6-13.彼女の本音
その翌日からは、一応はまともな練習ができた。以前程ワイワイ楽しくという感じではないが、彰吾と伊織もちゃんと会話をしているし、それなりに気まずさは解消できている。
彰吾はやや俺を避けている気がするが、これはもう仕方が無い。逆の立場なら俺はバンドを辞めているだろうし、それでも続けられる彼は凄いと思うのだ。
彰吾の事もあって、俺と伊織は少し距離を置いていた。ふとした拍子に恋人オーラを出してしまい、彼を傷つけないようにするためだ。彼が色んな気持ちを抑えつけてバンドを続けようとしてくれているのに、俺達が何の我慢もしないというのは、筋が通っていない。伊織とは直接話し合ったわけではないのだけれど、なんとなく暗黙の了解でそうなっていた。彰吾に対するうしろめたさがそうさせているのかもしれない。
今は、帰り際に軽く触れるくらいのキスを交わす程度だ。抱擁する事もなければ、イブや公園の時のように、何度も唇を重ねる事もなかった。帰り際のキスが無ければ、実は付き合っていたのは夢なのではないかと不安になってくる程、俺達は友達だった頃のように、普通に接していた。公園で〝イチャ溜め〟しておいて本当によかったと思う。
だが、俺も伊織も少し不器用な面があって、付き合う前のような、自然な関係には戻れなかった。というより、告白する前の俺達の距離感がどの程度だったのか、もうわからないのだ。互いに上手く距離を置いているつもりなのだが、第三者から見ると距離を置き過ぎているようで、信からは喧嘩しているのかと心配された。
俺達が恋人同士に戻れるのは、スタジオ練習からの帰り道の時だけだった。それでも翌日にはまた距離を置かねばならないので、あまりイチャイチャもできない。俺にとっては拷問を受けているような日々だったが、伊織は案外平気なようで、いつも「じゃあまた明日ね」と手を振って帰っていくのだった。しかしながら、そういった努力が実ってか、スタジオ練習で空気が悪くなる事はなく、彰吾が不機嫌になる事もなかった。
そんな拷問的な生活を続けて三日が経った頃──すなわち、二十九日の夜だ。いよいよ明日は年末ライブだというのに、練習中から伊織の様子が少しおかしかった。
なんだか少し不機嫌というか……ちょっと、いつもより口数が少ない。生返事が多く、会話にもあまり入って来ない。何か機嫌を損ねるような事を言ったかと思って会話を思い返してみるが、身に覚えがなかった。
スタジオ後にライブ前のミーティングと称してご飯をメンバーで食べた時も元気がなく、やっぱり口数が少なかった。信が心配して伊織に「どうした?」と訊いたが、「緊張してるだけだよ」と濁していた。
ただ、伊織がこういったようにわかりやすく態度に出すのは、少し珍しい。彼女は人に迷惑を掛けないようにするためなのか、自分が不機嫌であっても、あまり態度や表情には出さないのだ。そこだけが気がかりだった。
その帰り道の事だった。機嫌が悪いのか、体調が悪いのかわからないので、なるべく当たり障りのない音楽の話で会話を繋いでいると──不意に伊織が俺の袖を掴んできたのだ。
「……伊織?」
立ち止まって彼女を見ると、伊織は俺の袖を掴んだまま、俯いていた。
「どうした?」
「ごめん……ちょっと、もう限界かも」
何が──と訊き返そうと思った時には、伊織が俺に抱き着いていた。まるで迷子の子供が親を見つけた時のように、その細い腕を俺の背中に回して、ひしっと締め付けてくる。
「え? ど、どうした? 限界って何が?」
いきなりの彼女からの抱擁に驚いて狼狽えるが、彼女は何も答えてくれない。
突然の事でどうしていいかわからなかったが、とりあえず彼女を抱きとめると……彼女は安堵の息を吐いて、身を預けてきた。
誰もいない夜の住宅街で、数日前と同じように俺達は道路の真ん中で抱き締め合っていた。気温は低く寒いけれど、彼女の体温と吐息を感じられて、俺の体にも熱が帯びてくる。
「なあ、どうしたんだよ。言ってくれなきゃわかんねーぞ」
一向に話してくれる気配がなかったので、こちらから訊いてみる。今日は不機嫌なのかと思っていれば、いきなりの抱擁である。正直なところ、彼女の真意を図りかねていた。
しばらく黙っていると、伊織がぽそっと呟いた。
「傍にいるのに他人みたいに接さなきゃいけないの、もうやだな……」
その言葉を聞いて、ようやく彼女の本音がわかった。彼女は不機嫌だったわけではなくて、俺と同じように、距離を置いたように接さなければならないのが、つらかったのだ。昨日や一昨日も平気な素振りを見せていたけれど、あれは彼女なりの強がりだったという事だろう。
「……バンド、続けるの辛い?」
俺と同じ気持ちでいてくれたのは嬉しかった。でも、それはバンドを続けるのが難しいという結論になってしまうのではないだろうか。そして、彼女がバンドそのものを辛いと思っているなら、それはもう続けるべきではないと思うのだ。明日のライブを最後に辞めるという選択肢もある。
しかし、伊織はその質問に対して、首を横に振った。
「バンドは……楽しいの。信君も神崎君も好きだし、ピアノ以外でこんなに楽しいって思えたの初めてだったから、続けたいなって思う」
でも、と伊織は続けた。
「真樹君と、こんな風に距離置いたみたいにしなきゃいけないのは、やだ」
これが彼女の本音なのだろう。だからこそ、どう答えを出していいのかわからなかった。
彰吾の事を気遣って、俺と伊織は自分の気持ちを押し殺して、みんながいる前では距離を置いている。本当だったら声を掛けたいなと思う時でも、すんでのところで思い留めて信や神崎君と話している事も多い。結果、信からは喧嘩しているのかと勘違いされるに至っている。
バンドそのものは楽しいが、そういった避けているような関係をずっと続けるのも、彼女からすれば辛かったのだ。そして、その気持ちは俺も彼女と同じなので、よくわかる。
「ごめん、私、すっごくわがままだよね……」
「そんな事ないさ」
伊織の細い肩をぎゅっと抱き締めて、そう言ってやる。わがままなのは、俺も同じだ。俺も同じ事を考えているのだから。
「とりあえず、さ。明日のライブ終わったらしばらくライブないから、しばらく様子見ようか。その間に何か変わるかもしれないし」
俺の提案に、伊織はこくりと頷いた。俺達が採った選択肢は、先延ばしだ。今は俺達が付き合い始めたばかりで、更に彰吾も振られた直後だ。そのせいで歪な関係になってしまっているが、時間が経つ事で、何かしら動くかもしれない。
少なくとも、俺と伊織、そして彰吾の中でバンドを続けたいという気持ちで共通しているのであれば、辞めるかどうかを決めるのは、もう少し後になってからでいいのではないかと思うのだ。
「それに、明日は伊織の書いた歌詞が聴けるんだろ? それ聴いてからじゃないと、死んでも死にきれないな」
「もう、大袈裟だよー」
そこで伊織がくすっと笑って顔を上げた。そこにはいつもの彼女の笑顔があって、俺もほっと安堵の息が漏れた。
「ごめんね、もう大丈夫。元気出た」
言いながら、彼女は俺から離れた。少しそれを名残惜しく思いながらも、彼女が立ち直ってくれたのなら嬉しい。それに、彼女の本音が聞けて元気が出たのは俺も同じだった。もしかすると、伊織は伊織で、自分だけがつらいのかと不安に思っていたのかもしれない。
「明日のライブ、頑張ろうね!」
「おう」
俺と伊織は手を繋いで、笑みを交わした。
先延ばしする事が決して良いわけではないのはわかっていた。でも、今の現状だけで決めてしまうのも、もったいないように思うのだ。
バンドを辞めるのはいつでもできる。それよりも続けたいという気持ちが上回っているのであれば、やれるだけの事はやろう。改めて、そう思った。
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