73
禁断症状の周期は短くなり続けた。
体調は急速に悪化し、日常生活すら無意識に近い朧なものになりつつある。亀を追うアキレスのように、微分されゆく時間の中を、苛立ちと痙攣が追いかけてくるだけの日々。
いつか、幻覚が去ると同時にあの悪寒が押し寄せるようになるのだろう。そこに現実の時間はない。そのときが、人間、ウィリアムズ・ウェストリバーエンドの最期だ。投与サイクルの
フランはしきりに薬を断つようせがんだ。鉱夫は一笑に付して顧みない。不安がるような、まるで心配しているような、彼女の態度が気に入らなかったからだ。
「てめえは俺の何だ。娘か。それとも姪か。違えだろう……仕事なら、もうひとりでもやれる。教えられることは、ほとんど教えた」
その日は、押し問答になった。シートの上で足を組んで坐り、ウィリアムズはスクリーンを眺めている。何も映っていない。ただ、必死の色が加わり始めたフランの顔を、見たくなかった。
「死に際の師匠キャラみたいなセリフは止してください。経験値までは盗めません。お客さまが正気でいてくれないと、困ります」
「死に際の、何だって……」
フランが答える前に、男の背筋を黒い氷が撫で上げた。その感覚は脳へと突き刺さり、衰弱した理性を引き裂いてゆく。
「ぅ、う――くそ。い、行け、早く」
痛みと、憤怒だ。ウィリアムズはすでに酩酊しているような手つきで、注射銃と薬液を取り出す。
「出て、失せろ、フラン――」
指に挟んだアンプルが落ちた。指の感覚がない。前にもこんなことがあった気がする。しかし、いまの彼には思い出せない。血肉詰めのゴム手袋と化した右手でケースをまさぐり、新しいアンプルを掴もうと
――ごめんなさい。
祈るような声が、聞こえた気がした。
四つの細い手が、男の無感覚な右手を包む。指先に痛みが滲んだかと思うと、それは熱さへと薄められながら、血の巡りに乗って拡がってゆく。
細胞が、覚醒を始めた。
薬毒に蝕まれた肉体が賦活され、靄が掛かっていた意識はクリアな連続体へと再統一される。復元されてしまう。薬の力で霧の彼方へ投げ出していたはずの、感情さえも。
いまなお耐え難い喪失の痛みが。自己嫌悪に病んでゆく魂の腐臭が。
永久に埋まらない虚無の寒さが、戻ってくる。
またナノマシンだ。ウィリアムズは悟った。
「て……めぇ、は……」
ナノテクがすべてを奪ってゆく。
「何を……なにをして、くれやがっ――うおォ、おえええェアア、アァア、ア アァァア――」
あまりに急激な怒りの奔騰が、吐き気混じりの叫びに変わる。
ふたたび意志が通った右手で、最初に為したことは暴力だった。
力任せに振り抜いた拳が、すぐ近くにあったフランの顔をまともに捉える。華奢な身体が吹っ飛び、少女は狭いコックピットの隅にくずおれた。身を起こそうとする彼女の肩を、飛び降りてきたウィリアムズが蹴りつける。
男は、喚いていた――
「やってくれた! よくもッ! そォォかい、へええ? てめえは俺を、生きたままゴミにしたかったわけだ……見ろよ! 救いようもねえ、正気だ! 満足か――俺をゼロにして満足か、バケモノ!」
「やめられるものなら……やめたいって」
罵倒され、足蹴にされながら、フランは何度でもウィリアムズの瞳を見つめ射る。
「あのとき言ったことが、ほんとうの気持ちだって信じてます!」
「俺の言うことなぞ、信じてんじゃねえッ」
髪を掴んで壁に叩き付けられ、それでも視線で訴えてくる。
「わかりっ、ました、その言葉――信じません!」
「くそァ!」
埒が明かない。切り札を、いま使うか――いや面倒だ。それより手っ取り早く、取り返しのつかない方法がある。
裏切者を擲ち、ウィリアムズはケースからアンプルを掴み出した。一本では流し込まれたマシンに分解されるかもしれないが、二本三本と立て続けに打てば。
廃人? 構うものか。
何もかも、手放したかった。
「だめですッ」
容器を銃にセットしたところで、フランが背後から飛びついてきた。両脚と四本の腕をフルに使い、ウィリアムズの腕を引っ張りながらしがみつく。首筋に熱い息がかかる。
フランの顔はすぐ後ろだ。鉱夫は思い切り首を振った。後頭部に衝撃――耳に滴が飛ぶ。鼻血でも噴いたか。もう一発――
「どォした、生物兵器! 避けてみろ、反撃しろ! 俺を殺せ!」
「や――だ――や、です! ぇぶっ――」
カタルシス。頭突きを繰り返しながら、彼は笑っていた。虚無的、かつ爽快な気分だ。
暴力はいい。どこにも複雑性がない。少なくとも、行為自体には。
ずっと、こうしたかったのではないか。
この生意気なサイボーグを、職も未来も奪ったナノテクの産んだ化け物を、自由を掣肘する生きた首枷を。壊してやりたいと思っていたのではないか。
――だが、こいつは壊れられない。
叩きつけようと振った、頭が止まる。
思い出してしまった一つの事実が、脳裏を灼く炎に冷水を浴びせかけた。代わって襲った虚しさに、ウィリアムズはうなだれる。
いつも――いまも、自分は無力だ。
いくらでも反撃の術を持ちながら、あえて無抵抗に徹した彼女を、壊してやることさえできない。
「ね、お客さま。あたしは……」
腕を拘束していたフランの副腕が、首元へ回される。
薬を打ち直す気は失せていた。
「あたしは、数字の中ではいちばん、ゼロが好きですよ」
二対の細腕で、中年鉱夫の大きな背中を抱きながら、少女がささやく。
ウィリアムズにその顔は見えない。ただ穏やかな彼女の声が、ひどく悲しげに濡れて響く。
「お母さんに教えてもらってた算数、苦手だったんですけどね。ゼロはどんな数を足しても引いても、そのまま受け入れてくれるじゃないですか。やさしい数字だな、って思って」
「おまえの数学的センスはよくわからん」
「にっへへ」
照れたような笑声が、襟足をくすぐる。
「だから、自虐のつもりで『俺は
「わかったから、離せ。……もう、こいつは打たねえよ」
ウィリアムズはフランから見えるよう、注射銃とアンプルをケースに放り込んだ。二度と使うことはないのだろう、という静かな直感。
それから、四つ腕の抱擁をゆっくりとほどいて、振り返る。
「――すまねえ」
思考より先に、言葉が出た。
フランの顔は血まみれだった。切れた額と、鼻からの出血だ。あちこちが腫れ上がり、黒い痣が凄惨な彩りを加えている。かくも痛めつけられた姿で、いつものように少女は笑っていた。
「気にしねーでくださいな。痛覚は遮断されてるし、傷は勝手に修復されます。それより、お客さまがヤク離れできてなによりです」
言う間にも腫れや痣は消え、傷は塞がっていった。短時間で凝固した血液も、ひとりでに色を失くし、散り落ちてゆく。
目に見える痕跡は消える。
だとしても、ナノテクが消せない傷は誰が癒してくれるのか?
懐かしい感情が、肺腑の間で燃えていた。酒と薬で正気を薄め、深宇宙の孤独を船渡ってきた男が、一度は掴んでいながら失くした熱の塊。
いくらかは、安易な同情かもしれない。
だが、それ以上のものも確かにある――。
「その、『お客さま』っての、おかしいだろ」
「何がです?」
「初日から思ってたことだがな。雇われてるのは俺だ。つまり、客はそっちってことじゃねえのか」
ウィリアムズの唐突な指摘に、考え込む様子を見せるフラン。口を尖らせ、むむと首をひねる。
「言われてみれば。でも、じゃあ何てお呼びしましょう。
「ウィルでいい」
フランの笑顔に、困惑が兆した。
明らかに耳を疑っている。聞いたことが信じられないのだ。
男はそっぽを向いて、繰り返す。
「ウィリアムズ、略してウィルだ。仲間うちじゃそう呼ばれる」
少女が、笑顔を取り落とした。頬が一気に赤みを増し、肩は震えている。今度は鉱夫が困惑する番だった。自分なりに差し出せるものを考えたつもりなのに、この反応はいったい何だ。
「あ、あああのですね! さっき言いかけた『死に際の師匠キャラ』っていうのは、漫画とかによくある登場人物の類型でして!」
壁に張り付き、聞いてもいないことを喋り出す。ウィリアムズはフランのこの奇行に、どう対処したものかと思いを巡らした。
「あのそのあたし、昔住んでた移民船のデータベースから、
結局、したいようにするのが一番だと結論付ける。ウィリアムズは、まだ口を暴走させているフランに歩み寄った。
「あっ、えーと、
言葉は途切れた。
ウィリアムズがフランを、腕の中に閉じ込めたからだ。
少女はわずかに身をこわばらせた後――ふっ、と力を抜いた。
知らなかった。男の体温を全身で感じて、嬉しいこともあるのだ。
ウィリアムズの抱擁は、檻だった。壊せない壊れものを、力強く抱きすくめる、あたたかな肉の檻。身体に刻み込まれた恐怖が融けてゆく。己を束縛するものが〝幸福〟であるとき、いったい誰が逃れられるだろう。
男の胸にこめかみを預け、彼女は耳で鼓動を、頬で熱を聴いた。
自分がどんな顔をしているのかわからない。けれど願わくば、いまだけは翳りのない笑みに、咲いていてほしかった。
「――ウィル。あたしの名前、呼んでください」
ぬくもりが、少女の名を呼んだ。
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