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ユハナンがいるはずの北東鉱区第二ブロック地下三階、その少し手前で、ウィリアムズはノウマンを見送った。
ノウマンの目的地である遺跡は、さらに感染者が密集していると思しい東鉱区の最深部。普通の人間なら小銃を持ち込んでも辿り着けそうにない状況だが、火力も装甲も戦車並みのノウマンなら突破に支障はない。むしろ、過剰火力で地下施設の崩落を引き起こしたりしないかどうかを心配すべきだろう。
《このあたりの感染者は目につき次第掃除していく。とはいえ、君と弟子だけでは包囲されたときに脱出できまい。
老婆心とは思うが……助けられないと思ったなら、自分だけでも躊躇わず脱出することだ》
「うるせえよ、とっとと行けメカ虫野郎。そういう人間っぽいお節介はてめえのガラじゃねえだろ」
《ふむ。違いない》
納得したような声と、どこか含み笑いを思わせるハム音を残して、機械の怪物は階段を下っていった。
――相変わらず好きにはなれそうもない異常者だが、今ばかりは感謝してもいい。
拳銃に弾を込め直し、一人になったウィリアムズは通路の奥へ向かう。
そうして、見つけた。
企業派遣の事務員が詰めていたガラス張りの
よく見れば、少年の身体はケーブルのようなものでめちゃくちゃに巻かれ、椅子に縛り付けられている。
――どういう状況だ。誰が、何のために拘束を?
かぶりを振る。そんなことは、助け出してから考えればよい。
「ユハナン! 俺だ……助けに来た!」
ウィリアムズはブースの入口を検める。扉は開かない。内側からロックできる構造のようだ。
密室の中、ひとりで縛られている――ますます不可解だが、自分が感染していると確信していたなら、あの通信の後で自らを閉じ込めたのかもしれない。人を襲いに彷徨い出ないように。あの優しい少年なら、やってもおかしくないと思えた。
「おまえの分の防護服も持ってきた! とっとと脱出するぞ……おい、聞こえてんのか!」
ガラス越しに見えるユハナンは背もたれに身を預けたまま、呆けたような笑みを浮かべている。意識があるのかどうかは判然としない。生きているのかさえも――。
「騒々しいぞ、鉱夫どの。私のなり損ないを呼び集めたいのかね」
ウィリアムズは銃を構え、周囲に視線を走らせた。
ブースの中にはユハナンひとり。外の廊下には自分だけ。他は誰もいない、だが確かに聞こえた。聞き知らぬ第三者の声が。
いや――本当に知らない声だっただろうか?
「ここだよ。気づかんふりなどやめたまえ、時間とエネルギーの無駄だ」
今度こそはっきりと、声のした方を見る。
薄笑いのユハナンと目が合う。
「はじめまして、だな。ええと……待て、いま思い出している……ウィリアムズ・ウェストリバーエンドというのか? 私の名は――」
やめろ、と咄嗟に言いかけた。だがウィリアムズの喉から、声は出なかった。大きすぎる動揺が、声の出し方すらいっとき忘れさせたかのように。
「――ハロルド・ヘンリックス。君たちの時代からすると千年ばかり昔の、科学者だよ」
弟子の顔で、その声で、名乗りを上げる死者。ウィリアムズはわけもわからぬ激昂に駆られた。
「てめえは! ……いや、そいつは……失敗したはずだ。自分のコピーを作るナノマシンは、完成しなかった!
目ェ覚ませユハナン、それはおまえじゃねえ。とっくにくたばったイカレ野郎の未練だ。断片化した人格の、残りカスみてえなもんなんだよッ……!」
分子兵器〈
〈
外見の変容はさほど進行していない。ユハナンの自我を目覚めさせることができれば、まだ望みはある――と信じる。少年本来の人格を、殴ってでも呼び起こすのだ。
鉱夫は躊躇なく銃を振り上げ、ガラスの
「#####よせウィル! ぼくに###こいつに近づくなッ!」
腕が、自然と止まった。
その声は弟子の言葉だと、感じたからだ。
「なぜ来たんだ###ぼくは感染していて……助からないと、言ったじゃないか!」
「逆の立場だったら、てめえは諦めるのかッ!」
互いに向ける想いは同じ。そう信じて疑わぬウィリアムズの一喝に、ユハナンは言葉を詰まらせた。逆の立場ならどうしたか。言われた通りに逃げ出せたか。言い返せないのが、彼の答えだ。
しかし電子ノイズじみた呻きとともに、再び少年の表情は見下したような薄笑いに変わる。
「####アアー……素体の人格が、この期に及んで出力系へ介入できるとは……よほど自我の根幹にかかわる関係のようだな?
しかし残念ながら、この身体の少年を返してやるわけにはいかんのだよ。この施設内では、どうやら彼が唯一の適合者らしいのでね」
「適合者?」
その単語は、ウィリアムズの中に不穏な連想を掻き立てた。
〈
――間違っていたのではないか?
失敗ではなかったとしたら?
「もともと人間の遺伝的多様性を、分子アセンブラに搭載できる程度のプログラムでカバーしきれるなどとは思っていないよ。むろん余裕があれば、それを可能にする〈
現実には、金も時間も限られていた。ゆえに私はマシンの性能要件を引き下げ、代わりに人類の
鉱夫の直感を、ハロルドの亡霊はいとも平然と肯定する。
要求される性能が高すぎたために、〝どんな人間でもハロルドのコピーに造り替えるナノマシン〟は作れなかった。
だから、発想を転換した。〝ごく一部の、適性ある人間だけをハロルドのコピーに造り替えるナノマシン〟なら、ずっと簡単に作れる。あとはそれを、条件に合致する素体が見つかるまで拡散させればよい――そのための感染性。
確率の問題だ。ユハナンの肉体こそが、ハロルドにとっての当たりだっただけ。
「……じゃあ、外の、あのゾンビどもは」
「ゾンビ? ああ――言い得て妙だな。あれは不適合者だ。私にもなり切れず、元の人間にも戻せん。まさに
あまりにも理解を絶したエゴと悪意が、手塩にかけて育てた弟子の口から得意げに語られている。その不協和。その不快。
こらえ切れず、ウィリアムズは防護服の中で吐いた。窒息防止のための排出機能が働き、吐瀉物を速やかに吸い出したが、腐臭と嘔吐感の残滓はいつまでも消えなかった。
――こいつは……ハロルドは……全部わかっててやったのか。
〈
徘徊する亡者となり果てたあの人々、道中ノウマンとともに何十人と殺してきた哀れな怪物たちも、予定通りの必要な犠牲だったということか。
失敗作の方が、まだしもマシだった。これは最悪以下だ。地獄すら凌駕する、救いがたい暗黒の底なし沼だ。
ウィリアムズは大義というものを重んじる男ではない。愛国心も、信仰心も、ついぞ持ったためしがない。その彼ですら、ハロルドの狂気を前にしては、なにか大いなる使命感めいたものを覚えた。
これを外の世界に出してはならない。
たとえ誰が死のうとも、ここで止めなければならないものだ、と。
だがそうするには、言うまでもなく真っ先に犠牲としなければならない一人がいる――
「……何の意味がある? てめえがこんなふうに他人を乗っ取って復活したところで、死にたくねえと思ってた
決断を先延ばしにするウィリアムズの恨み言めいた呻き。ハロルドは少年の鼻で嗤った。
「ンーンン……ナンセンスの極みだな。意識の連続性など問題ではない。君は生まれてから一度も眠ったことがないのかね? 人は睡眠という形で日々、意識の断絶を経験しているではないか。
ユハナン少年の脳にインストールされた〝この私〟は、オリジナルが人格構成情報をサンプリングすべく眠りについた夜までの記憶を持っている。そして眠りに落ちる前の
自我の同一性を疑うべき要素など一つもない。千年前に死んだ私も、ここにある私も、いずれ復活する第二第三の私も――すべてがハロルド・ヘンリックスだ」
もうやめてくれ。ウィリアムズはかぶりを振った。いつのまにか溶け始めていたユハナンの顔も、その口から吐き出されるハロルドの言葉も、見聞きするに堪えない。
「狂ってるよ。てめえは。そんなのは……人間の魂の在り方じゃねえ」
「たましいィィ? 嘆かわしいぞ君、そのようなオカルティズムで新人類の永生を否定しようなどとは!
いいかね無学な鉱夫どの。これは第一歩に過ぎん。なにも素材を生きた人間に限定することはない。要は
がたがたと椅子を揺らしながら、ハロルドが叫ぶ。ウィリアムズはようやく察した。やはり、あの拘束はユハナン自身の手によるもの。
いずれ己の肉体を素材とし、心身ともに完全な複製体となって復活するハロルドを、ここから逃がさぬための自縄自縛だったのだ。
「技術管制だと? 科学主義に驕った人類の新たな原罪だとォ? 愚劣そのものだ! 政府のアホどもが守っているのは企業の既得権益に過ぎん。人間を本当の意味で救済するのは私の技術だ、私の研究なのだ!
祝ってくれたまえ鉱夫どの。さあ喝采したまえ礼賛したまえ! オリジナルの私を認めることなく、あまつさえ愚弄し弾圧した畜人どもの世界は、
ハロルドが無性に嬉しそうな理由の一端を、その口ぶりから、ウィリアムズは理解できる気がした。
はじまりは善意の研究だったのだろう。生老病死、人生の万苦を科学の力で撥ね除けられたなら、それだけ人は幸福になれると。単純すぎる願いだったかもしれない。それでも、間違った動機ではきっとなかった。
だがその願いは、〈
ゆえにハロルドは潰された。思想を否定され研究を抹消され、当人は技術犯罪者として獄死を強いられた。いまユハナンの脳に蘇ったハロルドの複製意識が〝死〟を経験していないとしても、夢なかばに斃れたオリジナルの無念を想像することは容易い。なにしろ自分のことである。
そんな異端の科学者が、まさに復活した己の存在そのものを以て、不死に至る理論が正しかったことを実証できた。狂喜したくもなるだろう。ハロルドは世界に対する復讐の機会と手段を、同時に手に入れたのだ。
「ああ……そうだな。訂正するよハロルド。てめえはまだ人間だ。悪い意味で人間のままだ」
人類を解放するなどと嘯きながら、その〝人類〟を同じ技術で我が身の材料に貶めて顧みない矛盾。なるほど最高に人間的だ。
ウィリアムズは握りしめた拳銃の撃鉄を起こし、
その口を歪ませ、ハロルドが笑う。
「ンン? ……なんだ君、つまらん保守思想に義理立てしようとでもいうのかね。
技術管制など臆病者の夢だよ。人の欲を法理で止められはしない。そんなものを守るために、その銃で私を撃つのか? 撃てるのか? 君はまさに、〝この少年〟を助けに来たのだと思っていたが」
「うるせえぞ、寄生虫の分際で……!」
言われるまでもなかった。イデオロギーなど
だが考えれば考えるほど、解決の方法は一つしかないように思われた。
「まあ待ちたまえ……私とて、他に適合者が見つかりさえすればこの肉体に固執する理由もないのだ。
取引しようではないか、君……この拘束を解いてくれるなら、次の適合者が見つかった後で、ユハナン少年の身体を元通りにすると約束しよう」
「できるのか、そんなことが?」
いかにもその場しのぎの出まかせと聞こえるハロルドの言葉。信用すべき理由など一つもない。にもかかわらず、ウィリアムズは反射的に問い返していた。自分でも悔しくなるほど、容易く揺らいでしまっていた。
「この身体は、さほど組織の置換が進んでいない。まだほとんどユハナン君の細胞で構成されたままだ。
ここでレプリケーターの浸食を止めれば、あとは遺伝配列を
ウィリアムズを情の強い男と見抜いてか、ハロルドは抗いがたい条件の取引を持ち掛けてくる。だがこのとき鉱夫の意識に引っかかったのは、解放しろという要求の方ではなく。
「――止めれば、だと?」
ウイルスのごとく感染するナノマシンを、まるで意のままに操れるかのような物言い。
いいところに気付いた、と言いたげな笑みを浮かべ、ハロルドはユハナンの片目をぱちりと瞬かせた。
「自己複製機械を扱おうというのだぞ。制御手段もセットで用意しておくのは、基本中の基本だよ鉱夫どの。
私の自意識が復活したとき、その神経電位パターンを鍵として、グリア細胞の一部を生体トランシーバーに造り替えるプロセスが挿入してある……まあつまりは、適合者の肉体に宿った私であれば、わが制作物たる〈
そして、その応用でこんなこともできる――と少年の顎をしゃくるハロルド。
促されてウィリアムズが周囲を見回せば、いつの間にかブースを取り巻く三方の通路から溶けかけの感染者たちが迫ってきている。
ゾンビの群れはブースから数メートルの間隔を置いて止まると、それぞれの通路いっぱいに横隊を展開し、自ら肉のバリケードと化した。退路を塞がれた形だ。ウィリアムズは舌打ちした。
「……なるほど? 人をゾンビに変えるだけじゃなく、そいつらを手駒として操れますってわけかい……そんならてめえ自身の解放も、こいつらにやらせりゃあいいだろ」
「そういう繊細な動作まではさせられんのだよ。なにぶん知能が著しく低下してしまっているのでね……せいぜい『こっちへ来い』とか『あっちへ行け』といった、大雑把な命令を与える程度が関の山だ」
それでも充分な脅威だ。実際にいまウィリアムズは逃げ場を失っている。襲い掛かってこないのは彼らがハロルドの制御下にある証拠であり、逆に言えばいつでも襲わせることができるという脅しでもある。
防護服があるとはいえ、この数が相手では身動きすらままならずに圧死させられるのがオチだろう。拳銃一挺でどうにかなる状況ではない――いや嘘だ。ほんとうは一つだけ手がある。生体トランシーバーとやら諸共、ユハナンの頭を吹き飛ばせばいい。だがそれは。それだけは。
「さあ、どうかね鉱夫どの……私のささやかな頼みを聞くなら、君は生きてここから出ることができる。その後も君だけは〈
駄目なら、まあ……うむ。この個体は諦めて、次の適合者に当たるまで〈
どっちがいいかね? 私は心底どっちでも構わんよ」
――選択の余地など、ないのではないか。
この場の主導権をどちらが握っているかは、もはや明らか。ハロルドはここで死んでも〝次〟がある。こちらには無い。約束が履行される保証はなくとも、信じる以外に道などないのでは。
なにより――
この手でユハナンを撃たなくていいかもしれない、という希望は、どんなにまやかしじみて見えようと、なお眩しすぎて。
ウィリアムズは未練がましくユハナンに向けていた銃口を下げ、銃把を握り直すと、のろのろと眼前のガラスに向かって振りかぶった。
やつを自由にして、ここを出て――
あとはユハナンが、元通りの姿で帰ってくるまで待てばいい。何か月でも。何年でも。目と耳を塞いで、外の世界がゾンビまみれの地獄になっていく様なんか気にならないフリをして。
記憶がなくなっているかもしれない? それでもいい。生きて戻って来てさえくれるなら。
たとえ、あの子が俺を忘れてしまうのだとしても。
ただ、生きていてくれるなら――
「###にを……何を、やってるんですか、ウィル」
息が、詰まる。
声の方を向けば、崩れかけたユハナンの顔に浮かぶ、見違えようもないユハナンの意志。
「こんなやつの言うこと、信じちゃ駄目ですよ。できるとしても……ぼくは……望まない。あなたなら、わかってくれるはずだ」
――そりゃあ、そうだろう。おまえならそう言うだろう。
ナノテクの悪魔と取引をして、何万何億の人間を犠牲にして、代わりに助かるのが自分ひとり。あの心優しい子に、耐えられるはずがない。あるいはそんな決断を師父にさせることこそ、耐えがたいと思うかもしれない。
ウィリアムズはきっと、この世の誰より解っていた。弟子の思いを。その気高さを。
それでも――だからこそ――少年の願いは、残酷すぎて。
「殺してください。いますぐに###バカな##この期に及####」
痙攣する表情筋のパターンから、再び怪物の顔が現れる。
「###待て待て鉱夫どの! この私を殺せば、制御を失った不適合者どもはいっせいに君を襲う! それでは結局、心中を選ぶのと同じことではないか。よく考えたまえよ! もはや君に、選択肢など####」
そいつはどうかな、とウィリアムズは背後を見やる。
三方を囲まれ、絶体絶命と思える状況。だがユハナンの声を聴き、多少冷静になった目で見れば……ここまで来るのに通った後方通路だけは、感染者の数が少なく比較的手薄だ。
防護服のおかげで、噛み付きや引っ掻きへの警戒は無用。親玉からのコントロールを失わせ、隊列さえ乱してしまえば、残りの弾で穴を開けて突破することはできなくもない――少なくとも、自分ひとりなら。
つまるところ問題は、最初の一発が撃てるかどうか。
ユハナンに向けて、逸らして、また向けて。揺れる銃口は、ウィリアムズの迷いを表す乱れた磁針。このぎりぎりの状況にあっても、さまよう指先は未だ、引鉄に触れられず。
「駄目だ……ユハナン……俺には」
――撃てない。
ほかの誰でも撃てる。犠牲にできる。だが、ほかならぬおまえだけは。
ウィリアムズがそう言うであろうことを、少年もまた、きっとこの世の誰より解っていた。
自分が最後のひと押しを叫んでやるしかないのだと、解っていた。
だから。
「#な###ウィル##……あなたが、ぼくの師匠なら! 弟子の、最期の頼みくらい、聞いてくれたっていいでしょう!」
少年の顔貌に、決死の形相が戻る。消えゆく意識が、最後の力を振り絞って――
「撃って、くださ#####やめろ###うて、撃てウィリアムズ! ぼ###不死####ぼくがッ、人間として死ねるうちに!」
血を吐くような絶叫が。
その場の全員に否応なく、決断の時を告げた。
照準は、苦鳴するユハナンの顔の中心へ。
包囲の輪を崩した亡者たちは、鉱夫を仲間に加えんと動き出し。
ウィリアムズの指先は引鉄にかかり、防護服の手袋越しに、つめたい金属の硬さを知覚する――
「俺は、おまえを」
鉱夫のことば。落ちた涙。爆発する運動エネルギー。
そして
ガラスの砕ける音と ともに
はじけ飛ぶ
愛し 育てた
いのち
目覚めたとき、ウィリアムズの両手は銃を握りしめた形のまま。
引鉄の感触が、まだ指先に残っていた。
――また、あのときの夢。
最悪の記憶。〝ハロルド禍〟の始まりの日。近頃はバッドトリップに陥ることが多くなり、同じ悪夢を何度も見ている。
ジオマグナイト麻薬――通称ミードに溺れるようになったのは、ユハナンを喪ってからだ。思えばもう十七年の付き合いになる。中毒の末期症状が出てきても、おかしくない頃合いではあった。
それまでの摂取量では快楽を得られなくなり、バッドトリップから逃れるためにより多くの薬量を注射するようになる。この段階に至ってしまえば、先は長くない。死ぬか、廃人になり果てるか。
それでもいいのではないか――と思うのも、初めてのことではなかった。あの日の悪夢に苛まれて汗だくで目覚めるたび、いつも突き付けられてきた問いだ。
自分はなぜ生きているのか。
ユハナンを犠牲にして、ハロルドの復活を阻止して。それでも結局、逃げ出した鉱夫たちから〈
守れたものは自分の命ひとつ。それさえ、巨大な喪失感と孤独の寒さに耐えかねて、薬に溺れる情けない男でしかなくなってしまった。
何の価値がある? ユハナンは何のために死んだ?
いまでもウィリアムズは、その問いに答えを出せない。
「俺は……おまえを、……息子だと、思っていたんだ」
ただ胸の内にあるだけで己を殺すかと思われた痛嘆は、癒えぬまでも幾分か、歳月がその烈しさを薄れさせた。
代わって時とともに重くなるのは、ひとつの後悔。
――ぼくにとって、ウィルは鉱夫業の師匠である以上に……父親のような人です。ほんとうの親子ならよかったのにって、ときどき思います。
ユハナンが同業者にそう言うのを、たまたま陰で聞いていたことがある。
面と向かっては言われなかったことだが、ともに家族の愛を知らぬもの同士、師弟関係のなかに親子の絆を仮想していたのだと、いまなら理解できる。
思っていただけだ。最期まで、互いにそれを伝えられなかった。
照れ臭さがあった。自分のような人間が、人の父親面などしてよいのかという不安もあった。しかし
職業上の師弟という枠組みに安住して、それ以上に大切な存在だと認めることが怖かった。失ってはならないものを増やせば、自分が弱くなるように思えて――その怯えこそが弱さだと、知るにはまだ若すぎて。
ウィリアムズ・ウェストリバーエンドの最も重く、救いようのない後悔がそこにある。
当時も今も、フォルグの法律では、独身者が養子を迎えることはできない。だが制度など元よりどうでもいい。あの頃の二人に必要なのは、互いの合意ひとつだった。相手が自分にとってどういう存在であるか、認め合う言葉さえ交わせていれば、それで足りていたのに。
父と、呼ばせてやるのだった。
息子と呼んでやればよかった。
「……ぐ、うォオ ォォ――」
嗚咽が洩れる。
照明もコンソール類も灯を消した、暗くうす寒いコックピットの中。傷ついた獣のように声を殺し、〝
聞けなかった科白。告げられなかった想い。
たったそれだけの言葉が、ひとりの男を呪縛し続けている。
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