12-9.伊織の相談③

 伊織はそれから暫く泣いていた。それがようやく落ち着いてくると、ハンカチを目元に充てながら、大きな溜め息を吐いた。


「ごめん……またこんな風になっちゃった」

「別にいいさ。こっちもそうなりそうなの分かってて踏み込んでたから」

「いじわる」


 責めるような視線で、じっと見上げて言う。ひどい言い草だ。俺だって結構躊躇しながら踏み込んだのに。


「うそ。大好き」


 一転して吹っ切れた表情でそう言いながら、彼女は俺の肩に頭を乗せてきた。その頭を撫でながら、俺も小さく溜め息を吐いた。おそらく、彼女の中ではもう答えが出ているのだろう。

 しばらく伊織は、俺の肩に頭を乗せて、黙って気持ち良さそうに目を瞑っていた。

 そよ風が優しく俺達を撫でて、春の香りを運んできた時……瞳をゆっくりと開いて、彼女は言った。


「私、もう一回弾いてみる。奏者として」


 先ほど見せた表情から、彼女がそう答えるのは、わかっていた。

 ただ、俺は責任を持たねばならないだろう。彼女の決断に、背中を押してしまったことを。

 実際のところ、俺が言った事が正しいのか、自信がない。彼女を無理矢理トラウマに向かわせているだけじゃないのか。そんな疑問が俺の中にはあった。

 きっと伊織としては、俺に依存していた方が楽なのである。もともと彼女は優等生だし、勉強だけで入れる大学もたくさんある。きっと俺も一緒の大学に入れるだろう。その道に進んでいれば、嫌な事にも怖い事にも立ち向かわなくていいし、例え呪いなんてものがなかったにせよ、〝もしも〟を想像しなくても済む。

 ただ、それは好きな事、自分の本当にやりたい事にも背を向ける事になるわけで……一体どっちが正しいのか、俺にはわからなかった。


「趣味じゃなくて?」

「うん。コンクールにも出ようかなって」

「そっか」


 そして、やはり彼女は、トラウマに立ち向かう事を選んだ。わかっていたはずだ。今の彼女であれば、おそらくそうするであろうことも。


「今から出れるコンクールがあるのかもわからないし、ブランクもあるから入賞もできないかもしれないけど……それでも、後悔したくないから」

「わかった」


 よくできました、と言わんばかりに、ぽんぽんと頭を撫でた。


「あ、今子供扱いした」

「これだけ泣いてばっかだと子供みたいなもんだろ」

「あー、ひどい。真剣に悩んでるのに」


 彼女は少しだけ頭を傾けて、俺の肩にこつっとぶつけてきた。その頭をまた優しく撫でてやると、彼女は不服そうにまたこちらを見上げてきたが、それ以上何も言ってこなかった。


「ほんとの事言うと、今から音大って結構厳しいと思うんだ」

「そうなのか?」

「うん。もちろん、誰でも入れるようなところは別だけど、私が入りたいと思っていたレベルの大学だと、もう難しいかな」


 そういうものなのか。音大の受験知識が全くないからわからなかった。


「それはブランク的な問題?」

「それもあるけど、去年の夏から何も実績を残してないから」


 彼女の話では、常にコンクールで入賞するぐらいの実績が必要な大学もあるそうだ。結局、受験前の知名度や実績、先生とのコネクションで決まる事も多いのだという。そういう意味では、東京に来た時点で、伊織はかなり不利だった。

 彼女がピアノを始めたのは大阪で、関西でこれまで実績を重ねてきた。東京にはツテがなく、更に半年以上のブランクがある。第一線からは退いたと思われていても仕方ない。


「でもね、私、ピアノは弾くつもりだけど、今は音大にこだわってるわけじゃなくて。真樹君と一緒の大学に行きたいっていう気持ちも、私の本音。だから、とりあえず弾いてみて、コンクールに出てみるところから始めてみようかなって」


 趣味で弾くだけでは、結局以前の自分と向き合う事にならないのだと、彼女は付け加えた。確かに、彼女がトラウマと向き合うという意味でピアノを弾くというのであれば、コンクールに出なければ意味がない。

 そこで何も起こらない事を、彼女が彼女自身に理解させなければ、今後も本当の意味でピアノを楽しめないというのだ。コンクールに出る以上、負けるつもりでは出ないだろう。そうであれば、きっと猛特訓が必要となる事も明白だ。

 伊織はもしかすると、最も厳しい道を選んでいるのかもしれない。


「その後の進路は、それから考えようかな」

「それなら、コンクールとかの面も含めて、一回進路指導室で相談に乗ってもらうのもいいかもしれないな」

「うん。明日早速行ってみるね」


 伊織が、俺の手を両手でぎゅっと包み込んで、俺を見上げた。


「約束だよ?」

「何が?」

「ずっと一緒だって。一緒に立ち向かうって……偶然だってわかってるけど、怖い気持ちも、やっぱりあるから」

「ああ。当たり前だろ。会場入りから一緒にいてやるさ」


 彼女の手をぎゅっと握り返してやることで、その気持ちに応えてやる。

 自分で言った言葉だ。何がなんでも、彼女の為にも俺は無事でいなくちゃいけない。もちろん、俺はそんな迷信なんて信じていないので、何も気にする必要はない。少しだけ当日は神経質になってしまいそうだけども。


「ねえ」

「ん?」


 ふと、彼女の方を見てみると、真っすぐな瞳がこちらを捉えていた。


「好き」


 そして、唐突に面と向かって言われた。

 その言葉は、これまでも何度も聞いた事がある言葉で──もちろんそんな事を言われなくてももう十分気持ちは伝わっているのだけれど──なんだか、心を射抜くような強さがあって、ドキッとしてしまう。

 こっちにも心の準備というものがあってだな……心臓に悪い。


「そ、それはさっきも聞いた」


 恥ずかしくて、思わず目を逸らして、こんな風に茶化してしまうのだった。本当は嬉しくて嬉しくてたまらないくせに。

 伊織は頬を膨らませて、ぷいっとそっぽ向いたかと思うと、それからしばらく口を利いてくれなくなった。

 これは、完全に俺のミスである。

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