れの輝線を描き出した。先の戦いで破壊された艇の残骸が、ソリチュード号のすぐ脇で細切れになる。赤熱した断面。フォトンカッターだ。

《あの戦場で、あまたの死が私の眼前を擦過した――》

 ウィリアムズは汗の冷たさを意識から追い出した。あんな武器もあるとは。死に向かって突進する思い切りがなければ、刈られる。

《ヒトの尊厳など、物理作用の前では脆いものだった。英雄がプロトンキャノンに灼かれ、二次性徴も来ていない少年兵が単分子鎖に巻かれて散り裂ける。ありふれた現象の集積。すべては運動エネルギーの集中と、伝達に過ぎない》

「てめえの昔話なんぞ知るかッ!」

 回り込みながら、ペレットを立て続けに撃ち込む。攻撃は最大の防御。直撃せずとも、爆発すれば衝撃波が壁となり、敵の射線を遮る。

 そうして時間を稼げば、が近付きやすくなるというもの。

《自ら冥界の門前に立ち、私は戦場の美しさを認識した。戦闘の場はいつも社会の外にある。善悪が等しく追放された世界で、なまの命が輝きをぶつけ合う。生と死。光と影。それだけが残る》

 サブスクリーンを視界の端で確認する。フランはかなり敵に近づいていた。対空迎撃も疎らだ。考えてみれば、ノウマンはフランがナノテクの塊だということを知らない。彼女よりもソリチュード号を脅威と見るのは、不注意でこそあれ、誤謬とまでは言えまい。

 その分ウィリアムズの負担は増すわけだが、幸運もあり、彼はここまで全弾を凌ぎ切っていた。そしてもう、戦いは終わる。

 フランが間合いに入った。

「やっちまえ」

 彼女の補助脳とのデータリンクで、センサー画面にナノアセンブラの流れが表示される。惑星磁気に沿って曲げられながらも、バハムートへ向かって飛び――着弾。

 勝った。

「はっは! ざまァねえ、船がバラけるまで哲学でもやってろ」

《――なるほど、有機分子タイプのナノマシンか。あの子供、何かと思えば分子兵器の母機キャリアーとは》

 レプリケーターに喰われつつあるバハムートは、砲撃も止めて静まり返っていた。目に見える変化はまだない。艦体が大きすぎて、分解に時間がかかるのか。

 ウィリアムズが末期まつごの敵をズームアップしたとき、その上部装甲に、二列の背鰭めいたものが逆立った。

《確かにフォルグはナノテクの時代に入りつつある。しかし分子兵器に頼り切りでは、本物の戦争に勝つことはできない》

 傍受されぬよう通信を断っていたフランが、コックピットのスピーカーで叫ぶ。

《ウィル、こいつ! 対抗分子兵器アクティヴ・シールドなんぞ持ってやがります!》

「何だと――」

 大魚の背鰭から、碧い光が洩れている。鉱夫の目にはその燐光が、籠の中に封じ込められ、解放のときを待ちわびる鬼火の群れと見えた。

《カウンター・ナノマシンで、敵の分子兵器を無効化するんです! しかもこの分解速度、あたしのより速い――》

 対抗分子兵器アクティヴ・シールド。むろん知っている。分子兵器への最も効率的な対処であり、〝ハロルド禍〟も結局ドレクスラーの対抗分子兵器で終息を見たのだ。

《攻性分解機ディスアセンブラ散布システム、兵装認証コード〝月翅バタフライ〟。名の通り、本来は攻撃用のナノマシンだ。その性能は、に特化している》

 淡々と告げるノウマンの声に、ようやくウィリアムズの理性が現状へと追い付く。

 そのときには、もう遅かった。

《逃げて、ウィルっ!》

《――散滅せよアーメン

 碧い光が爆発した。

 敵艦の姿を拡大していたウィリアムズには、いろいろなものが細部まで見えた。バハムートの背から拡がってゆく碧光の波。急加速でナノマシンの暴風から逃れるフラン。背鰭が蠢き、星海の神獣が光翼を羽撃はばたかせる。綾なす光。うねり渦巻く光。凶光に呑まれ、

「フラン?」

《……約束。生きて、》

 大魚の眼フォトンカッターが輝く。

 スピーカーがと厭な音を出し、通信が途絶。

 左腕と頭しか残っていなかったフランが、まばゆい光と炎に穿たれ、黒ずんだ炭化物の塊になった。

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