13-17.弱い自分と残酷な自分と

 伊織は俺の手を引いて、校内へと速足で歩いていく。俺の呼びかけにも応えず、下を向いたまま、無言で俺を引っ張っていた。

 伊織に手を引かれて校舎裏を立ち去る前、信と目が合った。彼は、ちらっと放心状態の彰吾を見てから『こっちは任せろ』と口を動かしていた。とりあえず、彰吾の方は信に任せるしかないだろう。

 伊織が彰吾に言った事実の数々は、おそらく彼の根本を揺るがしかねないほどの衝撃的で、傷ついているに違いない。そして、最後の『泉堂君』『さよなら』の二つの言葉が意味するところは――幼馴染から、他人への回帰。幼馴染との決別。

 伊織が取った選択は、彰吾との関係を断ち切り、幼馴染を辞めて他人になる事だった。

 彼女は今月頭、彰吾にお礼を言いたいと言っていた。それに対して、俺は『本当に言うべき事なら、きっと言えるタイミングがくる』と答えたのである。

 確かに、伊織はお礼を言えた。それは間違いない。しかし……この結末でよかったのだろうか。

 わからない。ただ、伊織がそれを選んだ。ならば、それを尊重すべきなのだろう。


 校舎裏からほど近い保健室にそのまま連行され、バタンとドアを閉めた。

 保健の先生はちょうどどこかに出払っているのか、保健室は無人で、静寂に包まれていた。吹奏楽部の練習や、運動部の掛け声がかすかに聞こえている。

 伊織はようやくこちらを振り向いたかと思うと、俯いたまま、そっと抱き着いてきた。背中に手をまわして、ブレザーの裾のあたりをぎゅっと掴んだまま、俺の胸に顔を埋める。

 俺はとりあえずどうしていいかわからず……彼女の頭をそっと撫でた。


「……ごめん」


 伊織がまた、ぽそっと謝った。そういえば、さっきも小さな声でそう言っていた。


「何が?」

「また、真樹君の事傷付けちゃった」

「そんな事ないさ」

「あるよ。あの時と同じ……私、全然成長してない」


 あの時とは、おそらく三野のポッキー事件を言っているのだろう。はっきり拒絶しなかったからああなった、今回も彰吾をもっと早くに完全に拒絶していればこうはならなかった……彼女はこう言いたいのだ。


「同じじゃないだろ」

「同じだよ。だって、彰吾の事傷つけたくないって思って有耶無耶にしてたから、結局こんな事になっちゃったから……」


 有耶無耶にしていたのは、伊織だけじゃない。俺だって彰吾との問題からは逃げ続けていた。伊織だけに責任があるわけではない。


「三野の時とは、問題のレベルが違うだろ。幼馴染で、親から世話になってて、大変な時に助けてもらってて……それなら、なかなか言えないさ。むしろ、よくあそこまで言ったって驚いた」

「初めて彰吾に本音言ったかも。ずっと言えなかった事だったから」

「よく頑張ったよ」


 彼女は胸の中で首を横に振った。


「違うの。ほんとは告白された時に言わなきゃいけなかったのに。一番大切なのは真樹君なのに……」


 ぎゅっと俺を抱き締める腕の力が強まった。


「きっと、彰吾を傷つけたくないだけじゃなくて、自分も傷つきたくなかったんだと思う。こんなひどい事を考える女だって思いたくない、そんな最低な女になりたくないって。結局は、自分が可愛いだけだったのに……それを自覚したくなかっただけ。弱いんだよ、私……」

「だからこそ、さっき伊織は、想像しうる中で一番彰吾を傷つける言葉を選んで、一番自分も傷つく事を選んだんだろ」


 彼女は首を横に振って、「そんな事ない」と答えた。

 ただ、彼女は否定するが、自分も彰吾も傷つかないで済む方法なら、もっと他にあったと思うのだ。わざわざ一緒に住んでいる事も言わなくてよかったし、俺と幼馴染だった事も、東京に一緒に来られて迷惑だった事も、言わなくてよかったはずだ。

 しかし、伊織はそれを敢えて言った。最も彰吾が傷つく言葉を選んだのである。彼を諦めさせる為に。彼を、自分の呪縛から解放する為に。そして、自分がどんな人間かを自覚する為に。


「それもあったかもしれないけど……でも、それだけじゃなくて。私、もっと最低な事思ってたから」

「最低な事?」

「うん……我慢できなくて、言っちゃった」


 そう言って、伊織は身体を震わせて、静かに泣いた。

 震える肩にそっと手を置いて、髪を撫でて、宥めてやる。

 彼女がどんな〝最低な事〟を思ってそれを言ったのか、今の俺にはわからない。ただ、彼女の心には、彰吾をとことん傷つけた罪悪感が、きっと巣くうのだろう。弱い自分と、残酷な自分を否応なく自覚せざるを得なくなったのだ。

 それから解放されるには、俺が全てを理解して受け入れてやるしかないのだと思う。時間はかかるかもしれない。しかし、きっとこれは伊織にも彰吾にも、そして俺にも必要だったのだと、彼女が納得できる日まで、俺がそばにいて勇気づけてやるしかないのだ。


「わかってるよ。全部、わかってるから」


 いいや、わかっていない。こんな事を言っている俺も、十分ひどいからだ。彰吾を傷つけたのは、伊織だけじゃない。俺だって、共犯者……いや、主犯なのだ。


「あんな事、言わせてごめんな」


 彼女はまた、胸の中で首を横に振っていた。

 だが、違わない。伊織にそう言わせてしまった俺が、一番最低なのである。俺がもっとうまく立ち回っていれば、伊織はあんな事を言わずに済んだかもしれない。俺が、彼女に言わせてしまったようなものだ。

 いつか、彰吾から気持ちをぶつけられる日が来る気がしていた。その時、俺は彰吾に反撃しないようにしようと思っていた。

 しかし、許せなかった。俺がただ嫌いなだけなら、許せないなら、殴られてやるのはアリだと思っていた。それで、彰吾の気が済むなら、それでいいと思っていた。

 ただ、彰吾の言っていた事は、俺からすれば、伊織をバカにされたも同然なのだ。周りがよしよしして支えてあげないと自分では何もできない女の子だと言われた気がして、それが許せなかった。

 あんなに毎日ピアノを弾いて、難曲に挑戦して、トラウマを乗り越えて自分を取り戻そうとしている彼女を、そんな甘ちゃんだと認識している彰吾が許せなかった。

 ただ、結果的に俺のそうした対応が、彼女にこの決断をさせてしまった。それによって深く彰吾も伊織も傷ついてしまった。俺にも責任はある。


「俺と付き合った事、後悔した?」


 以前、彼女は観覧車の中で『真樹君と付き合ってる事で後悔なんて、一度もしてないから』と言っていた。それの確認を込めて敢えて、改めて問い直してみた。もちろん彼女がなんと言うか、知っている。わかった上で、敢えて訊いてみた。

 彼女は赤くなった目で恨めしそうにこちらを見上げた。涙が溢れていて、頬っぺたがびしゃびしゃだ。両手で彼女の頬を覆って、指で涙をぬぐってやる。


「するわけ、ない」

「知ってる」

「これからもしない。ずっと一緒にいる」

「それも知ってる」

「わかってて、訊かないでよ。いじわる……」

「うん、ごめん」


 謝りながら、彼女の顔にそっと顔を近づけていく。

 伊織が目を瞑ったので、そっと唇を重ねた。二回、三回と重ねると、彼女が息を漏らして、求めているかのように少し口を開けたので、そこに舌を入れようとしたその時――


(痛っっっってえええええ!)


 口の中に激痛が走った。殴られて口の中が傷だらけだったのを完全に忘れていた。


「……真樹君?」


 俺が何もしなくなったのを怪訝に思った彼女がそっと目を開くと……その表情が、先ほどの色っぽいものから、驚愕へと変わった。


「――って、真樹君、血! 口から血が出てる!」

「え? あ」


 たらり、と口から顎へ血液が垂れた。口の中はもちろん鉄味一色である。

 どうやらさっきのキスで傷が拡大してしまったらしい。


「え、えっと、こういう時どうすればいいの? まずは、傷口を消毒? あ、ガーゼ?」


 伊織はとりあえず近くにあった『消毒液』と書かれた茶色の薬品瓶を手に取って、俺へと向き直る。

 やめろ、殺す気か。そんなもの飲まされたら胃や腸の菌まで殺菌されて絶対に腹を壊す。


「って、そっか、痛いよね? 先に痛み止め飲んでから塗ればいいの?」


 流血によって伊織が予想以上にパニくってしまっているらしい。待て、しかも今お前が手に持っているのは胃薬薬だ。ていうか痛み止め飲ませて薬塗るってなんだ。お前冷静じゃなさすぎだろ。

 危うく最愛の人に殺されるかという時、ちょうど保健の先生が戻ってきてくれて、俺は九死に一生を得たのだった。


────────────────


【後書き】


 こんにちは、九条です。

 書籍版では、今回の信の『こっちは任せろ』についての裏側を記した番外編『穂谷信の苦悩~2nd season~』も収録されています。


https://kakuyomu.jp/users/kujyo_writer/news/1177354054922463560


 詳しくはこちらからどうぞ。

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