13-10.伊織ちゃん攻略自室篇

『一緒に勉強しない? 小テストもあるし』


 夜十一時を過ぎた頃、伊織にそうLIMEを送った。隣の部屋にいるのにLIMEを送るのも変な話だが、伊織はさっきの俺の暴挙により若干怒っているようなのだ。夕食時は母さんを介してしか会話をしてくれなかった。

 夕飯の片付けが終わった後は、そのままお互い自室にこもってしまったので、要するに、ちょっと直接話しかける勇気がなかったのだ。

 LIMEの既読がついてから、隣の部屋から物音がしたかと思うと、すぐに部屋の扉がノックされた。「どうぞ」と言うと、扉が開いた……が、まだ若干怒っているような表情の伊織さんが、そこに有らせられた。手には英語と古文の教科書がある。今週は英語と古文の小テストがあるのだ。

 伊織は部屋に入るなり、無言のままテーブルの前に座って、教科書を広げた。やはりまだ不機嫌なのだろうか。でも、多分それは形だけだ。本当に不機嫌だったらここには来ないはずである。


「伊織」


 ベッドの横をぽんぽんと叩いて、こっちに座って、と訴えかける。伊織は不満そうな瞳でこちらをじぃっと見ていて、来ようとしない。


「……勉強するんじゃないの?」

「するけど、その前にこっち来て」


 そう言うと、伊織は納得していなさそうな表情だったが、俺の横に並ぶように座った。そして、やっぱりじぃっと上目遣いで、抗議の視線を送ってくる。


「怒ってる?」

「別に、怒ってないけど」

「じゃあ、なんでそんな不機嫌なんだよ」

「だって、いきなりリビングであんな事するんだもん。耳、弱いの知ってるくせに」


 声出ちゃいそうだった、と顔を赤くした。

 どうやら、リビングで耳を攻撃したのがダメだったらしい。そんな事言ったって、お前が(だーめっ!)なんて言うからそうなるんだろうが。あんなことやられたら、やってくれって言ってるようなものだ。

 いいじゃないか、減るもんじゃないし──なんて言おうものなら、きっともっと怒らせてしまいそうなので、素直にここは謝っておこう。


「ごめん」

「ん」

「でも、伊織が悪いんだぞ」

「私が? どうして?」

「可愛かったから」

「…………」

「料理手伝わせてもらえなくてしょげてる伊織が可愛くて、我慢できなくなった」

「またそういう事言うー」


 言うと、伊織は怒っている表情を崩して、くしゅっと笑った。やっぱり、怒っていたのは演技だったみたいだ。そもそも本当に怒っていたら、LIMEを既読してすぐにこっちの部屋には来ないだろう。

 ちなみによく見ると、テーブルの上に置いてあるのは教科書だけで、筆記用具を持ってきていない。要するに、最初から彼女は勉強なんてする気がなかったのだ。


「でも、お母さまがいるところでは、もうやめてね?」

「ええ~……母さん見てなかったじゃん」

「そういう問題じゃないの。次やったら口利かないから」

「わかりました」


 素直に承諾すると、伊織が可笑しそうに笑った。俺があまりにも素直だったから面白かったようだ。


「じゃあさ、今は母さんここにいないから、していい?」


 返す刀で斬り込んでみる。伊織は一瞬目を見開いたが、また上目遣いで責めるようにこちらを見てきた。


「だ、だって、勉強するんでしょ?」


 ちらっとテーブルの上の教科書を見る。


「勉強は後でもできるし」


 言いながら、伊織の肩を抱いて、顔を寄せた。


「……できなくなるよ」


 今から泣くんじゃないかってほど、彼女の瞳はとろんとしていて、頬も上気していた。目前まで伊織の顔が迫っていて、もう唇まで数センチの距離もない。互いの吐息が交じり合って、頬に当たっていた。


「最初から勉強する気なかっただろ」

「そんなこと……ない、よ?」


 そして俺達は、ゆっくりと唇を合わせた。

 そこからは、もう止まらなくなった。常日頃から我慢するというのはよくないらしい。こういう時に歯止めが利かなくなるのだ。

 そのままベッドに優しく押し倒して、彼女の唇と口内を蹂躙する。色っぽい声と艶っぽい吐息が漏れて、それを漏らしたくなくて、全部掬い取るように唇を覆いかぶせた。きっと彼女も我慢していたのだろう。拒む空気は全くなく、応えてくれていた。

 こうしていると、このベッドの上でした〝初めて〟のときを少しだけ思い出してしまう。あの時は形勢が逆で、俺が伊織に押し倒されていたのだった。あれから、彼女に押し倒された事はない。

 さっきはNGを出されてしまった耳に、もう一度舌を這わせる。なんとも言えない声が彼女の口から漏れてしまい、慌てて彼女は口を袖で押さえていた。

 それをいいことに、耳、耳たぶ、首筋と順にキスをして、下へ下へと移動していく。そして、部屋着から見えている鎖骨にも舌を這わせた。

 ──もうダメだ。止まれない。きっとお互いそう思った。彼女も止まれる瞳をしていなかった。

 彼女は、〝そういう〟モードに入った時、色っぽい表情と、まるで聖母のような慈愛に満ちた表情をするのだ。きっと本人にその自覚はないし、他では見たことがないから、俺だけが知っている伊織の素顔だ。今、伊織の表情がそうなりつつあった。

 彼女は鎖骨にキスをする俺の頭を、まるで子供をあやすように優しく撫でている。彼女は行為中も、こうして頭を撫でてくれるのだ。俺は、その時の慈愛と色気に満ちた伊織の表情が、最も好きだった。全てを受け入れてくれる優しさ──それは母性と言ってもいいかもしれない──に満ちているのに、艶っぽくて、その矛盾に満ちた表情が、完成された芸術のように美しいのだ。

 自分の快楽なんて二の次で、その表情が見たくて体を重ねたいのかもしれない。彼女がその完成された表情を見せるのは、繋がって見つめ合っている時だけだからだ。

 もう一度唇を重ね合わせて、彼女の服の中に手を滑り込ませる。そして、背中のホックに手をかけた瞬間──家の玄関の扉が開く音とともに、男の声が階下から聞こえてきた。


「ただいまー、帰ったぞー」


 俺と伊織は、顔を見合わせた。

 お父上の帰還だった。更に、糞お父上は、階段の上──すなわち俺と伊織の部屋──に向かって、声を若干張ってこう宣った。


「真樹、伊織ちゃーん、起きてるか? お客さんからケーキもらったんだけど、一緒に食べないかー? なんか高い店のやつらしいぞ」


 その言葉を聞いて、俺は力尽きたように、ずぼっと伊織の顔の横の枕に顔面を埋めて、大きな、これ以上ないというくらい大きな溜め息を吐いた。ゲームオーバーだ。二階の電気は煌々とついているのに、名指しで呼ばれてしまって二人とも返事をしないのはおかしい。これ以上続けようがなかった。


「お預け、だね」


 伊織がぽんぽん、と優しく肩を叩いて、耳元で囁いた。そして、俺の頭をよしよしと撫でるのだった。

 なんだ、この虚しさは。俺のムスコはこんなにもバリバリに戦闘状態だっていうのに、仲良く下でケーキを食べなきゃいけないっていうのか。

 ──全く、なんなんだこの親は! 人の恋路ばっかり邪魔しやがって! いい加減泣くぞコラ!

 そう心の中で慟哭を漏らした。

 もうあれだ、ゴールデンウイークに伊織を誘拐してどこかに二人で逃避行するしかない。バンドを辞めてからバイト代の使い道もないし、一泊くらいならどこかに泊まれるだろう。もうどこだって良い。二人きりになれるなら、やましいホテルだろうがなんだろうが大歓迎だ。


「ほら、降りよ? あんまり遅いと勘づかれちゃう」


 起き上がって、服や髪を整えながら、伊織は困ったように笑っていた。

 もう、どうにもでなれ、だ。一気に気持ちが萎えてしまったお陰で、ムスコも収まってしまった。ただ、この落胆っぷりを親にどう悟られないかだけが問題だった。寝起きと言ってしまおうか。


「あ、ねえ……」

「んあ?」


 部屋のドアの前で、伊織がふと振り返った。その表情は、どこか恥ずかしそうで、視線はこちらを向いているようで、見ていない。少しだけ視線の先をずらしているようだった。


「その、今日、こっちの部屋で寝たいかなー……なんて」


 消え入りそうな声で、彼女はそう言ってきた。


「え?」


 伊織は何も答えず、恥ずかしそうにちらっとだけ上目遣いでこちらを見てから、踵を返して部屋を出ていった。


「……え?」


 一度萎えたものが、また元気になってしまった。

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