6-12.コートの中で包まって
それからすぐにコートを羽織り、家を飛び出した。母親にはどこに行くのかと訊かれたが、「ちょっとコンビニまで」と適当に嘘を言ってある。
伊織の家のおおよその場所は知っているが、まだ行った事はない。いつものY字路から彼女の家の方面へと曲がり、進んでいく。普段、こっちの道を使う事はほぼないはずなのだけれど、この道を歩いていて、俺は妙な懐かしさを感じていた。
──何だか、昔よくこのへんで遊んでいた気がする。
幼き頃の記憶は霞みがかっていて、思い出せない。けれど、俺はどうしてかこの道をよく通っていた記憶があった。そして──いつしか、この道を通る事を避けていた気すらする。
自分がどうしてそう感じているのかはわからない。ただ、どこか霞みがかった記憶の先に、その答えがあるような気がした。
「真樹君」
ふと、前から名前を呼ばれたので顔を上げると、そこには俺の大好きな彼女がいた。ほんの数分前まで、電話で話していた彼女。伊織は部屋着の上からコートを羽織っていて、素足に突っ掛けのまま出てきていた。どうやら急いで出てきてくれたらしい。
「バカ、なんで靴下くらい履かないんだよ。家の前まで行くつもりだったから待っててくれてよかったのに」
「だって──」
少しでも早く会いたかったから、と小さな声で伊織は言って、遠慮がちに俺の手を取ろうとした。でも、俺は彼女の手を取らず──そのままがばっと抱き締めた。幸い、夜も遅いので通行人はいない。もう、我慢できなかった。ただ一目顔を見て、ちょっとキスできたらいいな、と思っていたのだけれど、いざ彼女を目の前にすると、俺の節制の徳なんてものは、雀の涙ほども役に立ちやしなかった。伊織もそれに応えるように、背中に腕を回して、ぎゅーっと腕に力を込めていた。ほんの数時間前に会ったばかりなのに、何週間も会っていなかったような感覚で、とにかく彼女に触れられる事が嬉しかった。
「真樹君って、実は寂しがり屋さん?」
「うるさい……」
悪戯げに言う伊織に、何も言い返せない俺であった。
さすがにいつまでも住宅街の真ん中で抱き合っているわけにもいかないので、彼女の手に引かれるまま、近くの公園に移動した。そこは彰吾が伊織に告白した公園でもあった。ちょっとだけあの時の記憶が蘇ってしまうので気が進まなかったのだけれど、他に場所もないので、仕方がない。それに、嫌な記憶を払拭するには、ちょうどよかった。
入口付近のベンチに腰掛けて、身を寄せ合って寒さを凌ぐ。と言っても、彼女の場合素足に突っ掛けである。とりあえず自分のコートを脱いで、彼女の膝にかけてやった。「それだと真樹君が寒いでしょ?」と言われたけれど、伊織が風邪を引くよりマシだと思えた。
「もう。しょうがないなぁ……」
伊織は呆れたように言って自分のコートを脱いだかと思うと……俺の肩にかけて、毛布で包まるみたいにして、二人でコートの中に収まった。彼女は部屋着なので当然薄い生地の服を着ていて、そんな彼女とコートの中で密着状態になってしまった。
「ほら、こうすればあたたかいでしょ?」
あたたかいも何も、頭に血が昇って沸騰してしまいそうだった。どうしてこうも伊織は俺の喜ぶ事を知っているのだろうか。悪意なくこれをやっているとしたら、恐ろしい天然小悪魔だ。
伊織が悪魔なのか天然小悪魔なのかは置いておいて、彼女ともっと密着したいがため、その細い腰に腕を回した。ぎゅっと引き寄せると、クリスマスの時よりも彼女の体温を身近に感じられた。
伊織は「あったかいね」と照れ臭そうに言いながら、猫みたいに俺の首に鼻をこすりつけてくる。彼女の吐息が俺の首筋に優しく吹きかけられて、血を吐いてしまいそうなくらい幸せを感じてしまった。
もっともっと彼女を強く抱き締めると、彼女もまた、何も言わずに俺に身を預けてくれた。
「ねえ、この辺りに神社ってある?」
暫く無言で二人してコートに包まっていた時、伊織が唐突に訊いてきた。
「……神社? ああ、いくつかあるよ。それが?」
「じゃあ初詣行かない? 除夜の鐘鳴るくらいに」
「初詣か。そっか、もうそんな時期だもんな」
今日は二十六日。年越しまでもうすぐだ。ここ数日の流転ぶりにすっかりと忘れていた。
「真樹君と一緒に年越ししたいなって。だめ?」
「だめなわけないだろ。でも、日付変わるくらいだと人多いぞ?」
「うん……でも、私元旦は朝から京都の方行かなきゃいけないから。一緒に初詣するなら年明けすぐしかないかなって」
「なるほど」
お父さんの実家か、と俺はその地名により思い出した。伊織は元旦から一月四日までは父方の実家・京都鞍馬に行き、それからまた三日間は山梨の母方の実家で過ごすのだそうだ。どうやら始業式の前日の夜まで東京に帰って来ないらしい。
俺からすれば寂しい限りだが、彼女には彼女なりの理由がある。
本来なら、彼女はどちらかの実家で引き取られるはずだった。しかし、彼女は東京に戻りたいという意思を貫いて一人暮しをさせてもらっている。その感謝も込めて、せめて正月くらいは祖父母と一緒に過ごしたいのだと言う。
「オッケ。わかったよ。じゃあ、紅白が終わったらいつもの場所で待ち合わせって感じでいいか?」
「うん!」
やった、と嬉しそうに伊織は笑いかけてきて、また鼻を首にこすりつけてくる。猫がじゃれてくるみたいで可愛い。
「伊織」
名前を呼ぶと、彼女は甘えたような表情のままこちらを見上げてきた。潤んだ瞳を見つめていると、気持ちが通じたのか、彼女がそっと目を閉じた。そして、そのまま唇を重ねる。あの聖夜のように、何度も何度も互いの気持ちを確かめ合った。
彰吾の告白を目の当たりにしてしまった、嫌な想い出がある公園を、彼女との甘い想い出で塗り替えていく。もしかすると、彼女はそれが狙いで、この公園に行こうと言ってくれたのだろうか。
伊織は素足だし、俺もコンビニに行くと言っている手前、それほど長くは過ごせない。名残惜しくはあったけれど、少しだけ愛を確かめ合ってから、彼女を家の近くまで送っていった。
本当は大晦日も一日中彼女と一緒にいたいと思ったけれど、親父も家に帰ってくるので、なかなか家から抜け出すのも難しい。理由を説明すると、彼女を家に連れて来いとか言われそうだし……それはそれで面倒そうだった。というより、まだ伊織をうちの親と会わせたくなかったというのが本音だ。
伊織はまだ父親が亡くなって間も無い。俺の家族とのやり取りを見て、自分の家族を思い出して辛い思いをするかもしれない。もちろん、将来的に伊織とも会わせなければいけないけれど、もう少し彼女の様子を見てから決めたいのだ。色々あったからつい忘れてしまっていたけれど、よく考えればまだ付き合い始めて三日目。とにかく伊織を傷つけないように、少しずつ少しずつ進んでいこう。
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