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 赤い光と警報音が、通路を満たしている。

 何かから逃げるように走ってくる人の群れをかき分け、ウィリアムズは施設の奥へと進んでゆく。ときおり響く悲鳴と怒号は背後へ遠ざかっていき、代わりに通路の奥から聞こえてくる音が大きくなる。淀んだ風鳴り。あるいは亡者たちの呻き。

 理性では、わかっていた。これは合理的な選択ではない。すれ違う人々と一緒になって、さっさと逃げるべきだった。

 かつての自分ならそうしていたはずだ。身軽で自由な一匹狼。孤独など苦にもしない、タフな宇宙鉱夫だったころのウィリアムズ・ウェストリバーエンドなら。

 それができないのは結局、自分がいつの間にか一人ではなくなっていたということ。

「ユハナン……くそ、どこだ。返事しろよ、ユハナン……!」

 を置いたままでは逃げ出せないという情であり、男の意地であった。



 最初に感染し、最初に発症したのが誰だったのか。それを知る者は当時にも、後世にもいない。

 ともあれウィリアムズが事態に気付いたとき、既に〝一つの世界の終わり〟は始まっていた。

「もうちょっとでコアが見つかりそうってときに、避難指示だとォ?

 東鉱区で何人も寝込んでたとは聞いてるが、隔離はされてたはずだろ。ただの風邪じゃなかったわけか?」

「それがさ、どうも例の遺跡が原因じゃないかって話で……」

 数日前に東鉱区で出土した離散紀の遺跡が暴かれ、そこから未知のウイルスが漏れ出したのではないか――

 最初はそんな噂レベルの情報から。続いて「東側の鉱区で急速に感染が拡大している」「隔離が破られ、封じ込めは失敗した」「プロジェクトの上層部はもう逃げ出している」……といった真偽不明の通信が、区間連絡用の構内回線で届き始めた。

 はじめはウィリアムズも疑ってかかった。なにしろ、危機意識を刺激するようなサインが何も発せられていない状況で、噂だけが先行してきた形である。

「坑道と与圧区画を仕切るエアロックにも、生物化学BC汚染対策のセンサーくらいあるだろ? だいたいそんな状況になるまで、全体警報の一つも鳴ってないのはどういうわけだよ」

 本来なら、原因不明の感染症が確認された初日の時点で全人員を避難させ、施設を封鎖すべきであった。

 それが遅れたのは、プロジェクトの遅延を己の失点にされたくなかった現場責任者の保身に起因するのだが、そんな事情を末端の労働者たちが知る由もない。

「わからん。拠点設営をやった下請けが、中抜きを増やすために検疫設備のグレードを落としたとか、そんなとこじゃねえかな」

「ありそうなのが怖えな」

 噂を仕入れてきた男と冗談めかして笑い合いながら、ウィリアムズの中に小さな不安がきざしていた。

 ――正体不明のウイルス。出どころは、東鉱区第二ブロックの遺跡。

 ユハナンがいるはずの北東鉱区第三ブロックとは、さほど離れてもいない――


 ほどなく西鉱区でも警報が鳴り始め、企業の施設運用員が避難誘導を始めた。

 ウィリアムズらの担当する西鉱区は〝汚染源〟の遺跡から最も遠く、報せが届いた時点で感染者はゼロだったが、情報の伝達が最も遅れた区画でもある。

 その遅れゆえ、鉱夫たちは出会ってしまう。

 どやどやと中央ブロック表層の出口へ向かう彼らの前に、下層フロアへ続く階段からふらりと現れる、挙動不審な影。

「お……おれ、いったい###ハハハ##私は帰還する###ハロルド####諸君らは私##からだ、おれのからだ、どうなて」

 、であるように見えた。

 虫食い状に剥がれて垂れ下がる皮膚。滲み出す血漿。歩くたびに粘液まみれの肉片が落ち、湿った音と異臭を撒き散らす。狂笑とともに。

「おい……ボロボロじゃねえか。何があった? 大丈夫か?」

 一人の鉱夫が、気遣わしげに話しかける。

 彼の行動を、不用意だなどと咎める者はなかった。そもそも普通の人間は、ウイルスと聞いただけで、古典映画レトロムービー歩く死体ゾンビめいた怪物が襲ってくる状況を真面目に想定したりはしない。そのウイルスが、検疫システムをすり抜けた古代のナノテク兵器かもしれない――などと考えることもない。人々がそのような荒唐無稽の脅威を現実のものとして認識するようになるのは、〝この事件〟以後の話である。

 声をかけた男から見れば、は助けを求める錯乱状態の重傷者でしかなかった。異様な風体に忌避や警戒を覚えるより先に、救護が意識に上ってしまうのは、宇宙鉱夫にしばしば見られる無学な善良さの発露と言えたであろう。

 その善性が命取りになった。

「##私になれ###」

 己を気遣う鉱夫には近づき、血まみれの歯列を叩きつけるようにして、噛み付いたのである。

「うぎ、があああッ!? やめっ――離れ――」

「なんだコイツ、イカれてんのか!」

 別の鉱夫がナイフを抜き、喰らい付かれた仲間を助けようと近づく。するとは自ら飛び込んできて、向けられた刃を受けた。

 深々と食い込む白刃。あふれ出る鮮血。間を置かず、は自ら傷つけた腕をぶんと振り抜き、たじろぐ鉱夫たちに血飛沫を浴びせた。失血も痛みも、激しい動きに体組織の崩壊が進むことさえも、一顧だにせず。

 その奇行の意図を、鉱夫たちが推し量る暇はなかった。

 下層へ続く階段から、同様の〝溶けかかった人間〟が群れを成して現れたからだ。


 どこをどう走ったのか、覚えていない。

 誰かが叫んで、最初に逃げ出した。その声を引鉄に、ほとんど一瞬のうちに恐慌が伝播し、崩れるようにパニックへと発展した。

 逃げ惑う鉱夫たちに押し流されるようにして、自分も走り回る羽目になった――そこまでは、ウィリアムズにも定かな記憶がある。あのどもが何者かは未だに解らないが、危険なのは間違いない。わざわざ押し通るより、迂回して脱出を目指すのは正解だったはずだ。

 気付けば採掘基地の入口付近まで辿り着いていたらしく、宇宙船格納庫と発着場に通じる円いドアが見えている。同じように走ってきた施設の職員や鉱夫たちが、いまも続々とウィリアムズを追い抜き、扉へと群がっていくところ。

 ここまで来れば、入庫中のソリチュード号まではすぐだ。しかしウィリアムズの足は、出口を目前にして動かない。

 薄板型端末スレートを取り出し、道中に何度も試みた操作を繰り返す。ユハナンへの通信だ。ここに至るまで、彼とは一度も連絡がつかなかった。

「……構内ネットはまだ生きてる。ここからなら、中にいようと外にいようと、あいつの端末には繋がるはずだ……」

 ユハナンが既に避難を済ませ、この先の安全なエリアにいるならいい。あのゾンビもどきがここまで押し寄せてきても、ユハナンなら一人でソリチュード号を飛ばせる。他の船に乗せてもらうという手もある。通信に応じないのは単に忙しいか、端末を落としたか……当人が無事であれば、ウィリアムズとしてはどうでもいい。

 だが、ユハナンが施設内部に取り残されたままだとしたら。

 通信に応じないのが、にあるためだとしたら――

《……ウィル? いまどこに……無事ですか?》

 繋がった。

 映像はなく、音声だけの通信。ノイズ混じりで弱々しいが、ユハナンの声だ。

「っ、おい聞こえるか!? 俺は基地入口まで来てる。ユハナン……おまえこそ、どこにいやがる。無事なのか!」

《え? ああ……ぼくならもう、とっくに構外へ出ましたよ! ソリチュード号はウィルが使うだろうと思って、ぼくは同業者の船に便乗させてもらいましたけどね》

 最悪の事態を予想していたウィリアムズは、無事を知らせる弟子の声を聴くと、長い息を吐いた。

 基地内は未だ、ウイルス騒ぎとゾンビもどきで大変なことになっている。が、それはウィリアムズにどうこうできる代物ではない。この場で一介の鉱夫にできるのは、身一つ持って避難することだけだ。

《ウィルもすぐ、この星を出て……できればそのまま、フォルグ中央へ戻ってください。ぼくを待つ必要はありません。自分で、なんとかしますから》

「中央まで? ……東鉱区で出たウイルスとやら、そんなにヤバいのか」

《厳密にいうと、あれはウイルスじゃないんですよ。疑似ウイルス型分子兵器、〈帰界光輪ハロウ・ワールド〉……人間を生きたまま遺伝子改変して、とある人物の後天的遺伝同形体クローンに造り替える、離散紀の違法ナノマシンです》

 脱力しかけていた鉱夫の身体が、ぎしりと固まる。

「待て……なんで、おまえがそんなこと知ってる」

《本で読んだんですよ。ぼくが勉強家なの、知ってるでしょ》

「ナノテクなら、少なくとものはずだ。フォルグでおまえが読める本に、そこまでの情報が載ってるわけはねえ」

 受け答えるユハナンの声は、やわらかな笑いを含んでいるように聞こえながら、しかし隠しきれぬ焦りを乗せて早口になっていく。

《ウィル……そんな話、あとでいいじゃないですか。さっさとそこから逃げてくださいよ。

帰界光輪ハロウ・ワールド〉の発症者は、崩壊していく身体を疑似ウイルスに操られて、感染者を増やそうと他人を襲うようになります。この施設にいたら、あなたも溶けたゾンビの仲間入りをするんだ!》

 近づく鉱夫に噛み付いた、異形のもの。わざわざ自分の手首を切らせて浴びせた血液。

 感染者。疑似ウイルスの拡散。その行動が腑に落ちると同時、ウィリアムズは気付いた。自分がもう、ということに、気付いた。

「おい――ユハナン――おまえ、

 ずっと、聞こえていたのだ。

 ユハナンとの間に通じた通信回線の向こう、誰かの船に乗って地表を離れたはずの弟子の声に混じって、かすかに。


   ハハハ###不死##私は##私を生む####


 つい先ほど自分の耳で聴いた、途切れ途切れの狂った哄笑が。

《だから……僕は脱出する船に乗って……》

「おまえから送られてくる声のデータパケットを解析すりゃあ、発信元端末が構内ローカルネットワークの外にあるか、中にあるかぐらいは分かるんだよ」

 通話を続ける片手間に解析した、ユハナンの声の発信元アドレスは、ウィリアムズ自身の端末と同じネットワークセグメントに属していた。

 既に基地を離れた船中から回線を繋いできているなら、発信元は別セグメントのアドレスか、ネットワーク外部との中継プロキシになるはずである。ユハナンの端末は、そのどちらでもない。

 まだ、中にいるのだ。

 嘘を言ってでもウィリアムズを逃がさねばならないような、〝助けに来てくれ〟とは言えない状況に。ナノマシンに知性を破壊されたゾンビが、すぐ近くで笑っているような場所に。

「言え。どの鉱区の、何階層目の、どこの部屋だ」

《駄目だ。来ないで――》

「必ず行く。あの気色悪いどもを皆殺しにしてでも、おまえを助け出しに行ってやる。だから言え、ユハナン! どこで待ってる!」

《来るなッ! お願いだ、ウィル……さっきから。最初期の自覚症状だ。ぼくは##》

 ユハナンの声が、不吉な音とともに途切れる。

 ウィリアムズは呆然と、途絶えた声のあとの空白を聴いた。あの音――笑い声にも喘鳴にも、電子ノイズのようにも聴こえる、あの不気味な音は――

《##ぼくは、! ここの設備じゃどうにもできない。だからウィル##来ちゃダメだ###助からな##》

 少年の声が、次第に大きくなる異音に呑まれる。

 そのまま通信が切れるまで、意味を成す言葉が聞こえることはなかった。

「……分子兵器だと? ゾンビだと? クソ……ふざけやがって」

 ウィリアムズ・ウェストリバーエンドは出口から視線を外し、ゆっくりと地獄への再入場口を振り返った。

 赤い光と警報音が、通路を満たしている。

 何かから逃げるように走ってくる人の群れをかき分け、ウィリアムズは施設の奥へと進んでゆく。ときおり響く悲鳴と怒号は背後へ遠ざかっていき、代わりに通路の奥から聞こえてくる音が大きくなる。淀んだ風鳴り。あるいは亡者たちの呻き。

 理性では、わかっていた。これは合理的な選択ではない。すれ違う人々と一緒になって、さっさと逃げるべきだった。

 かつての自分ならそうしていたはずだ。身軽で自由な一匹狼。孤独など苦にもしない、タフな宇宙鉱夫だったころのウィリアムズ・ウェストリバーエンドなら。

 それができないのは結局、自分がいつの間にか一人ではなくなっていたということ。

「ユハナン……くそ、どこだ。返事しろよ、ユハナン……!」

 を置いたままでは逃げ出せないという情であり、男の意地であった。


 ユハナンを助けに行くと決めたウィリアムズではあるが、地獄と化した下層へ無策で突入するほど冷静さを欠いていたわけではない。

 疑似ウイルスとその感染者たちの脅威に対し、彼が即興で思いついた対処法はシンプルなものだった。。これだけである。

 具体的には、備品庫から坑道作業用の防護服を持ち出して、着込んだ。

 大気を持たないこの星の地下に掘り広げられた坑道は、塵肺や粉塵爆発のリスクを取り除くため、あえて空気を注入されていない。真空に近い環境でも活動でき、危険なガスや粉塵を通さない気密仕様の防護服は、ウイルス型ナノマシンの侵入にもそれなりの耐性を持つことが期待できる。

 尖った岩に引っ掛けたくらいでは破れない頑丈さもあるから、感染者ゾンビの襲撃に対しても有効な防具たり得るだろう。それを、自分で使うものの他にもう一着、持っていくことにした。すでに感染しているというユハナンを中に入れて、運ぶためだ。

 分の悪い賭けであった。なにしろ治療法があるのか、タイムリミットはいつまでか、何もわかっていない。あの子はもう助からないのかもしれず、下手を打てば己も人造疫に蝕まれて、犠牲者の列に加わるだけとなるやもしれぬ。

 それでも、他にユハナンを助ける方法など思いつかなかった。

「待ってろ。いま行く。俺の弟子なら、親方のいねえところで勝手にくたばるんじゃねえぞ……!」

 丸めて紐で括った防護服を背負い、ウィリアムズは備品庫を出た。手には一挺の拳銃。荒事に備えていつも隠し持っている、愛用の火薬式クラシック・リボルバー。

 自分が逃げてくるときは一発も撃たなかった。だがここからは違う。助けたいのも、助けられるのも一人だけ。ユハナンを救い出すためなら、他の感染者を殺してでも行くと言ったのは、虚勢ではないつもりだ。

 ――ビビるなよ、ウィリアムズ・ウェストリバーエンド。これまでだって、マフィアの鉄砲玉やら宇宙海賊やら、何人もってきただろ。

 銃把を握る指に、汗ばむほど力が入っている。鉱夫は知っていた。自分が〝敵〟なら撃てることを。

 そして、ナノマシンに操られて襲い来る〝被害者〟たちを、己のエゴで殺して進む自信はないということも。

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