87(1)
ノウマンの本名を、誰も知らない。
彼は人間であった頃の自分と、一切の繋がりを断っていた。知己も家族も、自己同一性さえも捨て去ったのだ。ノウマンという名は、彼が人間を超越した存在への進化を決意した際、自ら名乗り始めたものである。
数十年にわたって自身とその持ち
軍用戦闘艦クラスの巨体と重装備で固められながら、
船名を、〝バハムート〟という。
神の大魚が泳ぐ。
鰓から吐くは火粒。虚空を打つ鰭も、また焔。
側面に配されたスラスター・ノズルの列が、波打つように蠢きながら、前方へと電光まじりの紫炎を噴き上げていた。ウィリアムズは久方ぶりに見たその船を分析する。以前よりもさらに巨大になった。全身から生やしている正体不明の突起は、大部分が砲身だろう。
ノウマンの私船――バハムートは進行方向に正対したまま、惑星北極空域へと接近してきた。
サブスラスターでも充分な減速が可能であるため、回頭して主機関の逆噴射を行う必要がないらしい。淡色のプラズマを吐き付けるあの鰭は、いずれもが小型艇のメインエンジンに匹敵する推力を持っている。それを支えている艦体のフレーム強度も計り知れない。
すべてが怪物じみた、規格外の船だった。
「あれですか、能面さんとやらは……」
「俺たちに、ミサイルの大盤振る舞いしてくれやがった本人だよ――カジャスは逃げ切ったか。ひとつ貸しだ」
センサー感知範囲内に、カジャスの艇はない。惑星重力を利用して加速し、そのまま地平線の向こうへ回ったのだろう。
ウィリアムズは表示情報を切り替え、モノポールを探した。ガンマ線、あるいはニュートリノの反応はないか。あまり遠くまで飛んでいってしまうと、推力の関係でノウマンが有利だ。
自分が何を考えているかに気付き、鉱夫は苦笑した。
推力の関係だと! それ以前の問題のはずだ。あの悪魔のような船は、ソリチュード号を粉々にできる兵器など、核ミサイル以外にまだ何基も持っているに違いない。対してこちらは貧弱なマスドライバーと、推進剤兼弾薬の核融合ペレット、あとは目晦ましの玩具が少々。同じ違法改造船だが、火力差はまるで小魚と巨鯨である。
そんな相手と、戦おうと思っている。無謀の極みであるはずなのに、負ける気がしていない。
「さっき反応弾でぶっ飛ばした宙域に近づいてますね」
怪魚の行く先を算出し、フランが報告した。視線が重なり、ウィリアムズは己の瞼でそれを遮る。
彼女だ。
いまある手札で唯一ノウマンに対抗できる、最強のワイルドカード。尖端のナノテクが生み出した生体兵器。
フランのアセンブラが取りつきさえすれば、どんな大鑑巨砲であろうと塵に変えられる。ノウマンとて恐るるに足らない。
万意を一視に込めて、男はふたたび少女と視線を合わせた。
出番だ。行ってくれるか。
戦って、俺を守ってくれるか。
勝って、生きて帰って来い。
おまえを殺しの道具にする。すまない――
半瞬のうちにそんな思いを、そしてもっとずっと多くの言葉にならない感情を、彼の眼は射込んだ。
フランはただ微笑み、頷きを返した。すべて伝わっている、そう告げる顔で。言語を絶した意思の疎通。必ず混じる数パーセントの誤解さえ、通い合う互いへの過信。
それでもウィリアムズが敢えて口を開いたのは、濃密すぎるまなざしのやり取りが、いささか自尊心を傷つけたからだった。ありていに言えば、彼は恥ずかしかったのである。
いったいいつから、このサイボーグにかくも心を許してしまったのだろう?
「射程は奴の方が長い。気をつけろ」
「小回りがきくのはあたしですよ。ウィルこそ、あたしが出てる間に沈められないでくださいね」
鼻を鳴らした男の背後で、ドアが開き、閉じる音がした。
エアロックから宇宙空間へと飛び出したフランは、補助脳の通信回線をソリチュード号に繋いだ。真空中で声は出せないが、艇内のスピーカーに自分の声を出させることはできる。
「聞こえますか、ウィル……」
《おう》
返送された信号が振動に変換され、強化カーボンの骨格を直接震わせる。機械による再現であっても、ウィリアムズの声を聞くと、彼女は心強かった。それが不思議でならない。
自分が彼の中に見ているものは、何なのだろうか。彼に抱く、この想いは。少女はそれを推測しうるだけの経験、人付き合いの記憶というものを持っていない。ことに、異性に対してはそうだ。
フランが知る男とは、スラムの工場で一緒に遊んだ少年たちと、自身を貪り蹂躙した変態どもの二類型でしかない。少年たちの父親とは付き合いがなかった。改造されてから殺した男は多いが、彼らがどんな人間か知る機会は、出会う端から永久に潰してしまった。
相手を殺すのでも弄ばれるのでもなく、護衛と監視役を兼ねて旅に同行することなど、いままでになかった。たとえ欺瞞であれ、彼女が一定の期間を友好的に過ごした大人の男は、ウィリアムズが初めてだったのである。
だから、わからない。自分にとって、あの男は何だろう。
生まれる前に失われた、父性の影を求めているのか。それとも、かつて女だった心の一部が、いまさら年上の男に恋慕を芽吹かせたのか。
フランはかぶりを振った。
本当のところ、関係性の名前などどうでもいい。不安に思うのは、組む相手がウィリアムズでなくても、自分がこんな気持ちになったかどうかだ。もし誰でもよかったのなら、この胸の温かさが、尊いものでなくなってしまう気がした。
《――どうした、フラン》
少女の肩が震える。腹の底から発し、背を駆け上がったその波は、ほとんど官能的な痺れ。
誰でもいい――そんなはずはなかった。
フラン、と初めて呼ばれたあの日。ナノテクもサイボーグも蛇蝎と嫌っていたウィリアムズが、自ら付けた名を口にしたあの瞬間。少女の中に、ひとつの火が灯った。
始まりが懐柔の策だったことは知っている。彼女も同じように演技を試みた。だが結局、彼女は自分が思うほど器用ではなかったのだ。いつの間にか、演技でなくなっていた。
「何でもないですよ。ほんとに」
可能性ならいくらでもある。もっと穏やかな、理想の父親めいた男と一緒に仕事をしていたら。あるいは彼女を情熱的に愛してくれる、若い美男子とふたりで旅していたら。それぞれ悪くない関係を築けただろうと、冷静に分析する。
だが、絶対に確実なことがひとつある。偏ったフィクションの知識を土台に、どんなに魅力的な男たちを考えてみたところで、彼らはウィリアムズではない。フランケンシュタインを縮めてフラン、などと酷いネーミングセンスを持ち合わせる男ではないはずだ。
くたびれた中年鉱夫。虚無に足首を掴まれた男。酒と薬で身を持ち崩し、機械化やナノテクを憎むことでしか己を保てなくなった、哀れな敗残者。世間のものさしで測れば、たぶんろくな人間ではないのだろう。
だとしても――この宇宙に、ウィリアムズ・ウェストリバーエンドはひとりしかいない。
ならばこの想いも、彼だけのものだ。
「……船体にくっついて、あたしの推力を加算します。合図したら、ペレットに点火を」
《ん。急がねえと、お宝がどっかに飛んで行っちまうかもしれねえからな――待て、あの光は?》
ふたりの行く手に、瞬く輝条が網を打った。艇とのドッキングをしばし見送り、フランは遠い光芒を凝視する。
《戦闘だと? さっきのを生き延びた奴が他にもいたか》
拡大された視野の一角で、大魚が身をよじる。いかなる機構によるものか、バハムートは白亜の艦体をくねらせて推力ベクトルを偏向し、巨躯におよそ似合わぬ運動性能を見せていた。四方から撃ち込まれる砲弾が、まるで当たっていない。
《船に関節でも仕込んでやがるのか、あいつは》
「というよりは、軟質素材で全体が構成されてるように見えるです」
本当にやわらかいはずはない。微細なデブリから身を守るにも、宇宙船の外殻は可能な限り頑丈でなければならないのだ。まして戦闘を前提とした艇なら、二重フレームに複合装甲、電磁シールドや
しかしノウマンの艦は、現にめまぐるしく輪郭を変えている。
「あー、でもぜんぜんやわらかくないですね。そっちのモニターでも見えません? S67型劣化ウラン爆雷、ぜんぶ弾いてます。どういう装甲してんだアイツ」
《だから、俺の科白まで言うんじゃねえっての》
ノウマンと戦っている何隻かの艇も、反応弾の嵐を切り抜けただけあり、いずれ劣らぬ
手足のようにスラスターを操り、機体を振り回す。方向転換と攻撃を同時に行う。一隻が爆雷を撒いて牽制すれば、ノウマンがかわした先に別の艇がショットシェル・リニアガトリングを叩き込んだ。三×三
夕立が地を打つように、たっぷり数秒もの間、途切れることなく着弾が続いた。きらめく炭素クリスタル
危険なデブリを大量生産するとして、公宙での使用を禁じられた弾頭である。尋常の艇であれば、一掃射で跡形もなく消滅する火力。しかし大魚の不可思議な皮膚は、超硬結晶の驟雨すら弾き返して、なお小揺るぎもしない。
「斥力フィールドの青方偏移もなし。純粋に物性で弾いてる? あの白い装甲材、マジで、どういうブツなんです……」
《知るか。ずっと前に見たときは、あそこまで怪獣じみた船じゃなかったぜ》
静かに反撃が始まった。
バハムートの全身から突き出た砲身が、己を囲む敵それぞれに狙いを定める。雷光――もちろん音はない。吐き出されたものは、濃密な非中性プラズマの塊だった。
実弾とは比較にならぬ速度で飛来する高エネルギー粒子弾。撃たれてからの回避など間に合わない。攻勢から一転して、包囲を崩した艇たちが回避運動に専念した。ランダムな機動で予測射撃を撹乱するのだ。
一隻が光弾に貫かれ、爆散する。ノウマンの狙いが精確だったわけではなく、ただ火線の量が多すぎた。弾幕――それも牽制ではなく、すべてが致命打となり得る光炎のカーテン。
《トリガーハッピーめ。相変わらず火力でゴリ押しの一点張りか》
プラズマ砲の乱射を掻いくぐり、攻撃密度の薄いポイントを目指した艇たちは、巨艦の正面に出た。砲門数と射角の関係上、側面ほど苛烈な火力の集中には晒されないという判断。
間違いではなかった。が、それはノウマンによって誘導された正解である。彼らは戦闘艦の正面に、本来何があるかを考えるべきだった。
前面投影面積と装甲厚の観点から、前後に細長い船での戦闘は、敵に正面を向ける姿勢が最も有利とされる。
そして砲配置面積の狭さを補うため、艦前方をカバーするのは、最大火力たる主砲の射界――
バハムートが口を開いた。
艦首の装甲が上下に展開したのだ。内部の全空間が砲口だとフランが気付いたのは、粒子加速器の蒼白い臨界放射が始まってから。
《あの口径で、荷電粒子砲だと――》
ウィリアムズの大声は、音もなく放つ巨砲にかき消された。
光軸が奔る。
最初の一隻は直撃を受け、一切の小細工を許されず蒸発した。さらに一隻が、余波の飛散粒子を浴びただけで船体の半分を吹き飛ばされ、燃料槽から爆発する。射線の外にいた数隻が散開を試みるも、破壊の吐息はまだ尽きない。
ビームを撃ち放しながら、バハムートが
巨獣へ挑んだのは歴戦の船乗りたちに相違ないが、ついにその命運も尽きた。死にもの狂いの回避運動を取ったところで、ノウマンは射角を数度ずらせば彼らを捉える。飛び回る羽虫相手に、無限遠の巨大なバーナーを振り回しているようなものだった。
ほどなく、ソリチュード号のセンサーからバハムート以外の反応が消える。同時に眩い砲光も途切れ、残ったものは残骸とガスのみ。
完膚なきまでの殲滅。
フランは艇のコンピュータと補助脳でリンクした。映像とセンサー類のデータから、敵艦主砲のエネルギー量を算出する。
「……推定出力、七一六〇万ギガワット? え、何コレ? 桁一コか二コ多いんじゃないですか……二十秒くらい撃ってましたよね?」
《この艇の計器じゃ
遷光速の高エネルギー荷電粒子を、砲弾として撃ち出す。理屈はそれだけだ。バハムートの全身に配備された非中性プラズマ砲や、カジャスの艇が積んでいるイオンキャノンなどと、根本的な属性は変わらない。
決定的に違うのは、投入されるエネルギー量だった。ペタワット級の粒子ビームというのは、ふつう艦船が搭載するものではない。電力を喰いすぎるし、内部スペースに限りのある宇宙船において、必要な粒子加速器の大きさが致命的なのだ。
そんな代物を、単艦で撃った。一介の海賊船でありながら、バハムートの火力は正規軍の駆逐艦どころではない。巡洋艦――ことによると戦艦すら凌駕するのではないか。
「あたしが言うのもどうかと思いますけど、バケモンですね、あれ」
《奴には居住区が要らねえんだ。胴体まるごと、ジェネレーターや粒子加速器でぎゅう詰めにできる。同じサイズの軍艦より、純粋な破壊力ではずっと上を行っててもおかしくねえ……。
とはいえ限界はある。さすがに連射なんかできねえはずだ……これはチャンスと見たね》
フランはウィリアムズの意図を察し、ソリチュード号の船首に降り立った。手と足を装甲に分子接合させ、姿勢を固定。高加速に備えて翅を反らせ、荷電粒子スラスターの出力を上げる。
充分接近するまでにあの主砲で狙われたら、避けられるかは解らない。しかし発射直後のいま、砲身冷却と再チャージが完了するまでに、ノウマンを分子アセンブラの射程に納められれば。
速攻だ。最大加速で接敵、一気に分解する。彼女の最も冷たい思惟が勝利への道を弾き出し、補助脳がそれを肯った。
《こっちから見えてんだ、向こうにだって俺が見えてるはずだろう。なのに、さっきのをこっちに振ってこなかった。あそこでガス雲に変えられた連中の方が、このボロ船より危険に見えたってわけだ》
「とんでもねー間抜けですね」
《おうよ。まず俺が誰だか解ってねえ。それから、こっちにもバケモノがいるってことを解ってねえ》
「褒め言葉だと思っときます。さ、点火しましょう」
《褒めてんだよ。行くぜ》
船尾で
――またひとつ、ごめんなさいです。
フランはこのとき、加速と同時にある保険をかけていた。
必要ないことかもしれない。必要になっても、用を成さないかもしれない。いずれにせよ、ことが露見すればウィリアムズを怒らせるだろう。彼がナノテクに抱く反発は、完全に消えたわけではないのだ。
失望され、また嫌われるかもしれない。その想像は、少女の胸を遮断し得ない疼痛で締め上げる。
だが、それでも構わないと思えた。
彼を死なせたくない。死んでほしくないのだ。
解っている――歪められた心で、ぬくもりを求めて近づくほど、
別れが運命づけられているのなら、せめて残りの人間らしさをすべて、彼のために燃やし尽くそう。
秘めやかに決意し、フランはコックピットの名付け親に語りかけた。
「ウィル、もしあたしがしくじって、あのクジラ野郎をバラす前におっ死んだら……」
《おい、弱気は人間の特権だぜ。シャキッとしろ、
フランは微笑んだ。ウィリアムズからは見えないが、きっと彼には、いまどんな表情をしているかも伝わる。そういう気がした。
「……そのときは、全力で逃げちゃってください」
《ぬぁーにを、いまさら》
眼を閉じれば、鉱夫のふてぶてしい顔が浮かぶ。フランにはもう、声の調子でわかるのだ。彼はそういう男だった。
《言われなくてもこの艇だけじゃ、あのデカブツはどうにもなんねえ。つまり任務失敗、てめえんとこの〝会社〟にも追われる身だ。遠慮なくトンズラこかせてもらうさ》
「約束ですよ。あ、いっけね、死亡フラグ立てちゃった」
ウィリアムズはまだ何か言おうとしていた。が、先にフランが異変を察して叫ぶ。
「……敵艦回頭っ!」
バハムートが、接近するふたりに向き直りつつあった。艦首の装甲は閉じられている。やはり、主砲はまだ撃てないらしい。
《ち、無視はやめかよ。いいかフラン、俺が砲の半分は引きつける。残りを避けながら、おまえの間合いまで近づけ》
異を唱えるでもなく、少女は艇との結合を解除した。ウィリアムズなら、あの弾幕の中でも飛び回れる。
勝利の鍵は自分だ。
虹色に光る翅を拡げ、フランは装甲板を蹴って離艇した。
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