13-22.伊織からの贈り物

「えっと……次で最後の曲なんですけど、その前にちょっとだけお話させてください」


 伊織が立ち上がって言うと、お約束のように「ええー」「もっと聴きたい」という不満の声が上がった。まるでライブのMCみたいだ。伊織はそんな声に笑顔で応えながらも、「ごめんね」と返事していた。

 一息吐いてから、伊織は話し出した。


「実は、私……この数年の間に両親を亡くしてしまって、ひとりぼっちになっていました」


 伊織の言葉に、思わず目を見張った。

 信やうちの両親がびっくりしたように俺の方を見てくるが、俺は彼らに対して首を横に振るしかなかった。眞下や神崎君達もこっちを見てくるが、俺には何も答えようがない。この話をするなんて、聞いてないからだ。


「そのことがあって、好きだったピアノも弾けなくなって、そのまま逃げるように東京に来たんですけど……でも、東京で出会ったたくさんの人が、私を支えてくれました」


 伊織は、話しながら、俺や信、眞下、双葉さん、神崎君にそれぞれ目を合わせていく。うちの両親、そして須田店長にも目配せしていた。


「私の大切な人が、またこうして私をピアノに向き合わせてくれて……私がもう一度ピアノを弾けるようにと、このリサイタルを企画してくれました。お友達も、たくさん協力してくれました。そんな場所にこれだけの人が集まってくれて……本当に嬉しいです。ありがとうございます」


 伊織は立ち上がって深々とお辞儀すると、お客さんも拍手でそれに応えた。


「ここに来てから、たくさん大切なものを得たんですけど、その代わり失ってしまったものも、もちろんあって……全部が全部、完璧ではありませんでした」


 顔を上げて、彼女がそう話し始めた時、頬から一雫の涙が流れた。その涙は……何を意味しているのだろうか。


「お姉ちゃん、大丈夫? 泣かないで」


 一番前で見ていた小さな女の子が、伊織にそう声をかけた。


「ありがとう、大丈夫だよ。ごめんね」


 伊織は笑顔で女の子に応えると、もう一度前を向き直った。


「そんな私に関わる全ての人達に感謝の気持ちを込めて、次の曲を弾きたいと思います。初めて聴く人の方が多いと思うんですけど、私の大切な曲なので、最後まで聴いてくれると嬉しいです」


 彼女はもう一度お辞儀すると、拍手が起こった。マイクをマイクスタンドに掛けて椅子に座り直したので、俺はまたミキサーをいじってマイクをミュートする。

 それから、彼女が弾き始めた曲は……俺達には、聞き馴染みのある曲だった。

 Unlucky Divaの『ライラック』だ。

 俺達Unlucky Divaのメンバーは、驚いて互いの顔を見合わせて、そして三人揃って伊織に視線を戻した。

 ライラックは、彼女が初めて作詞した曲だ。俺が書いた歌詞への返歌として書いてくれた歌詞。俺と付き合ったばかりの時に、俺への想いを歌ってくれた曲。

 バンドサウンドとは全く異なるピアノアレンジの『ライラック』は、とても優しかった。それと同時に、高いキーでアレンジされていて、優しいタッチで弾く事で、切ない旋律を奏でていた。

 伊織はそんな楽曲を目を瞑って弾いていた。

 寂しさと、優しさと、お礼……そんな伊織の感情が、旋律を通して心の中に流れ込んでくる。


(ずるいだろ、これは)


 そう……彼女のピアノは、ずるい。

 感情を一気に持って行かれて、Unlucky Divaで過ごした記憶が一気に想起させられるのだ。

 決して、バンドの活動期間は長くはなかった。活動は、たったの五か月。ライブも四本しかしていない。それでも、楽しかったあの時間が、心の中にどばっと溢れかえってくるのだ。

 信や彰吾とバカを言い合った日々、神崎君が呆れながらスタジオで間違いを指摘していた事、伊織が楽しそうに歌っていた事、伊織と付き合うことで気まずくなってしまった事、それでもバンドは楽しかった事……そんな、短いながら俺達の間にあった楽しかった記憶が、彼女の旋律によって、共有された。

 気付いた時に、俺の瞳からは涙が流れていた。

 これまで、どことなくUnlucky Divaについては、気持ちの整理がついていなかった。あまりに唐突な解散で、置き去りにされてしまったような感覚だった。またどこかでひょっこり復活するんじゃないか……そんな淡い期待も、心のどこかにはあった。

 でも、この旋律を聞いて、もうそれはないんだ、と実感させられた。彰吾との決裂によって、もう二度と、Unlucky Divaは元どおりになることは、ない。蘇ることもない。また、五人で笑い合う事も、もうない。

 彼女はまるでこのピアノで、Unlucky Divaに、いや、それを含めた彰吾との想い出に、別れを告げているように思えた。

 信と神崎君も、この旋律で涙を流していた。もちろん、弾いている伊織の瞳からも雫が溢れていた。

 彰吾もこれを聴いていたら、涙していたのだろうか。そんな事を考えさせられてしまう音色だった。

 会場の中には、初めて聴くにもかかわらず、俺達と同じように泣いている人もいた。伊織にもらい泣きをしたのか、旋律で心が震わされたのかは、わからない。

 ただ、きっと彼女のいろんな感情がこの旋律に乗っていて、それがきっと伝わったのだろう。愛情や感謝、お礼、謝罪、喜び、悲しみ……いろんなものがそこには込められていて、聴く側がその振り幅についていけない。

 俺達は最後の音が鳴り止むまで、伊織の感情に触れ、ただ涙するしかなかった。

 アウトロを弾き終えて、最後の一音の残響が完全に消えた頃、拍手が起きた。もうこれ以上ないといわんばかりの大喝采だ。座っていた人達は立ち上がり、スタンディングオベーション状態。

 それだけ彼女のピアノは、聴衆の心を惹きつけて、感情を引っ掻き回したのだ。

 伊織は、そんな拍手に包まれながらも、俺の方を見て、心底綺麗な笑顔を見せてくれたのだった。

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