67
ウィリアムズの投薬量は増していた。
禁断症状の発生サイクルが短くなってきたのだ。苛立ちが襲い来るたび、彼はコックピットに這い込み、フランを閉め出す。そしてひとり、ジオマグナイトが生む全能の夢幻に狂い飛ぶ。
原因は分かっている。心的ストレスの増大。負けを認めたからだ。生身の肉体を墨守し続けることは、いかなる崇高さをも保証してはくれないと。フランはサイボーグだが、それでも自分よりまだ上等であると。腹の奥で、認めてしまったからだ。最後のプライドを手放した彼に、薬以外頼れるものはなかった。
教えられることは、ほとんど教えてしまっている。フランの呑み込みの速さを前にしては、数十年かけて蓄えた知識を伝えるにも、わずか二週間を要したのみ。それなりに退屈しない時間ではあったが、過ぎてしまえば彼の中には何も残っていない。虚無が、テクノロジーへの憎悪もろとも、男を呑み込もうと口を開けていた。
なぜ認める気になったのだろう? もはやそればかりが、ウィリアムズには気がかりだった。機械化の度合いなどで人間は測れない。そんなことは初めから解っていたのだ。解っていても、認めたくなかっただけで。いまは違う。やけっぱちな気分で己の価値を直視している。あるいは無価値を。
フランから、人生について何かを言われたわけではなかった。彼女はただこれまで通り、どうしようもなく人間性の足枷を引きずりながら、それでも人間をやめようと迷走していたに過ぎない。
そこなのだろうか、と鉱夫は立ち止まってみる。自分は人間という枠に――枠ですらなく、ただの言葉に――しがみついて、その底辺に甘んじてきた。だがフランは、変質してしまった己に適応して、人間の外へ出ようとしている。
それは、もしかしたら、強さであるのかもしれない。
「諦めた奴と逃げた奴、どっちがマシかって話だ――」
「なんの話です?」
パイロットシートに座す男は答えない。フランもそれ以上追及はせず、彼の肩を指で揉んだ。ウィリアムズは冗談のつもりでやらせ始めたのだが、四本腕でのマッサージが存外心地良い。
「人間廃業したら、マッサージ機に転職だな」
「斬新なんだかレトロなんだか、わかんないですね」
他愛もない会話の間に、細波のような悪寒が走る。サイボーグに対する生理的嫌悪。長年染み付いた感覚だ。そう簡単に抜けるものではない。それでも、ずいぶん薄くはなった。
――いや、違う。これは。
細波が、揺り返すたびに大きくなる。そして、波濤。
苛立ち、痙攣、頭痛がウィリアムズを打ち据えた。また禁断症状。早過ぎる。耐性が出来てきたのか。そんなことよりヤクを。暴れる腕を何度もアームレストに叩き付けながら、注射銃を取り出す。
「出ろ……出ていけ……早く!」
「ちょっと、大丈夫なんですか。すごい汗……」
肩の上で惑うように揺れていた、少女の手を払い除ける。
「消えろ! 近づくな、来るな……ここに、居るな」
黄金色の液体が揺れる。己の首筋に銃を突き立てながら、正気で吸った最後の息を吐き絞り、彼は叫んだ。
「俺を……見るなッ」
フランがコックピットを飛び出していく。扉が閉まるか閉まらぬかのうちに、男は笑い始めていた。
「く、へふふ。うへはは。ヘヒャはは、あェヒヒヒ――」
宇宙が破れ、反転した。
時間と空間が裏返る。全天は、光と重力の曼荼羅。ハレーションを起こした四〇〇〇億の太陽が、白く潰れた背景放射とともに押し寄せ、物質はみな存在の影に過ぎぬと暴き立てた。
「そうだ、来い――白い火の法廷へ。割れた卵殻の海を越えて! 王国を持たぬ王。分光サイオントーチ? 何もかも遠くなった! 星を喰い尽くすエントロピーの犬め。いつも光より速い、くらやみの中に棲んでやがる。完全黒体放射の〝帝国〟が来る……終末の……虹の向こうから! だが俺は、俺だけは、現実=レンゼラー螺旋体さ! 時間という時間が燃え落ちて、チェレンコフの幻さえ消え失せても――そォオとも! 不断の超克。歴史そのものが武器だ。あの黒い三角にも……灰色の柱にも! 俺は屈従なぞしねえ。
決してッ! 決してッ!」
視覚と聴覚を侵した幻覚が、言語と一体化して口から噴きこぼれた。時を遡り、男は過ぎにし日へと帰ってゆく。
はじめに、闇があった。そこに射ち込まれる光のドット。瞬く間に、
視線を感じた。すべての星が、忘れられた神々の眼となって、幼いウィリアムズを覗き込んでいる。憐れんでいるのだ。
おまえはこの宇宙に生まれてくるべきではなかった、と。
「しゃらくせえァ!」
全能の男が、無の右腕を薙ぎ払う。
彼は材料を探した。眼下で動くものがある。どこかで見たような少年……いや違う。少女だ。ねばつく暗黒の中でもがく手は、たった四本――
立ちのぼる汚臭。よだれと涙と鼻水と汗と、血と漿液と糞尿にまみれ、ふるえながら少女は笑う。黒い精液の海で溺れる彼女を、世界のあらゆる悪が輪姦していた。
ためらいながら、ウィリアムズは手を伸ばす。ちいさな手を。無力な、幼子の手を。届かない。チェーンソーは捨てた。刃が落ち、少女を嬲る暴力の触手がざっと退く。いまだ――いまこそ。
「つかまれよ」
少年は言った。少女は慈母のように微笑んで、答えた。
「名前をください。そうしたら、飛べますから……」
皺だらけの、硬く大きい手を伸ばし、鉱夫は呼んだ。
少女の名を、呼んだ。
「 」
――――無明の闇に、星辰が爆ぜる。
瞬かない星の群れへと、手を伸ばしたまま、彼は目覚めた。
「……は」
ろくな幻覚を見られていない。
薬の力を借りてさえ、ついにあの日々へ帰り着くこともできなくなったのだ。両親と見た、人生最初の
あの光と影の中でだけ、家族とは何であったかを思い出せたのに。
顔を横に倒すと、フランがいた。珍しく、笑っていない。
「何でここにいる」
「呼んでたんです。お客さま、あたしのことを。つらそうでした」
「そうかい。てめえのおかげで、けったくそ悪い夢だったよ」
ミードの副作用は完全な正気だ。後腐れなくハイになれるのが売りでもある。だが、この狂気じみて広い時間と空間のただ一点を、寄る辺なく漂うちっぽけな人間にとって、まったき正気など拷問でしかあり得ない。
感情が、意思を残して滑り落ちていった。弱みなど見せたくないと思いながら、言葉は脳の制止をすり抜け、腹の奥から直接、口へと上ってくる。宇宙の無意味が、抵抗する気力を圧し拉いだ。
「解ってるさ。こんなヤク中が、新しい人生始めようなんざ……どだい無理な話だ。いくら、金があってもな。それでも、俺は」
「やめたいんですか、薬……」
「やめられるモンならな。だが、これが見せてくれる夢まで捨てちまったら、俺はゼロだ。無価値だ。なんにも残らねえ」
ウィリアムズの目がフランの方へ泳いだ。少女は俯いて、何か考え込んでいるように見える。かすかな失望に次いで、そんなものを感じた自分への巨大な怒りが、男の胸郭を満たした。
一瞬でも、否定を期待していた。お客さまは
「出ていけ」
命じて、瞼を閉じる。ややあって、彼は扉が閉まる音を聞いた。それから、何かを叫ぼうとして――開いた口から、息さえ洩れず。
吐き出すものなど、残っていなかった。
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