12-17.信のメンタルが破壊された瞬間(二回目)
二人でバカップルみたいにして、春の夜の街を歩く。
Sスタジオからの帰り道は、駅に向かう大通りを通るが、既に九時を回っているからか、それほど人通りは多くなかった。
伊織は歩きながら俺の手を取って、まるで猫が甘えてくるみたいに、手の甲を自分の顔にすりすりしていた。
その時の表情が、本当に嬉しそうで幸せそうで、それに手の甲を伝わってくる彼女の柔らかい頬の感触が心地よくて、心までぽかぽかと暖かくなってくる。そんな時だった。
──ボトッ。
目の前で何かが落ちる音がした。ハッとして音がした方を見ると、俺達の目の前に、食べかけのハンバーガーがぼとりと落ちていた。視界に入ってきたのは、手から滑り落ちて地面に無残に転がるハンバーガーと、桜高の男子生徒の下半身。
そのままゆっくりと視界を上に上げてみると(その時、伊織と完全に動作がシンクロしていた)、そのハンバーガーを持っていた主は、我らが友人、穂谷信だった。信は俺達の様子を見て、昨日みたいに生ける屍のような虚ろな目をしていた。
「いや、いいんだ……お前等が、仲良いのは知ってるから……ははは」
死んだ目のまま、乾いた声で笑っていた。
「あのな、信。顔が全く笑ってねーぞ」
「ははは、俺は笑ってるぞ……?」
だから声以外が笑ってないんだよ。
「いや、ただ、ちょっとな、麻宮って周りに人がいないとそんな風になるんだなって思うと、な……」
伊織がハッとなって俺の手を離した。
「……チクショー!」
「あー! 信、待て! ちょうど話があるんだ」
また小梅なんちゃらのように泣き叫んで走り去ろうとするので、慌てて呼び止めた。
「……お?」
信が走りだそうとした体勢のまま固まって振り向く。
顔は正気に戻っていた。さっきのゾンビ顔はマジなのか顔芸の一つなのか、一体どっちなのだ。
「実はちょっと今こういう事を計画していて……」
そこで、俺は先ほどのスタジオ無料ピアノリサイタル企画の話をした。
きっとSスタだけに宣伝を任せていても集客はできないだろう。集客に関しては、俺も期待できない。
そこで、この穂谷信だ。彼の謎の人脈の広さと人間力を使えば、人を集められると思ったのだ。先ほど須田店長と話している最中、信の協力が不可欠だと感じていたところだ。今話してしまっても良いだろう。
「へー! なんだ、随分面白そうな事企画してるじゃねーか! 俺も噛ませろよ」
案の定、信が食いついてきた。バンド解散以降、信が退屈しているのは知っていた。こうやって面白い事を提案すれば、絶対に食いついてくるのも計算のうちだ。
「そうなったら、まずはチラシ作りだな。デザインやっていいか?」
「ああ、もちろん。やってくれると助かるよ」
「おっけ。麻宮の写真使うけど、いいよな?」
信が伊織に訊いた。
「うん、もちろん。あ、でもどれ使うか先に教えてくれると嬉しいかも」
「了解!」
早速信は、動き出した。信の良いところは、面白いか面白くないかで物事を判断する事だ。彼は損得勘定よりも、面白さを追求する。今回の一件を信が手伝ったところで、信にはメリットがほとんどない。
しかし、俺は彼がやると信じて疑わなかった。その理由は、彼が退屈していたからだ。面白ければ、自分が損をしたって構わない……彼はそういう人間なのだ。
「じゃあ、さっそく今から家帰ってやるわ! できれば今日中に作るぜ。じゃあな!」
言って、信は手を振ってから背を向けてから走り去った。
「……信君、すごく活き活きしてたね」
「だな。退屈だったんだろ」
そんな信を見送って、俺と伊織は互いに苦笑した。
彼にとってバンドがなくなるというのは、きっと退屈そのものだったのかもしれない。
以前、バンドを組まないのかと聞いたが、今のところそのつもりはないと言っていた。ただ、あのスカウトの柳さんと連絡を取って、ベース講師を紹介してもらうとこの前話していた。信は、きっともっと音楽をやりたいのだろう。
「あ、コンクールの事、母さんにも話しておけよ。ピアノの練習とかで遅くなる日とか心配するだろうし」
「うん。もちろんそのつもりだよ」
信の背中が見えなくなってから、伊織はそっとまた手を繋いできた。
「なんだかすごいね」
「何が?」
「私のために、皆が動いてくれてて……嬉しいけど、ちょっぴり申し訳なくなっちゃう」
「そう思うなら、しっかりピアノを弾けばいいさ。それが一番の恩返しになるから」
「……うん」
嬉しそうに頷いて、ぎゅっと手を握り締めてくる。それに応えるように、俺も握り返した。
俺は心のどこかで、またUnlucky Divaが復活するのではないか、と期待していた。それは、バンドとしてのUnlucky Divaではないのかもしれない。
しかし、俺や信がこうしてやる気になれば、きっと神崎君も手伝ってくれる。またUnlucky Divaのメンバーが集まってひとつの事に向けて頑張れるのではないか、と期待してしまうのだ。
そんな事はもう無理だとわかっているのに。彰吾がいる限り、もう俺達五人が一堂に会する事はないとわかっているのに。俺は、やはり期待してしまうのだ。あの時間が、なんだかんだ言って楽しかったから。
春の夜風が心地よくて、いつもより少し遠回りをして帰った。
こうして制服のまま、彼女と帰宅できるのも、あと一年弱。そう思うと、ひと時ひと時が大切に思えてならなかった。
時間が動き出している。
それは時計の針のように当たり前に動いているものではなくて。伊織の進路への時間が、今明確に動き出していた。そして、それは俺の進路も、決めつつあった。今までどう動けばいいかわからなかった。でも、ようやく俺にもどうすべきかというのが、見えてきたのだ。
──立教学院大学、か。
偏差値的には行けない大学ではない。もちろん、今のままでは無理なので、努力は必要だ。立教学院大学は、校舎が綺麗だし、池袋にキャンパスがある事から、もともと受験候補の中にあった。ただ、そこに決めるだけの理由がなかったのだ。
しかし、伊織がそこの芸術学部音楽科を目指すのであれば……俺にも、そこの大学を目指す明確な理由ができてくる。
正直なところ、高校生には偏差値以外で大学の差異を図る術がない。あとは校風や学部、キャンパスの立地や雰囲気……せいぜいそんなところだ。目指す理由なんて、なんでも良いのだと思う。大切なものは、そこに行きたいという意思。
今、俺の中で、初めてそうした意思が生まれつつあったのだ。
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