13-12.伊織の覚悟
神崎君達と話した後、音楽室に向かっていると、階下にもうっすらとピアノの音が聞こえてきた。
昼休みにピアノを弾く許可を学校から得ているのは伊織なので(そもそも昼休みに音楽室を使う人がいなかったのだが)、この音色は彼女のものだ。
滑らかな優しいピアノの音と、流れるさざ波のようなメロディが印象的だ。しかし、まだところどころタッチミスがあるようで、たまに音階を外している。まだまだ彼女の完全復活は程遠そうだった。聞こえてくるメロディはかなり音数が多いので、きっと難曲なのだろう。
音楽室の扉を開くと、鍵盤とピアノの屋根の間から、伊織はこちらに顔を覗かせた。俺と目が合うと、彼女はにっこりと笑顔を見せて、ピアノを弾くのを止めた。
「あ、お疲れさま。遅かったね」
慣れた手つきで盤カバーを丁寧に被せて、鍵盤蓋を閉めながら彼女は言った。
「ああ、神崎君と双葉さんにも手伝ってもらって、そのあとちょっと立ち話をしてたんだ」
「ふぅん……? 私の事ほったらかして、明日香ちゃんとお話してたんだ?」
伊織が少し拗ねた表情を作りながら、二人分のお弁当箱が載せてある机の前に座って言った。ふくれっ面を作っている彼女の前に座ってから、とりあえず彼女の両頬を指で摘まんでやった。
「なんだその言い草は~? ちゃんと神崎君とって先に言ったぞ?」
そして、反対側に引っ張って、ぐりぐり回してやる。
「いひゃいいひゃいいひゃい~!」
伊織の頬っぺたが伸びて、その美しい顔が一気に歪んでいく。
彼女の凄いところは、こうして頬っぺたを引っ張っても可愛いところだ。なんなんだ、この可愛い生物は。ああもう、俺だけのものにしたい。
涙目になってきたので、ぱっと離してやった。
「もう~、冗談なのに。DVだよぉ」
彼女は両手で赤くなった頬っぺたを摩りながら、恨めし気にこちらを見てくる。
「笑えない冗談を言うからだ」
「だって、寂しかったんだもん」
「嘘吐け。ずっとひとりでピアノ弾いてるだろうが」
「バレた? でも、早く会いたかったっていうのは、ほんと」
照れたそぶりも見せずに、さらっと微笑みながら言うから、こいつはずるい。嫌でもどきっとさせられてしまうのだ。
「毎日家でも学校でも会ってんだろ……」
照れ隠しでこう返してしまう。昨日の場合、家でも学校でも寝床でも、だ。
「それでも会いたいって思うのは、だめかな?」
首を傾げて、少し寂しそうに言う。
そう言われて、だめと言えるわけがない。そもそも全然だめではないし、めちゃくちゃ嬉しい。返事の代わりに、彼女の頬に手を添えて、そっと唇を合わせた。
「……もっと」
とろんとした目でおねだりされて、逆らえるはずがない。そのまま二度、三度、四度と唇を重ねた。こうしていると、昨夜のことを思い出して、火がついてしまいそうになる。身体中に一気に血流が回るのを感じた瞬間──伊織がぐっと俺の身体を押し返してきた。
「おしまい。お昼、食べる時間なくなっちゃう」
「ええ……おねだりしといてそれは……」
「今日はいじわるしちゃう」
小悪魔みたいな笑みで言われてしまった。ひどい、あんまりだ。昨日はあんなに優しくてえっちだったのに。
「それに、早く食べて練習もしないとだから」
「続きは家で、てか?」
「……ばか」
彼女を照れさせたところで、俺達は机に座り直して、母さんが作った弁当を食した。
こうして弁当を見てみると、おかずが全く同じなので、もう教室では食べれないなぁ、などと思うのだった。信はともかく、眞下に勘づかれたら色々終わる。眞下はそれこそ歩く拡声器みたいな奴だから、学校中に知れ渡ってしまう危険性があるのだ。あいつだけには知られるわけにはいかない。
伊織が「いただきます」と手を合わせて言うので、俺も釣られて「いただきます」と言う。もはや習慣になりつつあるが、これはひとりで食べていたら絶対に言わないよな。
「そういえば、最近明日香ちゃんと遊んでないなぁ」
伊織がひじきを摘みながら言った。
「双葉さん、寂しがってたぞ。あと、眞下も」
「詩乃が? 詩乃、友達いっぱいいるのに」
「なんだかずっと俺といるから、伊織の事誘い辛いんだってさ」
「そういえば、最近ずっと一緒だもんね」
眉を寄せて、困ったように笑っていた。俺が大好きな彼女の表情のひとつだった。
「誘ってあげれば?」
「でも……」
「母さんの手伝いなんていつでもできるさ。友達付き合いも大事だって。母さんだってそう言うに決まってる」
むしろ、自分に気を遣って遊びに行っていないなど知ったら、母さんなら怒りそうなもんだ。
「うん、今度放課後遊び誘ってみるね」
「それがいいよ」
そうなると俺が余ってしまうが……余った男同士で遊ぶのも悪くない。俺も女とばかりいる奴と思われていそうだし。いや、最近は特にそうなのだけれど。
それからしばらくクラスの連中の話をしていた。毎日毎晩一緒にいるのに、こうも話すことが尽きないというのは、不思議なものだった。もちろん、話すことがない時もあるのだが、それはそれで黙っていても、気にならないというか。確かに、こうなってしまえば夫婦みたいだなと思う。
「そういえば、ピアノの方はどう?」
「うーん……まだまだって感じかなぁ」
「さっき結構ミスってたもんな」
「あ、バレた? 難しいんだぁ」
彼女が選曲したのは、フランツ・リストの『ため息』という楽曲だそうだ。
『ため息』は、『三つの演奏会用練習曲』と呼ばれる曲の中の一つで、変ニ長調で四/四拍子の楽曲だ。テンポが速く、しかも情緒豊かに弾くことが求められていて、アルペジオと両手で旋律を歌い継いでいく、技巧的な楽曲。何かのCMかテレビで聴いた事がある楽曲なので、そこそこ有名な曲なのだと思う。
「特に後半が難しいの。『タールベルクの三本の手』っていう技法があるんだけど、こう、左右の手で弾きながら親指を組み合わせて……」
伊織が机の腕で実践してみせてくれたのだが、左右の手が高速で入れ替わっていて、指が絡まるのではないかと心配になってしまうような動きをしていた。
「ってするんだけど、これが全然できなくて」
肩を竦めて、苦笑いしていた。
「やっぱ伊織って凄いんだな」
「凄くないってば。弾けてないから」
「いや、今の手の動きが常人離れしてた」
「そんなことないよー。パソコンのタイピングがすごく速いのと変わらないと思う」
そうなのか。そう思うと多少は親近感が……って、違うだろ。音とテンポがあるし、ピアノは。
「真樹君や神崎君だってギター弾くじゃない? それと同じだよ」
「いや、確かに弾くけども」
伊織の指は明らかに次元の違う動きをしていたと思う。
「もう一曲は決まったのか?」
「ううん、まだ。『ため息』が弾けたらチャレンジしてみたい曲があるんだけど」
「もっと難しい曲やんの?」
「うん。そのつもり。バラキレフの『イスラメイ』っていう曲があって、一度も弾いたことないんだけど、それ弾きたいなって」
「なんでまたそんな難しそうな曲を……」
今の『ため息』ですら難しいって言ってるのに、自殺行為なのではないだろうか。ただでさえブランクがあって、一発勝負なのに。
「自由曲ってそんなに難しい曲を選ばなきゃいけないもんなのか?」
「そんなことないよ? 私が好きで選んでるだけ」
「ならなんで……一曲難しい曲やったらあとは確実に弾けるやつ選んだ方がいいんじゃねーの?」
コンクール事情はわからないが、今回の立大主催のコンクールは、あくまでも高校生を対象としたものだ。しかも全国大会とかそういった類のものでもなく、あくまでも大学が入試代わりに主催しているようなもの。そこまで高い技術が求められているとは思えなかった。
「だって、負けたくないから」
いつもの困ったような笑顔で、彼女は言い切った。
その強きな発言が、普段の伊織と全く結びつかなくて、少し驚く。
「私、ピアノだとすっごく負けず嫌いになるの」
「そうなのか」
「うん。それにね、今回は……特別だから」
「入試代わりだから? それならむしろ安全な方を……」
「違うよ」
伊織は遮って、お弁当箱を仕舞った。椅子から立ち上がってピアノの前に座ると、もう一度鍵盤蓋を開けた。
「真樹君がもう一度ピアノと向き合わせてくれたから。ピアノを弾く機会と、弾ける場所を与えてくれたから。だから、誰にも負けたくないの。絶対に」
そう言い切った時の彼女は、普段の弱気な彼女とは全く別人に見えるくらいかっこよくて。太陽が差し込んだ光がまるで後光を照らすかのように、彼女を神々しく照らしていた。
一呼吸置いてから、彼女はリストの『ため息』をまた弾き始めた。
優しいタッチからさざ波が流れるような旋律とメロディが発せられて、身体がふんわりと浮いたような感覚になる。気怠い午後にゆったりと眠気に身体を預けるような、そんなよくわからない幻想的で不確かな世界へと導いてくれた。
彼女のピアノは、やっぱりすごかった。
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