13章・離別

13-1.自由曲

 学校を通して、伊織の立教学院大学主催ピアノコンクールへの出場が決まった。コンクールは八月二十日。夏休み後半で、残り四か月と少しだ。

 Sスタでの演奏を見る限り、そんなに焦らなくても余裕なのでは? と思ったのだが、本人曰く、全然指がついてきていないらしい。素人の耳で聴いている限りでは、特に大きなミスなどもなく綺麗に弾けていたように思うのだが、現実はそう簡単な話ではないのだという。

 半年以上弾いていないとなると、感覚的なものが鈍っているらしく、自分の意思と指が連動していないように感じるのだとか。なんとなくそれは自分がギターを弾いている際に感じた事があるので、わからなくもない。

 彼女が昨日『悲愴』を問題なく弾けていたのは、簡単な曲で自分が弾き慣れていたものだったかららしい。

 俺はピアノのコンクールというものについて全く知識はなかったのだが、今回伊織が出場するコンクールは、課題曲というものがなく、自由曲のみで審査されるそうだ。十五分から二十分以内で、複数曲(1曲でも数曲でも良い)自由に選んで、それを演奏して、採点されるそうだ。


「自由に選曲して良いなら、今弾ける安牌な曲だけでセトリ構成すれば?」


 昼休みに二人でご飯を食べている際に、訊いてみた。

 今日も母さんが弁当を二人分作ってくれているので、おかずなどは完璧に二人とも同じ。俺の方が量が多いくらいだ。もしこれをクラスの連中に見られたら何を言われるかわからない。俺達は音楽室に避難して、二人で食事を取るようにしていた。

 ちなみにセトリとはセットリストの事で、クラシック用語というよりバンド用語だが、この際は相手に通じれば良い。バンドではセットリストという言葉をよく使っていたので、むしろ俺達にとってはこちらのほうがしっくりくる。


「そんな簡単な話でもないんだってば」


 伊織が溜め息を吐いて言った。彼女の話によると、自由曲のみの方がはるかに難易度が高いそうだ。仮に課題曲が一曲あって、もう一曲を自由曲にする場合は、課題曲からどんなものを要求されているかを読み取り、それと同じ方向性または技術を聴かせる曲にすれば、評価を得やすいという。

 しかし、自由曲の場合は、何を判断基準とされているのかがわからない、むしろ選曲の時点で地雷を踏んでしまう可能性もあるのだという。


「しかも二十分以内って、高校生にとってはちょっと長いかも。私も今までは十五分以内しか経験した事なかったし……そこも怖いかなぁ」


 過去の受賞者で選曲に傾向があるのでは? と思って先生に調べてもらったそうだが、そういったものも見られなかったそうだ。選曲と技術のバランス・総合評価を求められていると思って間違いなさそうだ。


「何の曲にするかでまず悩んでるよ……」


 伊織は、大きな溜め息を吐いた。


「今までは相談できる人がいたんだけど……もう、今は誰もいないから」


 眉根を寄せて、彼女は困ったように笑った。


「ごめんな、力になってやれなくて。俺、クラシックは全然わかんなくてさ」

「ううん、そんなことないよ。真樹君は、練習場所を確保してくれたじゃない? それだけでも十分すぎるくらい助けてもらってるから」


 これ以上甘えられないよ、と伊織は付け足した。

 結局、伊織がピアノの練習場所として音楽室を使える日は、週二回だけと昼休みだけだった。思ったより少ないなと思ったが、それもそのはずで、伊織はこの学校での実績がない。そんな個人のために吹奏楽部が配慮してやる筋合いはない、という話だ。随分ひどい話だと思ったが、その言い分もわからないでもない。人数でいえば圧倒的に吹奏楽部の方が上だからだ。最大多数の最大幸福というやつで、こればっかりは仕方がない。Sスタジオに先に話をつけておいて、本当によかった。


「でも、その代わり月末のリサイタルも手抜けなくなったな」

「そうだったぁ……」


 伊織はまた肩を落とした。


「そっちの方は、どんな曲がいいんだろ?」

「別に耳の肥えてる人が来るわけじゃないから、みんなが知ってる曲でいいんじゃないか? それこそ、前みたいな『悲愴』とかだと一般の人も聴いた事あるだろうし。あとは、映画とかアニメの曲とか」

「ジブリとか?」

「あ、そうそう。それいいかも。あとは戦場の上のピアニストだっけ? あれの曲ならみんな知ってそう」


 頷きながら、伊織はスマホのメモ機能を用いて、候補を書き込んでいた。


「今日の帰り、楽器屋さんで楽譜探してこようかな」

「俺も付き合うよ」

「いいの? 真樹君も勉強とかあるでしょ?」

「あるけど、今日はいいよ。あと、今日から親父帰ってくるし」

「あ、そうだった! じゃあ、今日は早めに帰らなきゃね。お料理作るの手伝いたいし」

「あんま無理しなくていいよ」

「そういうわけにはいかないよ。お父さまにも私の料理を認めてもらわないと」

「親父、俺よりも味覚の判断基準低いから絶対大丈夫だと思うぞ」


 そうなのだ。父親もアパートを解約して、晴れて明日から自分の店まで自宅通いになる。父の経営するビリヤード店の方も軌道に乗り、バイトも見つかったお陰で、親父が四六時中店にいなくても店が回るようになったそうだ。

 結果、父はオーナー兼店長ではなく、完全なオーナーとして構えられる事となった。明日からも店には顔を出すが、自分の好きな時間に行って、お客さんと談笑しにいくのが仕事になると言っていた。オーナーというのは、予想以上に気楽らしい。いや、きっと立ち上げ当初は大変だったのだろうけども。

 そんなわけで、今日から晴れて伊織含めの四人暮らしとなる。

 最近ようやく母と伊織との三人暮らしに慣れてきたばかりだが、ここに父親が加わるとどうなるのだろうか。全く想像ができなかった。

 伊織からすれば、またしばらく親父に気遣う事になるだろうが、きっと母さんが上手くフォローしてくれるだろう。親父を虐める事で。

 その飛び火がどうか俺にこない事を祈るばかりだった。


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