13-6.勉学の先にあるもの

「そういえば、真樹。聞いたよ」


 バイト中、客足が途絶えた時に、マスターが口角を上げて話しかけてきた。

 室内にはジャズミュージック──サブスクリプション音楽サービスのカフェチャンネルの楽曲をランダム再生で流しているだけなのはここだけの話だ──が流れており、午後のひと時を楽しむにはもってこいだ。

 ランチ営業が終わり、今は常連の爺さんがコーヒー片手に雑誌を読んでいる。もう少しすればお喋りが目的の学生やカップル達が来る時間帯なので、こうしてゆっくりしていられるのは束の間だ。

 雨の日などは客足が減るが、今日みたいに土曜日で晴れていると、なかなか休む時間がない。今日は出勤してから、マスターと仕事内容以外の会話を一度もしていなかった。ようやく一息ついた時の一言目がそれであった。


「は? 何を?」

「これ」


 ぴらっとマスターが一枚のチラシを見せてきた。

 そこには現役女子高生ピアノスト・麻宮伊織のスタジオ無料ピアノリサイタルと書いてある。それは昨日、信がデザインを作り上げてきたチラシだ。

 あの野郎、すぐに送るだなんて言っていたくせに、出来上がりを送ってきやがったのは三日後の昨日だった。納品もすぐできないとはプロ失格だと罵ってやろうと思ったが、これまた驚くほどの高いクオリティのチラシを作ってきやがったのだ。

 信は勉強はからっきしだが、こういうサブスキル──しかも勉強よりも社会で役立ちそうな──を持っている。案外、彼は自由気ままに生きていけるのかもしれない。

 写真は結局、昨年春にコンクールで優勝した時の演奏中のものが用いられていた。信がチョイスする写真がどうにも伊織的に微妙だったらしく、コンクール時で演奏している写真を春華に送ってもらったそうだ。その写真をもとに、信がチラシをデザインをした。確かに信が選んだ写真は男ウケを狙いすぎているものばかりだったので、俺としても看過できるものではなかった。

 今はそのデータを印刷会社に投げて、印刷してもらっている最中だ。もちろん、印刷代の一切合切は必要経費としてSスタジオ持ち。


「これの企画立案、真樹なんでしょ?」

「企画立案ってほど大袈裟なもんじゃないだろ」

「そう? 須田のやつが感心してたよ」

「そんな大したもんか?」


 マスターのこの反応は意外だった。親父に褒めてもらえたのは嬉しかったが、そこまで称賛されるほどのものでもないと思っていたからだ。


「ただの人助け的な気持ちでやったのかもしれないけど、真樹がやってる事は、歴としたSスタジオのコンサルだよ。しかも、売り上げを回復させる為にイベントの企画と制作、それに加えて集客までやるわけでしょ? コンサル+αくらいの事をやってるわけだし、実際大したもんだよ」


 須田にギャラ請求しなよ、とマスター。

 彼からそんな風に褒められると、やっぱり照れ臭くなってしまう。この人が人を誉めるというのがまず珍しいからだ。

 それに加えて、いつもなら何か一言加えるくせに、今回は大絶賛。なんだか裏があるんじゃないかと思えてならない。


「お、俺に一体何をやらせるつもりだ……」

「あのね、僕割と本気で賞賛してるんだよ?」


 マスターは、手のひらを空に向けて、首をすくめた。


「少なくとも僕の高校生の頃よりは全然凄いと思うけどね」

「俺は東大に入れるほどの頭はねーよ。嫌味かよ」

「いいや、学力よりもっと大事な事さ。むしろ、学力の先にあるものかもしれないね」

「学力の先?」


 学力や勉強の先については考えた事がなかった。

 よく学生が何の為に勉強するのかわからないというが、それは試験以外で勉強の必要性を感じないからだ。数学やら物理やら化学やらが、卒業してから役に立つとも思えない。


「そう、学力の先。学校での勉強なんてのはさ、結局のところ、頭の使い方を頭に理解させるためのものにしか過ぎないんだ。その頭の使い方さえわかっているなら、正直あんまり勉強する意味はないよ」

「どういうこと?」


 やれやれ、とマスターは笑ってから、噛み砕いて説明してくれた。

 マスター曰く、義務教育から高校までの勉強は、あくまでも脳味噌の使い方を学ぶものであって、勉強そのものには意味がないという。

 ここで言う脳味噌の使い方というのは、『人生において問題が生じた時、それを解決する際に使う知恵・思考』だ。理系・文系などといった風に分けているが、問題を解決するためには、理系のように物事を論理的に見据えて効率的な解決手段を考える頭と、文系のように起こりうる問題や弊害など色々と想像する頭、どちらも必要なのだという。

 勉強とはすなわち、人生においてそういった問題にぶち当たった時、自分がその問題を乗り越える時の為だ。やれ国語だ数学だということそれ自体には、大して意味はないのだという。


「前にも言ったでしょ。東大入試っていうのは、事務処理能力を問うものなんだ。事務処理能力っていうのは、つまるところ、そういう生きる上での頭の使い方が上手いって事。だから、東大生は有能な人間が多いんだよ。有能でない東大生は、頭の使い方を学ばず知識だけで挑んで運よく受かった奴って事」


 もちろんそういう奴も結構多いけどね、とマスターは付け加えた。


「マスターは、そういう〝頭の使い方の良さ〟で助かった事ってある?」


 俺は話の流れで疑問に思った事を聞いただけだったのだが、マスターは一瞬黙った。そして、幾分声のトーンを落として、応えた。


「……あるよ。自分で自分の頭に感謝したさ。同時に、恐怖もしたけどね」


 冷たい声だった。怒っているわけではない。しかし、冷淡で冷酷な声で、基本温和なイメージがあるマスターの声とはかけ離れていた。彼のその声には、慈悲がなかった。


「いいかい、真樹。君にはもちろん、普通の人生を歩んでほしいと思ってる。だけど、一つだけ伝えさせてほしい」

「……なに?」


 マスターの声の冷たさに気圧されて、喉がカラカラになった。彼の纏う何らかのオーラの重圧に、心が潰されそうになる。なんなんだ、この重圧は。マスターは、ここに至るまでにどんな人生を歩んできたというのだろう。


「学歴も職歴も、偏差値も点数も、金も、危機的な状況ではろくすっぽ役に立たないってこと」

「…………」

「自分の築いてきたものの全てが役に立たなくなった時、唯一自分を助けてくれるのは、自分の頭……それと、自分の事を心から愛してくれている人たちだけだ。だから、その二つを大切にするんだよ」


 重かった。マスターから放たれたその言葉は、あまりにも重かった。

 彼の過去に何があったのか、俺には知る由もない。ただ、おそらくだが――マスターは、全てを失ったことがあるのだ。それだけはわかった。


「あ、でもお金はあった方がいいね。いざという時にやっぱりお金があると生きられるし」


 ──生きられるし。あまりにも自然にマスターが言ったから、聞き流してしまったが、マスターは金がないと生き死にするような環境に陥った事があるという事だろうか。

 一体、マスターはどんな人生を送って、東大卒のエリートからこんなチンケなカフェに脱サラする道を選んだのだろう。ただ、そこにはそれ以上聞けない空気があった。お前は知る必要がない、と言われているかのようだ。

 ただ、きっとマスターが今俺に話してくれた事はとても大切な事で……人生を生きる上で、忘れてはならないのだと思った。

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