13-8.ハニーラテの作り方

「そういえば、伊織ちゃんは?」


 俺のバイト中はいつも店に顔を出しにくるが、今日はきていない。彼女は朝から学校にいるはずだ。


「今日は学校でピアノの練習してるよ」

「なるほどね」

「しばらく来ないと思う」


 今の伊織にとってはピアノが受験勉強みたいなものだ。彼女は今、十か月のブランクを必死に取り戻そうとしている。

 本当は、今日もバイト中に顔を出そうとしていたが、そんな時間があるなら練習しろと叱った。俺には家でもう会えるのだから、今は後悔のないように練習してくれ、と思うのだった。


「ピアノの練習っていうと、このリサイタルの?」

「いや、それはおまけっていうか予行演習みたいなもんなんだ。夏に受験も兼ねてるコンクールがあってさ」


 ついでに、伊織のピアノ事情についてもざっくりと話した。マスターなら無下に話したり本人に言ったりしないだろう。


「なるほど、ねえ……」


 マスターはたそがれるように遠くを見て、微笑んだ。


「伊織ちゃんを過去に向き合えるようにしてあげたわけか」

「そんな大それたことしてねえっての」

「尽くすねー、真樹。案外貢ぎ癖あるんじゃない?」


 肘でつんつんこちらを突いてくるので、コーヒーカップを投げつけてやろうかと思った。

 本当に、うるさい。貢ぎ癖がなんだ。俺は伊織が幸せでいてくれるなら、いくらでも貢ぐさ。このバイトだって、スマホ代と伊織とどこか行く時用の為にお金を貯めているようなものだ。それ以外の用途がない。


「おや、噂をすれば」


 マスターがそう呟いた時、ドアベルがからんからんと鳴った。

 ふと顔を上げてみると、そこには制服姿の伊織がいた。


「こんにちは」


 相変わらず天使みたいな笑顔で微笑みかけてくる。それを見るだけで、つい頬が緩んでしまうのだ。

 もう家でも毎日見ているのに、全くもって飽きることがない。『美人は三日で飽きる』なんて言った奴は、大嘘吐きだ。伊織は何日見ていたって飽きない。

 きっと伊織がお姉さんになってもおばさんになってもお婆ちゃんになっても、彼女を見飽きる事などないのだろうと思う。


「しばらく来ないんじゃなかったっけ?」


 マスターがにやつきながらぽそっと言うが、俺は敢えて聞こえないふりをした。


「練習はどうした、練習は。来なくていいって言っただろ」


 伊織がいつものカウンター席に腰掛けると、そんな言葉を乱暴に投げかけた。嬉しいくせに、こんなぶっきらぼうな言葉しか出てこないあたり、俺も成長がない。


「だって……ずっと考えちゃうんだもん」

「何をだよ」

「真樹君の事」

「…………」

「何してるのかなって気になり始めたら止まらなくなって……そしたら会いたくなっちゃった。ごめんね」


 困ったように笑って、伊織は言った。

 だから、そういう不意打ちはやめろって……メンタルが保たない。マスターはやれやれと首を振って「僕休憩に入るねー」と呆れたように言ってから、奥のスタッフルームに入った。


「別に、いいけど、さ……何飲む?」

「んっと……真樹君のおすすめで」


 目元だけ笑って、嬉しそうに言う。

 なんだよ、それ。全く、本当に……俺の彼女は困った奴だった。

 俺のおすすめなら一番楽なコーラをペットボトルのまま出すだけっていうのがあるのだけど、そうしてやろうか? などと一瞬考えるが、マスターの作り置いたドリップコーヒーが入ったポットとミルク、そしてはちみつを取り出して、彼女の好きなハニーラテを作ってやる事にした。

 ハニーラテは、彼女がよくここで頼むメニューだ。これだけは、マスターにだって作らせやしない。俺だけに許された特権なのだから。

 と言っても、ハニーラテは簡単だし味のごまかしが利く。マスターの見様見真似でコピーして、今ではハニーラテだけはマスターの味を再現できている。

 レンジでミルクを温めてから、ミルクをかき混ぜて泡立てる。それからマグカップにドリップコーヒーを入れてから、泡立てたミルクを入れてやる。あとははちみつを適量に垂らしてから、彼女の好きなシナモンパウダーをほんの少しだけかけてやる。


「はい、どうぞ。ホットのハニーラテ」

「ありがとっ」


 伊織は嬉しそうに言って、スプーンではちみつをゆっくり混ぜてから、鼻を近付けて匂いを吸い込む。その後、ふーふーと吐息を吹きかけていた。その時の尖った唇が可愛くて、視線を奪われてしまう。

 少し冷めた頃合で、ゆっくりとハニーラテに口をつけた。


「……おいし」


 そう呟いて、マグカップ越しに彼女は目だけで笑ってみせた。その一言で、全てが満たされた気がした。

 お前にそう言わせる為に、頑張ってひそかに作り込んだんだよ。お前は知らないだろうけどな。

 本当に、バカみたいに尽くしてるなと思ってしまうけれど、そうしてあげたいのだから、仕方がない。

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