13-16.別離
「伊織……」
伊織は過去に見た事がないくらい、悲しそうな表情をしていた。目じりに涙を溜めて、俺達を睨みつけている。悲しみと怒りと……そのどちらも混ざったような表情だった。彼女の表情を見て、怒りが急速に冷めていくのを感じた。
「もうそのへんでやめとけ」
信は、溜め息混じりで呆れたように言った。
伊織はツカツカと歩いてきて、俺の横を通り過ぎる。横を通り過ぎた際に、小さな声で「ごめん」と俺に向けて呟いた。その「ごめん」が何を意味しての謝罪だったのか、俺にはわからない。
彼女はそのまま、膝をついて立ち上がれないでいる彰吾の前で屈んで、彼と目線の位置を合わせた。ポケットに手を入れ、一瞬だけハンカチを出そうとしたが……彼女は、そのハンカチを出さず、もう一度ポケットの中に仕舞い込んだ。
「彰吾……」
伊織は、噛み締めるように、その名前を言っていた。
彼女は俺に背を向けている為、どんな表情をしているのかはわからない。
「今まで逃げてたけど……ごめんね。私が、いけなかったんだよね」
「何がや……?」
「大阪に行ってからはほとんど彰吾との想い出ばっかりだから、やっぱりなかった事になんて、できなくて。だから、逃げてたんだと思う。私が弱いばっかりに、彰吾も真樹君も傷つけちゃった……本当に、ごめん」
彼女は俺の方を見なかった。彰吾の方を見ているのか、地面を見ているのかもわからなかった。
俺は信の方を見るが、彼はちゃんと聴けと言わんばかりに、二人のほうを顎でしゃくって、鼻から溜め息を吐いていた。
「出会ってから今まで、ずっと元気付けてくれてありがとう。つらい時、支えてくれてありがとう。守ってくれて、ありがとう。ほんとに、彰吾には感謝してもし切れないくらい、たくさんのものを与えてもらってて……こんな陳腐な言葉しか出てこないのが、ほんとに腹立たしいんだけど……凄く、感謝してる。ありがとう」
春の夕暮れ。部活を頑張る生徒たちの声が遠くから聞こえてくる中、伊織の声だけが響いていた。静かな声だけど、確かに暖かくて、決意を感じる声。
伊織は、息を大きく吐いた。
「でも、ごめん。やっぱり私、彰吾のそういうところ、どうしても好きになれなかった。ううん、今まで色々してもらってたから何も言えなかったけど、むしろ……嫌だった」
彰吾の目から光が消え、伊織から視線を地面に移していた。
その目に力はなく、希望を失ったかのような、そんな目をしていた。彼の唇がわなわなと震えていた。
「何も自分ではできない奴だって思われてるみたいで、嫌だった。さっきの話も聞いてたけど……私がトラウマに負けちゃう事前提で話進めてて、悲しくなった」
「ち、違うんや! そうやなくて……」
「何が違うの? 何も違わないよ」
伊織が彰吾の言葉を遮って続けた。
「彰吾の中では、私はきっと、小学生の頃のままなんだよ。東京から来たっていう事を理由にクラスに馴染めてなくていじめられてた、小学三年生の麻宮伊織のままなの。だから、一人じゃ何もできないって思ってるんだよ」
彰吾が言葉を詰まらせて、また視線を地面に戻した。
「おじさんにも、おばさんにも、本当に感謝してる。支えてもらって、わからない事を教えてくれて、助けられてばかりだった。でも、本当の事言うと……おじさんにもおばさんにも、彰吾にも、東京には来てほしくなかった」
伊織のその絶望的な告白を耳にしてから、彰吾の瞳から完全に光が消えた。信じられない、というような顔をしていた。その現実を全て否定したいような絶望。彼の表情は、そんな感情を物語っていた。
彼女が口にした言葉は、彰吾にとって、何よりも残酷で、絶望的な言葉だったのだ。
「そ、そんな事……そんな事って」
「だって私、頼んでないよ……東京に戻る事にしますって、おじさんに伝えただけだもの」
伊織は彰吾の言葉を遮って続けた。
「もちろん、おじさんとお父さんが仲良かったのは知ってるし、おじさんもおばさんも私の事すごく可愛がってくれてたから、『来ないで』なんて言えなかったけど、でも、本当は……来て欲しく、なかった」
伊織自身、絞り出すようにして、声を発していた。
彼女の発している言葉は、彰吾はもちろん、彼女自身をも傷つけるものでしかなかった。
この本音は、きっと彼女が彼女自身にもひた隠しにしてきたものだったはずだ。彼女自身、気付かないようにしていたに違いない。
自分のために転勤までして、そして学校まで変えてついてきてくれようとしている幼馴染とその両親に対して、『来て欲しくなかった』などという感情を抱いてしまう自分を、彼女は認めたくなかっただろう。激しい自己嫌悪に苛まれるから。そして、何より彼女は、自分の気持ちよりも他人の気持ちを優先させてしまう性格だから。
しかし、それで転校初期の、彼女の彰吾への冷たい対応などの真意がわかった。当時、俺はどうして『一緒に転校してきた幼馴染に対してこんなに距離を置きたがっているのだろう』と疑問に感じていたはずだ。
それが、彼女の本音だったのだ。
「きっと、おじさんもおばさんも、彰吾も、私が一人で暮らす事が不安で、心配してくれてたんだよね。でも、安心して? もう大丈夫だから」
「何が大丈夫やねん……だって、お前は一人暮らししてて──」
「私、今月から真樹君の家で一緒に住ませてもらってるの」
伊織はさも自然に、言葉を続けた。まるで、友達にちょっとした秘密を教えるみたいに優しい口調で、彼に対して絶望的な宣告をした。
その瞬間、彰吾はこれ以上ないというほど、傷ついた表情をしていた。
「お父さまもお母さまもすごく優しくて、私を家族として扱ってくれて……なんだか、お父さんとお母さんといるみたいで。本当に幸せなんだよ? それにね、私と真樹君が、実は幼馴染って事も判明しちゃったりして」
伊織はそのままの優しい口調で、俺と実は幼稚園の頃よく遊んでいて幼馴染だった事と、親同士で仲が良かった事、俺の両親は伊織の事を覚えていた事など、洗いざらいに話した。どれだけ今の環境に感謝しているかも、付け加えながら。
そのどれもが、彰吾にとっては鋭利な刃物となって、彼を串刺しにしているようだった。
今まで冷静な表情で成り行きを見守っていた信も、伊織の発言には破顔して、驚いた表情でこっちを見てきた。とりあえず、頷いておく。信への説明は、また後だ。
「だから、もう彰吾が私を気にかける必要なんて何もないから……心配しないで」
言うと、大きく息を吐いてから伊織は立ち上がって、こちらに向かってくる。彼女は、泣きそうな顔で、笑っていた。
「もう……真樹君も、くだらない事で喧嘩しないでよ。前に喧嘩しないって約束したでしょ?」
少し声を震わせながら……そして、瞳に膜を張りながら、彼女はいつも通りな口調で話しかけてきた。口調はいつも通りだけれど、彼女の唇は、震えていた。
「あ、血が出てる。大丈夫?」
ポケットから、さっき一度引っ込めたハンカチを取り出して、俺の口元にそっと当ててくれる。それはわざと彰吾に見せつけているようにも思えた。
「保健室、いこ? 手当しないと」
「このくらい唾つけとけば治るよ」
「だめ。放っておくと腫れちゃうから。それに、こんな顔で帰ったら、お母さま腰抜かしちゃうよ」
「わ、わかったよ」
伊織が俺の手を引いて、その場を立ち去ろうとする。あまりに伊織が普通なので、思わず俺の方が気後れしてしまった。
角を曲がる前にふと立ち止まって、伊織が彰吾の方を向いた。
「あ、
伊織は、慣れない様子で、彼の苗字を呼んだ。彼女の口からその苗字を聞いたのは初めてだった。俺も信も、驚いて伊織の顔を見た。
彼女の表情はまるで普通だった。ただ、繋がれている彼女の手は、小刻みに震えていた。
「私、サッカーしてる泉堂君の事、好きだったよ。たくましくて、輝いてて、皆に頼りにされてて、かっこよかった。夏の大会も泉堂君がいれば大丈夫だと思うから、頑張ってね」
伊織は、泣きそうなのを堪えて、精一杯の笑顔を作って彼に向けた。
「私もピアノのコンクール頑張るから……だから──」
そして、最後にこう言った。
「──さよなら」
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【お知らせ】
『君との軌跡』は電子書籍にて完結済です。
https://kakuyomu.jp/users/kujyo_writer/news/1177354054921744675
物語の結末をいち早く読みたい方は、電子書籍の購入をお願い致します。読み放題でも読めますので、よかったらそちらもどうぞ。
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