13-15.愛情とエゴ
四月も後半に差し掛かっていた。
伊織のピアノは順調なようで、フランツ・リストの『ため息』をとりあえずは何とか弾けるようになっていた(本人的に完成度が全然足りない、との事だったが)。その合間に、月末のSスタジオ無料ピアノリサイタルのセットリストも練習しているようだ。万人受けしやすいように、ジブリ映画や有名映画の主題歌などをピアノアレンジするらしい。
俺も合間に勉強を頑張っていた。ひたすらインプット、インプットである。
今は英単語と英熟語、古文の単語、それに世界史の参考書で、敢えて現代史以降からやっている。理由は簡単で、学校でまだやっていないのと、受験対策では一番疎かになりがちなところが現代史だからだ(これはマスターの助言)。
確かに、学校の授業ではまだ中世から近代史あたりをちんたらやっている。マスターの言う通り、受験までに世界史を全時代網羅するには、現代史は早めに潰しておいた方が良い箇所だった。余裕があれば文化史対策で倫理にも手を出してみるつもりだが、まだそこまで行けていない。
まあ、まだ春、四月だ。勝負は秋以降。今はとにかくインプットに時間を費やす。
さて、そんな風に四月を過ごしていると、Sスタジオ無料ピアノリサイタルも今週末に控えていた。
チラシを見て、何件かSスタの方に電話の問い合わせがあったらしく、これまたそこそこ盛況しそうな雰囲気が漂っているので、今週末が楽しみだった。
そんな最中である。ある事件が起こった。
「麻生、ちょっと話あんねんけど。今ええか?」
放課後だった。
どこで今日は自習しようか考えながら生徒玄関に向かっていると、俺達(特に俺と伊織から)とは距離を置いていた泉堂彰吾が、いきなり俺に話しかけてきたのだ。
彰吾と直接会話を交わすのはいつ以来だろうか。思い返してみても、記憶にない。
「……いいけど」
口ぶりから、仲直りしようぜ、という友好的なニュアンスではなかった。どちらかというと、嫌悪。彼からは、俺に対する敵対心のようなものを感じた。
「ちょっと場所変えようや」
くいっと顎でしゃくって、外に出よう、と彼は身振りで示してきた。俺は肩を竦めて、彼の背中について行った。
◇◇◇
彰吾のあとについて行って辿り着いた場所は、校舎の裏庭だった。俺が白河に振られた場所であり、三野を恫喝した場所……いい思い出が何ひとつない、糞みたいな場所だった。
こんな場所に呼び出すなんて、きっとろくでもない用事に決まっている。
「ていうか彰吾、お前部活は大丈夫なのかよ。もう始まっ──」
とりあえず何か会話をしよう──そう思って話しかけた時だった。
彰吾がおもむろに振り返って、彼の憎しみがこもった表情と、右拳がいきなり視界に飛び込んできたかと思うと……そのまま俺の左頬に強い衝撃が走った。
その時、咄嗟に身体を脱力させて、後ろに飛んだ。考えてやったというよりは、身体が勝手に反応してくれたのだが、不意打ちのダメージを美味く分散させられたと思う。
しかし、見掛けが悪く、豪快に後ろに殴り飛ばされたかのように吹っ飛んで、尻もちをついてしまった。
「──ッてぇな! いきなり何しやがる!」
彼を見上げて睨みつけた。
口の中に血の味が染みわたった。ダメージを殺したといっても、完全に殺せるわけじゃない。素手で殴られれば痛いし、口の中も切れる。
彼は、まるで汚いものを見るかのように、俺を見下ろしていた。
「……これ、なんやねん?」
ポケットから、一枚の紙を取り出して、俺のほうに投げつけた。
それは、今週末開催されるSスタの伊織無料リサイタルのチラシだった。
「たまたま
俺は立ち上がってズボンの砂を払って、首を回した。
「見たまんまだけど? 日本語読めないわけじゃないだろ」
そして、そう返した。
「眞下に訊いたらお前が考えたって言うてたんやけど、ほんまか?」
彰吾は俺の答えには応えず、更に質問を重ねてきた。
「だったらなんだよ。テメーに殴られる筋合いなんかねーぞ」
今までの俺だったら、こんな冷静に話し合わず、殴られたらその場でやり返していた。しかし、俺が彼を殴れるわけがない。相手は彰吾なのだ。理由もわからなかったし、俺の中ではまだ彼への罪悪感がある。彼には殴られても仕方がないと思っている自分もいた。
俺は、彼の一番大切なものを奪ってしまったのだから。
「なんで……なんで、こんな事伊織にさせるねん……?」
彰吾の肩が怒りで震えていた。
意味がわからなかった。なぜ、彼がここまでこのピアノリサイタルの一件で怒るのかもわからなかった。
「なんでって……意味がわかんねぇよ」
「何寝言ほざいてんねんお前!」
そして、彼は俺の胸倉を掴み、怒鳴りつけた。彼の唾が俺の頬にかかった。俺はそれを指で拭って、彼をまっすぐに睨みつける。
なあ、彰吾。勘弁してくれ。あんまり理由がわからないままそんな風にされたら、俺も我慢できずにやり返してしまうだろうがよ……そんなに気が長くないんだよ、俺は。
殴られた怒りと理不尽さに襲われてやり返したい衝動と、彼を殴れるわけがないという理性が俺の中で鬩ぎ合っていた。
俺が気に食わないならちゃんと言ってくれ。理由によっては殴られてやる。それで彰吾の気が済むなら、殴られてやるつもりだった。
「あいつが……ピアノ弾かれへんかったんも、その理由も知ってんのやろ⁉」
「ああ……知ってた」
「ほんなら、なんでこんな事させるねん⁉ 信やら眞下やらはあいつの事知らんから手伝ってしもたんはしゃーない。でも、お前は全部事情知ってるやんけ! なんで伊織がこっち来たとか、どんな思いでこっち来たとか、そういうの全部知ってて……なんでまた弾かせるねん⁉」
ああ、そうか。やっぱり伊織なんだな。
彰吾がここまで感情を露わにして、怒りをぶつけられるのは、伊織の事だからできるのだ。それだけ、彼にとっては彼女が大切で、きっと何より守りたいものだったのだろう。
俺が彼から奪い取ってしまった、彼の宝物。それが、伊織なのだ。
「どんだけあいつが傷ついたと思ってんねん! 親父さん亡くなりはった後どうなったか教えたろか⁉」
彼が両手で俺の胸倉をつかんで、痛々しく叫びつけた。
「笑いもでけへん、泣きもでけへん、ピアノ弾こうとしたら手が震えて弾けへん……そんなんやってんぞ! お前はこっちに来てからの伊織しか知らんからわからんかもしれへんけど、俺らがどう接してええかわからんくらい、あいつ苦しんでたんや!」
「…………」
「せっかく元に戻ったのに……お前、またあいつにそんな辛い思いさせろって言うんか……!」
彰吾の言葉は、伊織への愛で溢れていた。
彼女を大切に想っているのが、彼女の幸せだけを想っているのが、本当によく、痛いほど伝わってきた。
「お前と付き合うのは死ぬほど気に入らんかった。でも、伊織がそれを選んで、それで幸せになるんやったらって思って引いた。でも、なんでピアノやねん⁉ なんで、またあいつがつらい思いするかもしれへん事をまたやらせようとすんねん! 俺は、もうあんな伊織見とうないから……もう見んで済むんやったらって思って、身ぃ引いてんのに!」
「……あいつが、伊織がそれを選んだからだよ。全部あいつの意思だ。別に俺がやらせてるわけじゃない」
「それでも……それでも止めたれや! 他にいくらでもやれる事なんてあるやん。俺の代わりにドラム見つけてまたバンド組んでもええやん。伊織、バンドでも十分楽しそうやったやんか! 解散してしもたんは俺の所為なんわかってるけど……ピアノやなくてもええやんけ! なんで他のんで満たしてやらへんねん⁉」
彰吾の中にある感情が、なんとなくわかってきた気がする。
それは……愛とエゴ。彰吾の想いは、確かに愛が溢れている。何年間も彼女を想ってきたその気持ち、地元やサッカー部を捨ててまで伊織を支えてやりたいと思う気持ちで溢れている。
「また人前でピアノなんか弾いたらどうなるんかわからんやろ。一人で弾くのと人前で弾くのとは違うんや。またピアノの前で凍り付いて弾けへんようになったら、お前どう責任取るねん⁉ 客集めて弾かれへんかったら、それこそ二度と弾かれへんようになんねんぞ⁉ お前、そういうの考えた事あんのか⁉」
その反面、彰吾の気持ちは、エゴにも満たされていた。
こうあるべき、こうしていてほしい、こうなってほしい……伊織への愛が深いが故に、自分の愛情とエゴの区別がつかなくなっているのだ。その証拠に、彼の言っている内容に、〝伊織の意思〟はどこにもない。全て、彰吾の憶測でしかないのだ。
「お前はそばに居れるのに……バンドでも、普段も、俺より全然あいつのそばに居れるのに、なんであいつを守ったれへんのや!」
そう叫びながら、また俺の左頬を殴った。胸倉を掴まれているので、今度は後ろに飛び退く事もできず、まともに食らった。血の味が口の中に広がる。
痛みは感じなかった。ただ、俺の中で沸々と怒りが沸き上がってくるのを感じた。殴られるだけなら耐えられたのに。
「なんであいつを嫌な思いから救ったれへんのや! また傷穿り返させて何になるねん!」
そう叫んでもう一発彼の拳が振り下ろされようとした時……俺はその拳を手で掴んだ。
彰吾に殴られるのは仕方ないと思っていた。受け入れようとも思っていた。
でも、もうこいつに殴られてやるわけにはいかない。こいつが俺を殴る理由がそんな事なら、もう一発たりとも殴られてやるわけにはいかなかった。
「テメーは伊織の何なんだよ……!」
そのまま、彰吾の掴んだ手の上から覆いかぶさるように、腰を回転させて、彼の頬に向けて右拳を振り下ろした。
小さな呻き声と同時に今度は彰吾が吹っ飛び、口から血を噴き出させていた。
敢えて顎は狙わなかった。顎を打ち抜くと立てなくなってしまうし、失神してしまう事もあるからだ。
「てめーはあいつの親か⁉ ああ⁉」
彰吾が立ち上がろうとしたところに、中段蹴りを右の脇腹目掛けて放つと、俺の足の甲が彼の脇腹に刺さった。「ぐえっ」と胃液と口から流れる血液を地面にまき散らして、彰吾が崩れ落ちる。口の中を深く切っているのだろう。血が止まらないようだ。
ただ、それは俺も同じだ。同じ箇所を二回殴られているので、かなり切れている。ただ、怒りからか、血が止まってきているようだった。
「ピアノを弾くのも、もう一回あいつがトラウマに挑むのも、それを乗り越えようとすんのも、全部あいつの意思だろうが。それで乗り越えられなかったとしても……それがあいつの人生だろ」
「それが……可哀想やっちゅうとるんやろうがぁ!」
片膝をついたまま、彼は俺を睨みつけていた。
その一言が余計に俺を苛つかせた。
「てめぇ……どれだけあいつを舐めてやがんだよ……!」
もう我慢できなかった。このわからずやとと事んボコボコにして身に叩き込んでやろう──そう思った時だった。
「──もうやめて!」
いきなり後ろから、声が聞こえた。
彰吾と同時にそちらに目を向けると、そこには伊織と信の姿があった。
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