13-19.似たもの同士

 その日は身心が疲弊していた事もあって、早めに自分の部屋に戻った。

 お風呂もシャワーのみで、言われた通りぬるま湯にして軽く洗う程度だ。それでも顔の傷には染みた。

 お風呂上りもしばらく冷やしていたので、顔の熱や腫れはだいぶ引いたように思う。さすがに明日に元通りにはなっていないだろうが、片頬だけアンパンマン状態だったり真っ青だったりという状況は避けられるだろう。

 身体がぐったりとしていたので、早々に電気を消して、目を瞑っていた。伊織の事や彰吾の事など、色々考えなければならない事は多いが、心も身体も疲れすぎていて、それどころではない。

 どろりとした眠気が襲ってくると、それに抗う事なく睡魔に身を任せた。

 それからどれだけ眠ったかはわからない。

 ただ、ふぁさっと何か音がして、少し暖かくなり、良い匂いがした。それから、何度か頭を優しく撫でられる感触がして、思わず目を開けてしまった。

 すると、目の前に伊織がいた。俺のベッドの中に、彼女が入ってきていたのだ。


「あ……ごめん。起こしちゃった?」


 伊織が小さな声で言った。


「いや、いいけど……どうした?」


 言いながら、俺は壁側に詰めてベッドに隙間を作る。俺が真ん中で寝ていたせいで、彼女の背中がベッドからはみ出ているのだ。隙間を作ってやると、「ありがとう」と言い、彼女が身を寄せてきた。


「なんだか、一緒に居たくて。ノックして返事なかったから、こっそり入っちゃった」

「夜這いなら大歓迎だけど」

「うん、じゃあ今から夜這いしていい?」


 どうせ照れて「ばか」と叱られるものだとばっかり思っていたら、思わぬ返事が返ってきて、言葉を詰まらせる。

 彼女は黙ったまま俺をじっと見ていた。そして、腕を首に回して、身体をぎゅっとくっつけてくる。伊織の良い匂いが俺の鼻腔を満たして、柔らかい感触が服の上から伝わってきた。


「ねえ、しよ……?」


 彼女は顔を俺の鎖骨あたりに押し付けながら、言った。


「……どうした?」


 明らかに、おかしい。確かに伊織は俺が求めれば受け入れてくれるし、それ自体は嫌いではないはずである。ただ、わざわざ寝ているところに来て、布団に入ってきて、これはおかしい。彼女らしくない。


「どうもしないよ。したいなって……思っただけ」


 伊織は、こちらを見ないで答えた。少しだけ、俺を引き寄せる腕の力が強まり、彼女のお風呂上りのシャンプーとトリートメントの香りに包まれる。

 大好きな彼女がパジャマ姿(密着した感触から鑑みて、ノーブラ)で、同じベッドにいて、それでいて「したい」などと言われて男が何も思わないわけがない。一気に身体が上気するのを感じて、下半身に血流が流れていっているのも自覚している。

 しかし……


「今日はしない」


 俺は敢えて自分を律して、そう答えた。


「どうして?」


 彼女が驚いたようにこちらを見上げてきた。吐息がかかってしまうほど近くに、彼女の顔が近くにある。

 こちらを見上げた彼女の表情は、興奮して眠れなくて、愛する彼氏を欲しているような恍惚とした表情……ではなく、後悔と申し訳なさに満ちた、悲痛な表情だった。


「……そういう顔してそうだなって思ったから」


 言うと、彼女ははっとして、また顔を伏せて俺の首元に埋めた。


「罪滅ぼしでなら、してほしくないよ」


 伊織が本当にしたいなら嬉しいけど、と付け加えた。


「罪滅ぼしなんかじゃ……」


 伊織は言いかけてから、溜め息を吐いた。


「ううん、もしかしたらそうだったのかな。自覚なかったけど……やっぱり彰吾の事が申し訳なくて。何か真樹君が喜んでくれる事、したかっただけなのかも」

「だと思った。もっと上手くやらないと、すぐわかるぞ。俺を誰だと思ってるんだ」


 冗談っぽく尊大に言うと、彼女はくすっと笑った。

 俺はお前の彼氏だぞ。普段のお前と違う事なんて、気付くに決まってるだろう。もし、本当に普段通りの伊織なら、俺が寝てるとわかっていながら、布団の中まで入ってこない。

 申し訳なさとか、何かしてあげたい気持ちとか、罪悪感とか、きっとそんな思いで溢れて苦しくて、だからここに来たんだろう。


「もう……何でも見抜かれるから困っちゃうなぁ」

「そりゃ、お前の事が好きだから」


 言うと、彼女は言葉を詰まらせて、恨めし気にこちらを見上げてくる。


「今それを言うのは、ずるいよ」

「え、なんで」

「ずるいよ……」


 ぎゅっと、また彼女は腕に込める力を強めた。それに応えるように俺も力強く抱き締めてやる。


「今のでもし嫌な思いさせちゃったなら、ごめん」


 伊織は呟くように言った。


「なんで謝るんだよ」

「だって」

「こうして伊織が来てくれて、それだけで嬉しいけどな。喜ばせる事大成功だろ」

「だから……そういうところがずるいんだってば」


 また、彼女がぎゅっと抱き締めてきた。そんな彼女の頭をそっと撫でてやる。


「今日の私、ひどい女だったでしょ」

「まあ、阿修羅並に容赦ねえなとは思った」


 言うと、「なぁに、それ」と伊織はくすりと笑った。

 確かに、今日の彼女は容赦がなかった。死人に鞭を打つ程度のレベルではない。死体の口に手榴弾を突っ込んで木っ端微塵にしてしまうほど、容赦のなさだった。

 正直、伊織があそこまで冷酷になれるとは思っていなかった。人の痛みがわかるからこそ、なるべく痛みを味わわせないようにするのが麻宮伊織という人間だと思っていたからだ。


「あんな事言いたくなかったんだけど……でも、あの時の私は、彰吾の事をすごくんだと思う」

「え? なんで」


 伊織から人を傷つけたい等という言葉が出てきた事が驚きだった。人に危害を加えたり傷つけたりといった事は、伊織とは無縁だと思っていたからだ。彼女が主体的に人──しかも彰吾を──を傷つけたいと思うとは、考えていなかった。


「だって……真樹君の事、殴ったから。それも、私の事で、私のために色々考えてくれた真樹君にひどい事言って……それが許せなかったの」

「伊織……」

「彰吾に前を向いてほしいとか、諦めてほしいとか、そんな立派な理由じゃないんだよ。ただ、真樹君を傷つけられて、腹が立って、彰吾を傷つけたくなっただけなの」


 彼女はいつもの困ったような笑みを浮かべて、「最低でしょ、私って」と付け足した。

 これが、保健室で言っていた〝最低な事〟なのだと、ようやく理解した。もしかするとそれもあって、彼女は今日家に帰ってきてからも沈んでいたのかもしれない。

 伊織は手でそっと腫れた左頬に触れて、指先で優しく撫でてくれた。彼女に触れられると本来気持ちいいはずなのに、ほんの少しの刺激で、頬がビリビリと痛む。


「痛かったよね? ごめんね……もっと早く、私がちゃんとしていれば、こんな事にならなかったのに」


 頬を撫でてくれている彼女の手を取って、首を横に振る。


「違うんだ。俺もさ、彰吾には殴られて仕方ないって思ってた。あいつの大事なものを奪っちゃった事には変わりないし、あいつからしたら、俺なんて理不尽の塊だろうからさ」

「そんな事……」

「そんな事あるんだよ。俺があいつの立場なら、きっと俺の事殺したいくらい憎むと思う。だから、俺はさ、あいつの気が済むなら……黙って殴られてやろうと思ってた」


 しかし、俺は途中で我慢ができなくなって、やり返してしまった。殴られた事に腹が立ったわけではない。


「でもさ、やっぱあいつが言った事許せなかった。伊織の事散々バカにしやがって……何が可哀想だよ。お前が一番伊織の事ナメてんじゃねーか」


 思い出すと、また腹が立ってきた。

 伊織は、こんなに前を向いて頑張ろうとしているのに、過去を乗り越えようとしているのに、それを可哀想だからやめさせろ、だと? 

 何度考えても、到底納得できるものではなかった。彰吾の気持ちは、愛ではない。エゴだ。

 そう思っていると、伊織がくすっと笑った


「やっぱり似たもの同士だね、私達」

「え? なんで?」

「だって、真樹君も私も、自分の事じゃないところで怒ってる」

「あ……確かに」


 伊織は俺が殴られた事で、俺は伊織をナメられた事で、互いに別々のところで怒っている。言われてみれば、似たもの同士だ。


「彰吾、私達の地雷踏みまくりだ」

「だな。でも、こればっかりはあいつが悪い」


 そう言ってやると、可笑しくなって、互いに笑った。笑うと口の中と左の頬が痛い。きっとこんな会話をしているなんて彰吾が知ったら、もっと傷つくんだろうな、と思う。

 でも、仕方がない。これが、俺達なのだ。俺達が過ごした時間はあまりに濃密で、もう何年も付き合っているかのような気持ちになる。まだ付き合って半年も経っていないのが、本当に信じられない。


「でも、真樹君が怒ってくれてたの、本当に嬉しかったなぁ」


 また、彼女がぎゅっと抱き締めてくる。


「この人は本当に私の事を解ってくれてる、乗り越えられるって信じてくれてるんだなぁって……そう思うと、嬉しかった」


 伊織が俺の首に鼻を押し当ててきて、軽く口付けてきた。

 嬉しかったのは、俺も同じだった。あそこまで彰吾にはっきり伝えてくれたのを見て、俺も心のどこかで嬉しく思っていた。もう彰吾に気を遣わなくていいのかと思うと、心のどこかで安堵している。俺も十分最低な奴だ。

 もちろん、彰吾とはこれからまだ一年弱、卒業まで同じクラスで、顔を合わせる。しかし、バンド解散、いや、昨年のイブから抱き続けていた彼に対する罪悪感から、ようやく解放されるのだ。


「好き」


 そのたった二文字の言葉を、伊織は本当に幸せそうに呟いた。「俺も」と答えながら顔を寄せると、彼女のほうから軽く唇を合わせてきた。

 口の中が切れているので、大人のキスはできない。彼女もそれがわかっているので、何度も軽く唇を合わせてくるだけだった。こんなに気分が高ぶっているのに、我慢しなければいけないのはつらかった。

 そのまま伊織は唇を頬に這わせ、続けて首や耳にまで這わせて小さく何度も口付けてきた。彼女の吐息が肌に触れて、ぞくぞくしてくる。どんどん下半身に血流が集まっていっているのが、自分でもよくわかった。


「……今日は、しないんだよね?」


 悪戯そうに笑って、今度は耳たぶを優しく噛んできた。

 くそ。さっきから彼女の身体にアレが当たっているし、俺がどういう状況か知っているくせに、こうして挑発してくる。なんて女だ。いつからそんな魔性の女になったんだ。


「男に二言はない……!」

「もう。意地っ張り」


 彼女は可笑しそうに笑って、耳に軽く口付けてくる。そして、耳元で言うのだ。


「そういうところも、好き。大好き」


 頭が沸騰するかと思った。

 こうして、俺は釈迦と素手ゴロで喧嘩をした方がマシだと思うような、苛烈で厳しい煩悩との戦いを強いられるのだった。戦いの結果は……想像にお任せする。

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