13-2.お父さま

 学校が終わってから、伊織と二人で駅前の楽器屋に寄った。

 楽器屋は最近どんどん閉店していっているが、うちの最寄り駅の楽器屋はまだ頑張って営業している。

 楽器屋が追い打ちをかけられている原因はただ一つ、格安の楽器専門通販サイトができてしまったからだ。楽器屋で買うより、六割七割の価格で買えてしまうのなら、そっちで買うのは当たり前だ。ちなみに俺も弦はそこの通販サイトから買っているし、エフェクターもそこで買った。

 家で注文できて、家まで機材を運んできてくれて、しかも安いとなれば、当然皆利用する。楽器屋の利用価値なんて、試奏くらいしかなくなってしまうのだ。楽器屋で機材を試奏して、通販サイトで買うのが今のデフォルトと言えよう。

 伊織はピアノの譜面棚のところで、えらく長い間色んな本を手に取ってはうんうんと悩んでいた。俺もよくわかっていないながら、彼女の横でピアノの楽譜を見ながらううむと唸る。いや、本当に唸っているだけで、曲名を見てもメロディすら脳内で再生されないのだけれど。

 こうして伊織と楽器屋に来ると、バンドをしていた頃を思い出す。ほんの数か月前の話のはずなのに、五人でスタジオ練習をした後に、一緒にご飯を食べて、楽器屋に寄っていたあの頃が懐かしい。

 確か、あの電子ドラムで彰吾が練習代わりに試奏しまくっていて、店員さんに怒られていたっけ。

 もう帰ってこない楽しかった日々がふと蘇る。それを想うと、少し悲しくなる。

 彰吾は、元気にしているだろうか。

 一応は毎日教室で顔を合わせているが、彼の情報はわからない。信に聞けば教えてくれるだろうが、なんだかそれを聞くのも筋違いのように思えて、聞けないでいた。


「うん。これにしようかなぁ」


 買ってくるからちょっと待ってて、と微笑んでから、伊織はレジに向かった。

 確かに楽しかった日々は消えてなくなってしまったけれど……今の俺には、伊織がずっと横にいる。その日々もまたかけがえのない日々で。

 そのどちらもを取れないから、俺は伊織との日々を取った。それだけだ。例え、彰吾を傷つけてしまったとしても。


 結局伊織は『ジブリ名曲集(上級編)』と、『超絶技巧ピアノ曲集』という本を買っていた。技巧的な曲はちゃんと弾ければコンクールの自由曲では評価が高いので、この中から選びたいそうだ。ピアノの難易度はよくわからないが、いっぱいオタマジャクシが譜面に泳いでいたので、きっと難しいのだろう。

 彼女は帰り道も、購入した楽譜を唸りながら眺めていた。


「むずいの?」


 訊くと、眉根を寄せて頷いた。


「指がもう一本ずつ欲しいかも」

「こええよ」


 ちらっとだけ見ると、今彼女はフランツ・リストのスカルボという楽曲のページを見ているようだった。


「私ね、リストの曲が好きなの」


 俺の視線に気付いたのか、彼女がそう言った。彼女が買った楽譜は主にフランツ・リストの曲で占められているようだった。


「すごく技巧的なんだけど、それなのに優しくて、切なくて。この人はどんな心をしているんだろう、どんな気持ちでこの曲を作ったんだろうって考えさせられちゃう。もちろん、激しくて怖い曲もあるんだけどね。でも、私は優しい曲が好きかな」

「伊織の理想のピアニスト?」

「かも」


 全然弾けないんだけどね、と舌を出した。


「一曲はリストの曲から選びたいなって思ってたんだけど、ちょっと楽譜見て躊躇してる」

「楽曲の変更はできないのか?」

「一か月前までに言えばできるみたいだけど、イメージは良くないかなぁ」


 一か月前ぎりぎりに変更したところで、練習時間も中途半端になりかねない。それなら、しっかりと煮詰めた方が良いだろうというのが伊織の考え方だった。


「それなら慎重に選ばないとだな」

「うん。もうちょっと猶予あるから、ゆっくり考えてみるね」


 相変わらず困ったように笑いながら、でもどこか楽しそうで。

 心のどこかでやっぱり伊織はピアノと向き合いたがっていたのだろう。もし今彼女がピアノと向き合えているなら、それは俺にとっても嬉しい事だった。


 家に帰ると、二週間ぶりに会った糞親父が開口一番で『我が息子よ』なんていうから、とりあえず脛を蹴飛ばしてやった。今は声にならない声を上げている。

 こう、伊織がいると変にかっこつけようとするのもやめてほしい。どうせすぐボロが出るのだから。


「くそ、やりやがったなァ……もうちょっと愛のあるツッコミをしろよこのバカ息子……あ、おかえり、伊織ちゃん」


 脛を擦りながら、伊織に言った。


「えっと、ただいま、です。お父さま」


 少し伊織が戸惑いつつ、さらに緊張もしている様子で、返した。


「うーん、こんな可愛い子にお父さまだなんて呼ばれる日が来るなんてなぁ。長生きするもんだ」

「あ、母さーん。親父が伊織に色目使ってる」

「おいこら、誤解を招くような事を言うのはやめろ! 俺は美樹一筋だ!」


 台所に向けて少しだけ声を張って言ってやると、親父がそれを上回る声でかき消してくる。

 伊織はそんな俺達のやり取りを見て、可笑しそうに笑っていた。

 うん、少し緊張が和らいだみたいだ。

 伊織は一見誰とでも仲良くできるのだが、その実割と人見知りだ。親父と会ったのもあの挨拶の日以来だから、やはり緊張しているのだろう。


「あら、おかえりなさい。もうご飯できてるから」


 母さんが玄関まで出てきて、俺達に言った。なんだか、兄妹っぽい感じで言われている気がしなくもない。兄妹じゃないからな、断じて。


「あ、もうご飯作っちゃったんですか? 手伝おうと思ってたのに……」

「そう言うと思ったから、早めに作ったのよ」

「お母さま、ひどい」

「伊織ちゃんには洗い物手伝ってもらうから」

「はぁい」


 そんな二人の仲睦まじい様子に、俺はどこかとてつもなく安堵するのだった。彼女がこの家に溶け込めている感じがするからだ。


「いいから、二人とも着替えてきて。ご飯冷めちゃうから」

「はい」

「うい」


 伊織は笑顔で返事して、俺は適当に返事する。

 もう、俺より伊織の方が母さんの子供っぽい感じが漂ってきているのが、少し面白い。

 高校生男児は親との向き合い方に大変悩むのだ。こっぱずかしいというか、なんというか。もう少し俺が大人になれば、母親とも普通に接せられるのだろうか。

 そんな事を考えつつも、母さんと伊織がそれこそ本当の親子のように仲良くなってくれたら、それはそれでとても嬉しいと思えるのだった。

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