13-7.回避すべきこと

「おっと、いけない。話がズレたね。要するに、真樹は現段階で問題を解決する能力があるから、地頭が良いって事さ」


 マスターはいつもの優しい表情に戻って言った。さっきの重い雰囲気は、もうない。


「そうかな」


 マスターの表情の変化に気付かないふりをして、洗った食器を丁寧に布巾で拭きながら、食器棚に戻していく。

 きっと、これ以上触れない方がいい。俺は本能的にそれを悟った。


「そうだよ。何なら、大学にも行く必要ないってくらい。今なら別に大学行かなくても仕事作れるし、起業でもしてみたら? 親父さんも経営者なわけだし、案外向いてるんじゃない?」

「この前ちょうど家でもそんな話になって、母さんが伊織に『真樹が起業したいとか言いだしたら全力で止めなさい』って言ってて……」


 そこまで話して、手が止まった。マスターが驚いたようにこちらを見ていたからだ。あ、やべ。完全に口滑らせた。


「へえ……真樹のお母さんが伊織ちゃんにねえ?」

「あー、えっと……今のなし」

「詳しく聞かせてもらおうか?」


 まるで面白い玩具を発見したような顔で、マスターはニヤニヤして訊いてきた。

 伊織がうちで暮らしている事は、俺達家族と伊織の四人、そして榊原春華しか知らない。

 勝手に言っていいものか迷ったが、結局マスターには話す事にした。マスターは伊織の両親のことも知っているし、彼女が一人暮らしをしている事も気に掛けていたので、話しても構わないと判断したのだ。

 それから、俺はここ数週間の経緯を話して、今は伊織がうちから学校に通っているというところまで話した。もちろん、絶対に信達に言わない約束をしてからだ。そのへんに関しては、結構信用している。彼も、本当に言ってはいけない事に関しては口が堅い。


「そっか、伊織ちゃんは真樹の家で暮らしてるんだ」


 マスターは最初驚いていたが、それが良いと思うよ、と今では穏やかに笑っていた。


「まさか母さんからそんな提案があるとも思ってなかったけど、実際とんとん拍子で決まった感じ」

「うん、僕はとても良い事だと思うよ。彼女にとって、今一人なのは結構きついと思ってたし。ここにご飯を食べにきていた時も、ずいぶん寂しそうだったからね」


 伊織は、俺と付き合う前や、付き合ってからしばらくの間、一人でご飯を食べるのがつらくなると、よくSカフェに来ていたらしい。その際、マスターが両親について疑問に思い聞いたところ、マスターにはおおよその事を話したと言っていた。


「伊織とどんな事話したの?」

「真樹が体目当てでガッついてきてばっかりで困ってるって」


 俺は黙って今偶然拭いていた、この店の中でも高級な部類に入るコーヒーカップを宙に浮かせた。


「おい、嘘だよ! それ二度と手に入らない代物だから、冗談でもやめてくれ。心臓が止まる」


 マスターが平謝りするので、俺は一瞥して丁寧に拭いてから、戸棚に戻した。

 このコーヒーカップは滅多に使わないのだが、常連さんが来る時だけ使っている。さっきまで別の常連客がいたので、その人に出したコーヒーの際に用いたのがこのカップだ。使用頻度は週に一回か二回程度。お値段は俺のバイト代一年分ってところだろうか。

 このカップでマスターのコーヒーが飲めるということは、マスターが舌を見込んだ客という事だ。いわば、お客さんからしても、常連の中の常連みたいな称号をもらっている感覚になれる。これがマスターなりの、常連客へのお返しなのだろう。


「別に大した事は聞いてないよ。ご両親が亡くなった事と、どうして東京に来たかってことくらいさ」


 大した事なんだよそれ、と俺は心の中で毒付いた。俺が伊織からそれを聞くまでには、数々の試練を乗り越えて、告白というステージを終えてからなのだ。

 カウンターの中でコーヒー作ったり料理作ったりしてるだけのくせに、なんだってそんな事が聞けるんだよ、と不満を持たざるを得ない。やはり、マスターは大人で頼り甲斐があるから、そういう弱みについても話せてしまうのだろうか。そう思うと、少ししょげてくる。俺は俺で頑張ってるつもりなんだけどなぁ。


「ほら、ちょうど真樹と喧嘩だっけ? してた時期だったから、余計に寂しかったんじゃないかな」

「ああ……あの思い出したくもない時のことか」


 おそらくポッキーキス事件の時だ。あの時は俺とも話せず、彰吾とも距離を置いていたので、伊織は本当に孤独だったのだろう。自分の事情を知る人が誰も周りにいないのだ。それは確かに、心細いのかもしれない。


「で、どんなもんなの?」

「どんなもん、とは?」

「親の管理下で恋人と暮らすってのは、さ。さすがの僕にもそんな映画や漫画みたいな経験はないから、気にはなるよね」

「……毎晩が煩悩との戦い」


 答えると、「ああ、だろうね」とマスターが面白そうに笑った。

 本当に、もう冗談ではなく、そろそろ限界なのだ。親父にはバレなきゃOKと言われているが、当の伊織がすんなりと受け入れてくれるはずがない。

 こうして悶々とした日々を彼女の隣の部屋で過ごしていて、発散させるために処理している最中に隣の部屋から物音がすると心臓が止まりそうになる。その上、伊織が朝起こしにきてくれるのは嬉しいが、うっかりムスコが元気な状態のときもあるものだから、これはこれで心臓に悪い。

 もちろん、親さえいなければ全て問題ないわけだけども、親という制約ありきで彼女との同居は、思っていた以上に困難を極めている。


「やっぱりラッキースケベとかあるもんなの?」

「ねーよ、そんなもん! 漫画かよ」

「そうなんだ。残念」


 マスターはからかうような表情を変えない。

 実際にいうと、起こりえないことはないのだが、とにかく起こらないように注意している。伊織の部屋にもよほどの用事がない限りいかないし、伊織が風呂を使っている時はなるべく自分の部屋にいるようにしている。

 そうまで徹底していないと、何か間違いが起こりそうな気がしてならないのだ。というか、そうまでして徹底的にラッキースケベイベントを回避しないと、万が一があったときに我慢できる自信がない。

 襲いかかってビンタを食らってやっぱり自分の家で暮らすなんて言われた日には、死んでも死にきれないだろう。

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