12-16.ヒーローみたい
ある程度スタジオ無料リサイタルの話がまとまった後は、伊織のピアノの練習をそのままスタジオで眺めていた。もちろん、全く何もしないのでは手持ち無沙汰だったので、スタジオのエレキギターを借りて、アンプには繋げずギターを触ったり、彼女のピアノをBGM代わりに参考書を読んでいたりした。参考書を読むふりをして、実質は彼女のピアノを弾く姿を盗み見していたのは、ここだけの話だ。
彼女が何の曲を弾いていたのかはわからない。どこかで聴いた事があるメロディのクラシックの楽曲だとは思うが、全体的にゆったりしていて、落ち着いた曲を流れるように弾いていた。
印象的だったのは、彼女が凄く楽しそうにピアノを弾いていた事だ。
春華が危惧していたような、ピアノを弾く事への恐怖心は感じられない。たまに俺と目が合うと、目元だけ笑ってみせて、そのままピアノを弾き続けていた。
俺が見ていてくれるから恐怖がなかった、と言ってくれたのは嬉しい。そして、彼女が楽しそうにピアノを弾いているのが、俺にとっては何よりも嬉しかった。
スタジオからの帰り道、唐突に彼女が言った。
「やっぱり、真樹君って凄いね」
彼女の視線から尊敬の念を感じたが、俺は首を傾げる。
「どこが? 凄いのは伊織のピアノだろ」
「そういう事じゃなくて……アイデアっていうか、発想っていうか。私の悩みも須田店長の悩みも解決しちゃうところがほんとに凄いなって。須田店長も感心してたよ?」
私も楽しくピアノ弾けちゃったし、と伊織。
そうなのだろうか。俺としては、全員が良い結果になればいいと思って頭を捻ったまでである。それほどすごい事をやったという気にもなれなかった。
「俺を褒めるのは実際に成功してからだろ。人が集まらなければ意味がないし」
「それでも、そういうアイデアが浮かぶこと自体がすごいんだって」
目元に笑みを浮かべて、彼女は続けた。
「なんだか、真樹君ってヒーローみたい。なんでも解決しちゃう」
「それは褒め過ぎだし、根本的には解決はしてない」
伊織からの株が上がるのは嬉しい。でも、なんでもかんでも褒められても、ちょっと歯がゆいというか、何んというか。
きっと昨日の相談からの延長でそう思っているのだろうが、結果がついてきていないのに、褒められても実感が湧かない。それに、調子に乗ったところで結果が出なかった時、落ち込んで立ち直れなくなる。あくまでもカノジョ補正ありきで受け止めておく必要があるぞ、と俺が自分に言い聞かせた。
「それよりも、伊織が承諾したのも驚いたよ。客寄せみたいな事は嫌がるかなって思った面もあるから」
「ほんとはあんまりそういうのは好きじゃないけどね。でも、真樹君の提案だったから、それも良いかなって」
伊織が少し恥ずかしそうに笑って、こちらを見上げてきた。
「どういう判断基準だよ、それ。意味わかんね」
照れくさくなって、彼女から目を逸らす。
本当はわかっている。わかっているけど、嬉しくて、ついそんな返事をしてしまう。
彼女は俺の提案だから、承諾してくれた。それは、俺の事を信用してくれている事だ。『あなたの言う事だからついていく』と好きな女の子から言われて、喜ばない男はいない。
「まあ、でも、伊織にとっても人前で演奏する感覚とか思い出せるし、コンクールぶっつけ本番って感じにならなくて良いだろ。公開リハーサル的なさ」
「ほら。だから、そういうところ」
彼女は嬉しそうにニヤニヤして俺を見上げていた。
「そういうとこって?」
意味がわからず、また首を傾げた。
「私のそういうメンタル的なところまで、ちゃんと考えてくれてるとこ。ほんとにヒーローみたい」
「……偶然だよ、偶然」
「そんなこと、ないくせにっ」
言いながら、伊織が腕を引き寄せるようにして絡ませてくるので、思わず体勢が崩された。
「ばか、危ないって」
「えー?」
全く気にしてないというように、こっちに嬉しそうな笑顔を向けてくる。きっとどこからどう見ても、バカップル。
同棲カップルなどはそのうちイチャイチャしなくなるというのをネットで見た事がある。相手への幻想がなくなり、ドキドキしなくなるというのが原因だそうだ。見たくないものまで見て、幻滅してしまう事も多いらしい。
俺が伊織に幻滅する事はないけれど、それでも、一緒に暮らしてしまったら案外ドキドキする事って少なくなるのかな? と思っていた。でも、実際は全くそんな気配がない。むしろ、もっとパカップルっぷりが増しているように思う。
確かに、伊織の日常生活を、これまでよりもたくさん見ている。朝に顔を洗ったばかりの伊織も、お風呂上りで髪が濡れたままの伊織も、長い髪をバスタオルで巻いているところも、パジャマ姿の伊織も、寝起きで油断して大きなあくびをしてしまっている伊織も、女の子の日で少し具合が悪そう(あと少し恥ずかしそう)な伊織も見ている。
でも、俺は全く伊織に幻滅する事はない。
同じく、俺も散々無様な姿を見られているが、伊織もこうして変わらずくっついてきてくれる。
俺達はずっとこんな感じで年老いていくのだろうか。
そんな幸せな妄想を、彼女の笑顔を見ているとしてしまうのだった。
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