12-18.過保護な彼女
昨日は家に帰ってから、Sスタ復興企画について、ひたすら頭を働かせていた。
思いつきで色々提案したものの、俺は企画やイベント運営の他、ピアノリサイタルそのものについてについて全く知識がなかった。
それらを補填すべく一晩中調べものをしていると、朝方になってしまっていて……気付いた頃には体調を崩していた。我ながら、興味が湧いてしまうと止まらなくなってしまうのは悪い癖だ。
朝は少し具合が悪いなと思う程度だったのだが、五限に体育に出たのがまずかったらしい。そこから一気に具合が悪くなった。
そろそろ体調不良を隠し通すのも難しいなと思っていた頃、ホームルームが終わるなり、伊織が振り返ってきた。
「ねえ真樹君。今日ってこの後忙しい?」
絶不調な俺とは対照的に、なんだか表情が明るい。
「なんで?」
「もし暇ならこの後カフェ行かない? 新しいお店できたんだって」
伊織曰く、昨日の御礼も兼ねてご馳走したい、という事らしい。御礼をされる程の事もしていないし、まだ結果を出せていない。それに、今日は……体調がすこぶる悪い。
「行きたいんだけど、ちょっと今日は無理かな」
「どうしたの? あっ……もしかして、具合悪かったりする?」
伊織が俺の顔を覗き込んできた。
ああ、そうやってまじまじと見られる伊織の目を誤魔化せる自信がないな。あんまり心配掛けたくないのだけれど。
「風邪気味っぽくて」
「えっ……どうしよう、大丈夫⁉」
伊織が俺よりも慌ててしまっている。
「大丈夫、ちょっと熱っぽいだけだから」
ピアノリサイタルについて調べていたせいで睡眠時間がなくなって、とか言ったら、怒られそうだ。そこは黙っておくことにしよう。
「保健室、行く?」
「心配しすぎだって。もう帰るだけだし。カフェ付き合えなくて悪い」
「そんなの、どうだっていいよ。それより、熱ってどれくらいあるの? ちゃんと計った?」
「いや、さっき体育してから一気に具合悪くなってきたから、計ってない」
俺がそう言うと、伊織がいきなり俺の額に手を伸ばしてきた。
「えっ、なに⁉」
「熱、計ってあげる」
心配そうに言う伊織。いや、でもここ、教室だし……。
「いや、いいから。恥ずかしいし」
「恥ずかしがってる場合じゃないよ」
「だ、大丈夫だからっ!」
ボクシング世界王者のフロイドメイウェザーのように首を左右にぐりんぐりん捻って、伊織の手から逃れた──のはいいが、頭痛で死にそうなときに激しい動きで脳を揺らしたもんだから、一気にぐらっときた。
「ぐお、やばい……」
ぐったりと机に倒れ込んだところに、伊織のひんやりとした手が額に添えられた。
もはや逆らえる余力はなく、伊織になすがままにされてしまった。これぞまさしくLet it be。
信や眞下のニヤニヤした視線がうざったるいが、伊織はお構いなしだった。また冷やかされるんだろうな、等と考えると、それだけで気分が滅入る。だが、それ以上に伊織の手が気持ちよくて、もっと甘えたくなってしまう。
「やっぱり熱い……もう。なんで今まで言わないかなぁ」
伊織が呆れた様子で溜め息を吐きながら、手の甲で俺の頬に当ててくれる。やっぱりそれが気持ちいい。
「ほら、早く帰ろ? 学校にタクシー呼んでもらうから」
「いや、それは恥ずかしいって……それに、金もったいないし」
「それくらい私が出すよ」
だ、だからですね……伊織さん。
そういう事を教室で言うと恥ずかしいんだって。ほら、何だか視線集めてるし、しかもタクシー代女に出させんのかよって顔してるし。白河莉緒や彰吾なんかも冷たい視線を投げかけてきてる気がするし。
「うひょっ、相変わらずお熱いねえ、お二人さん。シュガップルも大概にしろよ~」
こういう時に野次を飛ばすのは、大体信だ。というかシュガップルってなんだ、シュガップルって。シュガーとカップルか? そんな言葉初めて聞いたぞ。
「もうっ、信君! 真樹君ほんとに熱あるんだから、ふざけないで」
そして信に対して本気で怒り始める伊織。
信はわざとらしく「ヒェッ」と言って眞下の後ろに隠れて笑っていた。クラスメイト達はそんな光景をニヤニヤ──一部冷ややかな目だが──と見つめる。
このままではもっと熱が上がってしまうと危機感を持った俺は、何とか踏ん張って立ち上がる。
「あ、歩いて帰れるから」
「ほんとに大丈夫?」
「だから、大丈夫だって」
言った矢先にぐらりと身体が揺れてしまった。
「ああ、もう。やっぱりタクシー呼ぼ? ほら、鞄貸して。持ってあげるから」
「だ、大丈夫! 俺ってばこんなに元気!」
甘やかそうとしてくる伊織から逃げるように廊下へと向かうと、伊織が溜め息を吐きながら横について歩いて、心配そうに見上げてくる。「お大事にな~」と信や眞下の冷やかしが聞こえた気もするが、今は知った事ではない。
結局この日は家に帰ってから熱が上がってしまって、「だからタクシー呼ぼうって言ったのに!」と伊織から散々怒られる羽目になった。
そして、看病という名の大義名分を得た伊織は、存分に俺の世話を焼く。母さんも母さんで、「伊織ちゃんがいるなら全部任せるわね」と言って夕飯の買い物に出掛けるもんだから、もう俺の逃げ場はない。ただただお世話されるだけの存在になってしまったのである。
「服、脱げる?」
体温計で熱を測って解熱剤を飲まされてから、部屋まで連れていかれると、伊織が唐突にそう訊いてきた。
「あの、伊織さん。さすがに今の俺にそんな事をする体力は」
「……えっち」
どうやら違ったらしい。少し怒ってらっしゃる。
「凄く汗かいてるから、着替えた方がいいって思ったの」
「あ、ああ。そっちね」
「そっち以外ないでしょ……」
彼女は少し呆れたように溜め息を吐いてから、俺の着替えを持ってきた。
「あ、まだ着ないで」
汗で濡れた服を脱いで新しいシャツを着ようとすると、伊織にそう遮られた。なに、と訊こうとした時に、背中にひんやりとした濡れたタオルの感触。
そのまま、タオルを持った伊織のほっそりとした手が、俺の背中を遠慮がちに動いていった。無言で身体を拭いてくれるものだから、恥ずかしくて堪らない。そのまま背中から、腕や肩へとタオルを移動させていく。
恥ずかしくてやめさせたいのに、心地よくてつい身を任せてしまう。
「……昨日、夜遅くまで調べものしてたでしょ?」
伊織が小さな声で遠慮がちに訊いてきた。
「えっ」
「明け方、真樹君がトイレ行った時に私も目覚めちゃって」
ああ、なるほど……これも同棲している副次効果という事か。行動を隠しきれない。
「あんまり無理しないでね」
「無理してないって」
「またそんな事言って……もし明日も熱下がらなかったら、私も学校休むから」
「おい」
「私の為に無理する時は、それくらいの責任感を持ってね?」
背中越しに、伊織が悪戯っぽく笑っているのがなんとなく目に浮かんだ。どうやら、調べものに関してもお見通しらしい。これはこれで、同棲というのは大変だなと思った。嘘や隠し事ができない。
身体を拭いてもらってからベッドに寝かされると、伊織は、冷蔵庫から持ってきたらしい冷却シートを俺の額にぺたっと貼り付けた。じゅわっと熱が解放されていき、心地よい。
「何か食べたいものとかある?」
「……あんまり食欲はない、かな」
「じゃあ、あとでお粥作ってあげるね」
「ああ。なんか色々悪いな」
「私がそうしたいだけだから」
くすりと伊織が笑った。
ああ、ダメだこれは。もう完全に子供になってしまっている。なんだってそんな嬉しそうに俺の世話を焼くんだか……これはこれで情けないな。そう思いつつも、世話を焼かれるのも、くすぐったくて心地良い。
結局俺が寝付くまで、ずっと伊織は手を握ってくれていた。目が覚めた時にはお粥を作ってくれて、ふーふーして食べさせて来ようとするものだから、堪ったものではない。恥ずかしくて熱がまた上がりにそうなった。
彼女のそんな看病の甲斐もあってか、翌朝には風邪も完全に治ってしまった。それはそれで、少し勿体ないなと思ってしまう俺もいたのは、ここだけの話だ。
こんな風に看病してもらえるなら、たまに寝込んでみるのも悪くない。そんな風にも思わされたひと時だった。
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