12-12.伊織の進路
二時間近く経っただろうか。伊織から進路相談が終わった旨のLIMEが入った。思ったより時間がかかったなと思いつつも、『了解』のスタンプを返信。片付けをして、そのまま生徒玄関に向かうと、伊織が靴箱のところで待っていてくれた。
「待たせちゃってごめんね」
「別にいいよ。その分勉強できたし。それより、どうだった?」
その問いに、彼女はいつもみたいに眉根を寄せて、困ったような笑顔で頷いたのだった。どうやら、それなりの答えが見つかったみたいだ。
帰りの道中で聞いた話では、やはり伊織が行きたいレベルの音大には、今からでは厳しいとの事だった。うちの高校からは、過去に音大に推薦で行った卒業生もいないので、ツテがないらしい。
しかし、一般大学の芸術学部音楽科になら推薦が可能との事が判明したのだそうだ。
「へえ、良かったじゃねーか。どこの大学?」
「えっと、立教学院大学」
「え? 立大? あそこ音楽科なんてあったのか?」
「音楽科ができたのは結構最近なんだって」
「へー……知らなかった」
立教学院大学……略して立大。早慶に次ぐ名門私立大学だ。一九〇〇年代前半からあって、確か海外の人が設立したキリスト教系の大学。国内のキリスト教系大学の中では最も古く、建物のデザインなどもオシャレで歴史を感じさせるので、受験生からの人気も高い。倍率も四倍だか五倍だかくらいだ。
芸術学部が設立された事は知っていたが、音楽科があった事は初耳だった。まあ、芸術学部やらそのあたりは俺には全く関係がないので、知らないのも当然ではある。
「ただ、ひとつだけ条件みたいなのがあって……」
「条件?」
伊織の過去の実績だけでも推薦は可能だが、合格を確実なものにするためには、今夏に立大が開催するコンクールで、何らかの賞を受賞する必要があるそうだ。
過去の推薦入学者について学校に調べてもらうと、そのほとんどがそのコンクールで何らかの賞を受賞していたという。言うならば、そのコンクールが推薦の登竜門と言えなくもない。
「そのコンクールはいつなんだ?」
「八月の半ばだって」
「八月か。あと四か月しかないんだな」
「そうなの……」
あと四か月でブランクを取り戻して、コンクールで入賞しなければならないとなると……それはそれで、結構厳しい道のりだ。
「そのコンクール、出るの?」
「うん。一応そのつもりだよ」
「大丈夫なのか?」
「うーん……わかんない」
伊織は、また眉根を寄せて笑った。
「昨日運指の確認はしてみたけど、やっぱり実際に弾いてみないとわからない事が多いっていうか……今のうちにピアノはないから」
以前練習用に持っていたピアノは、東京に引っ越す時に処分してきたのだという。なんてもったいない事を……と思ったが、伊織からすれば、もう二度とピアノは弾かないつもりだったのだろうし、そうするのも当然だ。まさか一年も経たないうちに、また弾くとも考えていなかったのだろう。
「とりあえず音楽室のピアノを使ってもいいか、吹奏楽の先生に確認してくれるって」
「どの程度使えるかだよなぁ。吹奏楽部の活動もあるから、さすがに毎日は使わせてもらえないだろうし」
「うん。他にどこかでピアノを弾ける環境があると良いんだけど……」
「うーん……ピアノかぁ」
ピアノを弾ける環境について考えた事がなかったので、全く想像がつかなかった。そもそも、ピアノってどういうところに置いてあるのだろう? 音楽室以外で見た記憶がほとんどない。
どうしたものか、と二人で悩んでいたその時、これまた何かの偶然か、前から楽器を背負った大学生風の男数人とすれ違った。おそらくバンドのメンバーなのだろう。彼等は、こんな会話をしていた。
「あー、次のサークルライブまで時間ねえなぁ」
「てかスタジオ予約した?」
「いや、まだしてない」
「じゃあ予約しといて。深夜パックで入ろうぜ」
「了解。スタジオっていちいち電話予約なのが面倒だよな」
「今の時代、ネット予約にしてほしいよなー」
なんとない、よくあるバンドマンの会話。ただ、その時の彼等の会話が、俺の耳に引っ掛かった。スタジオ、音楽スタジオ……そして、閃いた。
「そうだ、スタジオがあるじゃねーか!」
「え? スタジオ?」
伊織が素っ頓狂な声を上げて、俺を見上げるが、そんな伊織を気にも留めず、続けた。
「ほら、Sスタだよ、Sスタ! Sスタに確かグランドピアノ置いてあった部屋もあっただろ!」
俺は慌ててスマホでSスタのホームページを開いて、グランドピアノがある部屋があるのを確認した。記憶通り、一番大きな部屋にグランドピアノも設置してあった。
音楽スタジオには、本格派のスカバンドやジャズバンドのために、グランドピアノを設置しているスタジオも多いのだ。もちろん、ピアノ専門の練習スタジオもあるが、そういったところは使用料が高い。
「ほら、あった! よし、早速今から行って須田店長に直談判してみようぜ!」
「え、今から? 迷惑じゃないかな……」
「どうせ暇してんだろ、あの店長。いつも暇そうだし」
「もう。そんな言い方しないの」
「いいから、ほら、行くぞ! Sスタ!」
「う、うん!」
伊織よりも、俺が興奮気味だった。彼女の手を取って、急ぎ足でSスタに向かった。
バンドをやっていて本当によかったと思う。確かに、もうUnlucky Divaは解散してしまったが、死んだ歌姫からの思わぬ置き土産が見つかった。
バンド練習でSスタを使ってなければ、きっとスタジオでピアノの練習という発想は生まれなかったはずだ。やっぱり人生、無駄なことなんてない。
「ほら、だから言っただろ?」
俺の自信満々な言葉に、伊織は首を傾げた。
「一生懸命動いてればさ、こういう時でも何とか為るもんなんだよ」
「あっ、昨日のLet it beの話?」
「そう。間違いないだろ?」
「……うん!」
伊織は応えるように、ぎゅっと強く俺の手を握り返してきて、嬉しそうににっこり微笑みかけてきた。俺は自らのLet it be理論の正しさを、改めて実感した。
その時々でベストを尽くしていれば、なるようになるのだ。だから、その時にやれる事をしっかりやっていくのが、長期的に見て行けば、きっと良い結果に繋がるのだと思う。
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