12-14.悲愴

 伊織がスタジオに籠って三〇分ほどした頃、彼女がスタジオから出てきた。表情は重い。


「お。もう聴いても大丈夫?」

「全然……ここまで弾けなくなるんだって絶望してるくらいには、大丈夫じゃないよ」


 彼女は、大きな溜め息を吐いて、額に手を当てた。


「どれくらい弾いてなかったんだい?」


 須田店長が訊いた。


「十か月くらいですね……」


「結構ブランクあるね。まあ、楽器は筋トレみたいなものだから、練習しない期間が空けば空くほど下手になるのは、仕方ないよ。また練習すれば良いさ」

「ですね」


 須田店長が笑顔で応えたが、伊織の表情は浮かばれなかった。俺にもその記憶がある。それが、あのバンドをUnlucky Diva初スタジオの時だ。半年以上ギターを触ってなかったら、驚くほど弾けなかったので、最初は練習しまくったのをよく覚えている。


「ま、とりあえず現状の確認って意味も込めて、見せてよ。別に試験じゃないしさ」

「うん……」


 俺がそう言うと、伊織はまた大きな溜め息と共に、スタジオに入った。

 俺と須田店長もそれに続いてGという扉をくぐると、大きなスタジオの中の端に、グランドピアノとドラムセット、その他にギターアンプが二台とベースアンプ一台が設置されていた。

 須田店長曰く、このスタジオは大体17帖ほどとかなり広い部類に入るそうだが、ドラムセットとグランドピアノがあるので、どちらかというと窮屈なイメージを覚えた。

 伊織はピアノの前に座って、「ふぅ」と大きく溜め息を吐いてから、こちらを見る。俺たちがスタジオ常設の丸椅子に座ってから彼女に頷いて見せると、彼女はゆっくりとピアノを弾き始めた。

 優しく撫でるように触れられた鍵盤から、ゆったりとした音色が流れてきた。それはとても優しい音色だった。中音域から低音域をメインとした旋律が、ゆっくりと流れた。

 伊織が弾いた曲は、ベートーヴェンのピアノ・ソナタ第八番『悲愴』の第二楽章……色んなコマーシャルや映画などでも使われていて、クラシックに疎い俺でも知っている曲だ。曲名のイメージとは全く異なる、まるで子守唄のような旋律が、Sスタの中に溢れた。

 きっと今ベッドで横たわっていたなら、すぐに寝れてしまうだろう。それだけ伊織のピアノは、優しかった。彼女の指先に優しく撫でられているような、そんなイメージが浮かぶ。

 去年に聴いた彼女のピアノとは、音色が全く異なるように思えた。曲が異なるというのもあるかもしれないが、去年に聴いた音色は、寂しさや悲しさ、孤独感だった。

 しかし、今の音色は全く違う。優しさ、慈愛……そういった言葉が浮かぶような旋律。

 伊織は、『悲愴』の第二楽章をミスすることなく、そのまま最後まで弾き切った。最後のタッチの残響まで聞き逃さないように、耳を澄ませてしまう。それくらい、聞き手を魅了させる旋律だった。

 そして、その残響が消えた頃、二人の拍手音が部屋に鳴り響いた。もちろん、俺と須田店長の拍手だ。これはお世辞で拍手しているのでなく、心からの拍手。素晴らしい演奏への拍手だった。


「あ、ありがとうございます……」


 伊織が恥ずかしそうに頭を下げた。


「伊織ちゃん、これでブランクあるの? 普通にプロの演奏家みたいだったけど」

「いや、すげーよ、お前……」


 須田店長と俺が口々に感想を漏らした。これでブランクがあって弾けてないなら、全盛期の伊織はどんなピアノを弾いていたんだ?


「それは褒め過ぎですって。『悲愴』は一番好きだったから、よく弾いてたっていうのもあって、比較的すんなり弾けたというか……とりあえず、ちゃんと弾けてよかったぁ」


 俺達の絶賛に、安堵の表情を見せる伊織。そして、俺と目が合うと、彼女は恥ずかしそうに笑みを見せるのであった。

 いや、恥ずかしそうに笑っている場合じゃないぞ、お前。どれだけ凄いんだ。彼女のピアノは心をごっそりと持っていかれてしまう。以前音楽室で聴いた時にも思ったが、あの時以上だと思った。すごい才能だ。

 榊原春華が、伊織のピアノを聴いて張り合うのをやめたと言っていた気持ちが、少しわかる。もし俺が奏者であったならば、きっと競い合うのではなく、応援したいと思うだろう。

 そして、伊織にピアノを弾いていて欲しいと言っていた彼女の気持ちもよくわかった。伊織のピアノは、たくさんの人に聴かせるべき音色だ。


「そういえば、全然ピアノに対する緊張とか恐怖心とか、そういうの無さそうだったけど?」

「それは……」

「それは?」


 伊織が俺をじぃっと見てから、目を逸らしてから、また上目遣いでこちらを見てきた。


「なに?」

「……真樹君が、見てくれてたから、です」


 顔を紅く染めて言うものだから、俺の顔からも火が出た。

 それを見た須田店長は、大笑いしている。


「じゃあ、伊織ちゃんは真樹君がいればコンクール優勝間違いなしかな?」

「そ、そういうわけじゃないですってば!」


 恥ずかしがる伊織を見て、また須田店長は笑った。ここでも俺たちはいい玩具にされていた。


「でもこんなに上手いんだったら全然使ってくれちゃっていいけどね、このスタジオ。むしろあんまりこのピアノ弾かれてないから、弾いてあげてほしいかな」

「うーん、でもそれは……」


 須田店長の申し出に、伊織は難色を示している。


「要するに、伊織としては、何かしら須田店長にもメリットというか、そういうのがないと無料で使うのは申し訳ないって事だよな?」


 俺の言葉に、伊織は頷いた。


「うーん、別にほんとにお金とか要らないんだけどなぁ。あんまり高校生からお金取りたくないし」


 須田店長が頭をバリバリと掻いて言った。

 だめだ、この人、お人好し過ぎて商売が向いてないタイプだ。まあ、きっと伊織もSスタがある程度繁盛しているなら、それほど気にしなかったのだろう。

 しかし、現状は閑古鳥が鳴いている状態だ。無料で借りる図々しさが彼女に無いのもわかっている。

 ということは、伊織がここを使う事で、須田店長に何かしらの恩恵があれば良いのだ。まずはそれについて考えてみよう。

 目的は、Sスタジオの懐を温める事だ。その目的にターゲットを絞りながら、スタジオを見回してみると、頭の中でぱっとアイデアが浮かんだ。


「あ、良い事思いついた」


 俺の漏らした声に、伊織と須田店長の視線が集まる。


「須田店長、ここって楽器レンタルとかできるよな?」


 須田店長に訊いた。


「ああ、まあそんなに本数は多くないけど、ギターとかベースのレンタルもしてるよ」


 大抵の音楽スタジオには、レンタル用の楽器が店に置いてある。仕事帰りや学校帰りに、そのままスタジオに来る人たちの為用だ。家に楽器を取りに戻れなかった人達は、スタジオのレンタル機材を借りる事も多い。

 二人が怪訝そうに俺を見ている。俺の突拍子のない質問に、真意を測れないのだろう。


「Sスタ立て直し企画浮かんだんだけど」

「へえ、どんな企画だい? 話してみて」


 興味深そうに、須田店長がこちらを見た。

 説明できるように、急いで頭の中で企画の構想を練った。

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