13-13.信と眞下
翌日の放課後も、音楽室からは『ため息』の旋律が漏れていた。今日は伊織が音楽室で練習する日だ。彼女は、毎日ピアノの練習に励んでいた。
昨日昼休みに聴いた時よりは上達しているように思う。明らかにタッチミスが減っていた。
彼女は昨日の昼休みも、放課後も、今日の昼休みも練習していた。昨日の放課後は、Sスタで夜遅くまでピアノを弾いていたし、ほぼほぼずっとピアノの事を考えているのだろう。家でも運指のトレーニングをしていた。
あれほど熱心に何かに打ち込んでいる伊織を、俺は初めて見た。
音楽室の扉の前で、彼女の旋律に耳を傾けながら、なるほど、と思った。
今の伊織を見ていると、榊原春華が伊織にピアノを辞めさせたくないと言った気持ちを改めて理解できた。また、伊織が今まで恋愛に興味が持てず、ピアノに打ち込んできたのも、わかった気がした。
これだけ没頭できるのだから、本当にピアノが好きなのだろう。昨日の負けず嫌い発言も、その現れだ。
伊織は、普段は大人しくて流されがちな性格をしているが、本当に好きな事では、我を発揮するのだ。
それはそれで、とても面白いと思えた。
『だって、負けたくないから』
自信なさげに笑っていたが、声の響きから垣間見える自信。あんな伊織を見たのは初めてで、彼女の自信の根源にはやっぱりピアノが不可欠だったのだ。
もしかすると、彰吾はバンドがピアノの代わりになればいいと思って、彼女をバンドに誘ったのだろうか。何か打ち込めるもの、或いは気が紛れるものを伊織に持ってほしかったのかもしれない。もちろん、今となっては、真相は闇の中だが。
「声は……かけないでおくか」
扉の取っ手に手をかける寸前、思いとどまって踵を返した。集中していそうだし、今は声を掛けない方が良い気がしたのだ。
ちなみに俺はこれから、信や眞下と一緒に街に例のSスタコンサートのチラシを配布しにいく予定だ。配布というより、チラシを置かせてもらえるよう交渉に回る。地元の掲示板サイトにもイベント開催情報を登録してある。
伊織に声をかけてから行こうと思っていたが、練習の邪魔をするのも気が引ける。
頑張れよ、と心の中で言って、音楽室を後にした。
◇◇◇
「あたしに言ってくれたらクラスの子達召集するのにー」
「だから、それじゃ意味ねーんだって。バカだなぁ眞下は」
「バカってなによ、あんたにだけは言われたくないわよ」
眞下は信が話していたのか、無料リサイタルの事を知っていた。もしかすると、俺と伊織が二人で過ごしている事もあって、この二人はこの二人で時間を共に過ごしているのかもしれない。もちろん、二人の関係がどの程度進んでいるとか、そんな野暮ったい事は訊かないし、訊かなくてもわかる。
俺は街並みを眺めながら、半歩下がって二人の会話に耳を傾けていた。
「お? なんだとこのやろ、そこまで言うなら来月の中間テスト勝負すっか?」
「いいわよ? 何賭ける?」
「マック二千円分奢るっていうのはどうだ?」
「どんだけ食うのよ」
「じゃあ、焼肉奢り」
「嫌よ、高いもん。あんた自分が負けた時の事考えてないでしょ」
「お前は何がいいんだよ」
「コメダのパンケーキセットとパフェ」
「また太るぞ、お前……」
「ま、またってなによ、またって!」
「いや、最近お前ちょっと……」
「え、うそ、太った⁉」
この通り、俺が全く間に入れないくらい、二人は永遠と話し続けている。
全く、お喋り同士はこれだから……と思ったが、少し違う。
心無しか、二人の隙間が狭くなっている気がした。それに少し前のように、罵り合っているわけでもない。なんだか、本当に仲睦まじい男女の会話という感じだ。
こいつらはこいつらで、自分達のペースで前に進んでいるのかもしれない。
最近、伊織とばかりいたからか、周りの小さな変化も見過ごしていた。
彼らもまた、もしかすると、あの観覧車から少し変わってきていたのかもしれない。
「麻生君はどう思う⁉」
不意に眞下がこっちに話を振ってきた。
「は? 何が」
「あたし、太った?」
「いや……俺はわかんないけど。どうせ信がテキトー言ったんだろ?」
信に訊くと、彼は親指をぐっと立てて、こう言った。
「もちろんだぜ!」
眞下のスクールバッグが信の頭蓋に向けてフルスイングされるのが見えた。
こいつはこう……なんで一言多いんだか。成長しないやつめ。
「ところで、どこ回るの?」
「とりあえず商店街の店一軒ずつ入って置いてくれるかお願いして、その後はスーパーとかの掲示板に貼らせてもらえないか頼んでみようぜ」
信がさらっと言った。
案外、下準備がいいというか、そこまで考えてくれていたとは驚きだ。俺はてっきり今からほぼノープランでやるものとばかり思っていた。
「あ。それなら呉服屋のおばあちゃんあたしの知り合いだから頼んでみる!」
「お、じゃあそっちは任せた!」
「任された!」
息ぴったりで、二人は笑顔を交わしていた。
二人は言ってみればコミュニケーション能力が高い部類だし、誰とでも仲良くなれるタイプの人間だ。商店街にも知り合いが多いのだろう。
なんだか、むしろ俺の方が要らなそうだ。
楽しそうな二人を見ていて、苦笑いが漏れた。見ていて微笑ましくなる気持ちと、ほんの少しの疎外感。
もしかすると、信は俺と伊織の間にいる時、こんな気分だったのかもしれない。
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