12-8.伊織の相談②

 伊織はハッとしてこちらを見上げて、驚きと困惑の表情を見せていた。彼女からすれば、どうして俺がそれを知っているのか、わからないだろう。


「悪い、この前春華から聞いた」


 結局、罪悪感から話してしまった。言うと、ああ、と伊織は合点がいった様子で、少し安心したように溜息を吐いた。


「やっぱり、この前コンビニ行くふりして真樹君のとこ行ってたんだ?」

「気付いてたのか?」

「ううん、なんとなく道に迷ったって言い方が嘘っぽかったから。春華、嘘吐くとすぐに顔に出るから、わかりやすいの」


 あの野郎、俺には隠せと言っておいて、自分でバラしてるんじゃないか。

 聞いてみると、伊織が俺の家で暮らすと聞いた春華は、その家の場所を聞いたのだという。それで、浅草に行く前にちょっとだけ俺の家の近くまで寄って、場所を教えたそうだ。春華がうちに来たのは、その日の夜。行動がわかりやすすぎる。


「春華と何話したの?」

「もしお前がピアノを弾きたがってるなら、応援してやって欲しいってさ」

「もう。春華のおせっかい」


 伊織は少し頬を膨らませていたが、どこか嬉しそうだった。自分を想いやって動いてくれている人間がいることが、彼女はきっと嬉しいのだろう。


「でも、それなら聞いたでしょ? 私の両親のこと」

「まあ、一応」

「二人とも、コンクールの日に死んだんだよ。お父さんなんて、コンクールの会場に向かってる途中で」

「…………」

「お母さんだってそう。ずっと元気だったのに、いきなり具合が悪くなって……」

「伊織……」


 少し彼女が辛そうな表情をしたので、そっと彼女の手を取る。


「わかってる、わかってるよ。呪いだなんて、そんなのない。きっとただの偶然だと思う。でも、それでも……コンクールの日に二人とも居なくなっちゃったのは事実で……」


 そう思うと、やっぱり弾けない。彼女はそう付け加えた。


「それがなかったら、今もピアノ弾きたい?」


 伊織は、こくりと頷いた。

 その時、春風が俺たちを吹き抜けて、地面の散った桜の花びらが空に舞い上がった。


「そっか」


 伊織の髪についた桜の花びらを取ってやって、彼女の頬を指で撫でた。予想通り、彼女は泣きそうな顔をしていた。


「じゃあ、弾けよ。俺と違って、お前にはちゃんとやりたい事があるんだからさ」


 彼女はふるふると首を横に振った。


「やだよ」

「どうして」

「絶対嫌」

「だから、どうして」

「だって……もし、本当に私のピアノが呪われてたら……次に何かあるの、きっと真樹君だもん」


 彼女の頬を撫でていた指に、はらりと流れてきた涙が乗った。


「嫌だよ、そんなの。もし真樹君まで居なくなったら……私、耐えられない。生きていけない」

「大丈夫だろ。俺は健康だし、事故にも気をつけるよ」

「やだ。怖い。無理だよ……」

「俺は死なない」

「そんなのわかんないよ! だって、二人とも……二人とも死んじゃったんだよ⁉ お父さんも、お母さんも!」


 その時、彼女の目からぶわっと涙が溢れてきた。俺は慌てて彼女の横に移動して、抱き締めた。そして、何度も何度も頭を撫でる。

 少し踏み込み過ぎてしまったのかもしれない。親御さんの話題になると、彼女の心の傷はすぐに開いてしまう。俺と付き合うようになって、そしてうちで暮らすようになって、少しずつ癒されていたようには思う。それでも、両親の死に関わる事に触れると、こうして傷は開かれるのだ。

 ただ、彼女の傷が開くからといって、逃げていてはいけない問題だ。彼女が怖がってピアノを弾かないのは、半分は俺のせいなのだから。心のどこかでピアノを弾きたいという気持ちがあって、でもそれと同時に自分のピアノは大切な人を殺してしまうと思っていて。それが迷信だということを頭では理解しているけれど、心が受け入れてくれない。

 きっと、これが伊織の悩んでいる事なのだろう。


「別に、真樹君がいるなら、ピアノ弾かなくたっていい……一緒にいてくれるなら、そんなのなくてもいい」

「伊織……」

「だから、真樹君に行きたい大学があるなら、そこ目指そうって思ってた。真樹君と一緒がよかったから……ずっと一緒がよかったから」


 嗚咽を堪えながら、彼女は言葉を紡いで行った。

 なるほど。相談ってそういう事だったのか。伊織がそう思ってくれているのなら、俺も嬉しい。心のどこかで、俺も伊織と同じ大学に行ければいいな、なんて考えていた。

 俺視点で考えれば、きっと都合の良い話だ。俺の行きたい大学を言えば、きっと彼女はそこを受ける。そして、きっと滑り止めも同じ大学を受けて……俺が受かったところに、彼女も入るのだろう。そうすれば、ずっと彼女と一緒にいれる。

 でも、それじゃダメだ。それでは、麻宮伊織は麻宮伊織ではなくなってしまう。これまで、親を亡くして東京で一人で暮らすという大きな決断を、彼女は自分でしてきたはずだ。俺なんかよりよっぽど大人で、すごい決断を彼女はしてきたはずなのだ。

 たとえその動機が嫌な過去から逃げるというものであっても、自分の人生に於いて、重大な決断を彼女はした。それを、俺に依存するみたいに、俺にだけ全部合わせてちゃいけない。そんな事はきっと彼女自身も、天国にいる彼女の両親も、そして誰より俺も望んでいない。


「なあ、伊織?」


 子供をあやすみたいに、泣いている彼女の髪を撫でながら、話かける。今朝は寝ぼけた俺の頭をこうして撫でていたくせに、半日経たない間にもう立場が逆転していた。

 周囲を歩いている人が、怪訝そうにこちらを見ている。きっと、喧嘩して女の子を泣かしている彼氏とに見られているのだろう。伊織を泣かしていることには変わりないが、もしそう思われているのであれば、ちょっと納得がいかない。


「俺は、お前がピアノを弾いていても、弾いていなくても、一緒にいるよ。それは約束する」


 そんな周囲の視線を無視して、俺は続けた。彼女は何も言わなかった。鼻を啜る音だけが、彼女から聞こえてくる。


「でも、俺は……伊織がやりたい事をやっている方が、もっと嬉しい。いや、やりたい事を我慢されると、俺が嫌だな」

「真樹君……」

「なあ、やってみろよ。そんなさ、ピアノのコンクールに出たら人が死ぬなんて、おかしいだろ。冷静に考えてみろよ」

「でも、お父さんとお母さんがっ」

「俺は死なない」


 彼女の頭をこれでもかというくらい強く抱きしめて、宣言した。彼女の不安を、呪いを掻き消すように、強く。


「絶対に死なない。そんな馬鹿げた事で死んでたまるかよ。なあ。言っただろ。これからもずっと一緒にいるって。だから、死なないんだよ、俺は」

「でもっ」

「でもでもうっせぇ。デモは自衛隊が制圧したから黙ってろよ」

「何よ、それ……」

「ダジャレ」

「バカみたい」

「そうだ、バカみたいだろ。でも、伊織。お前がピアノを弾かない理由も、端から見たらバカみたいじゃないか?」

「…………」

「お前のピアノを聴いたら死ぬってんなら、わかる。きっと呪われてるんだろうな。でも、コンクールでピアノ弾いたら死ぬって、おかしいだろ。どう考えても。今まで何回もコンクール出てきたんだろ?」


 こくり、と伊織は俺の胸の中で頷いた。


「それまでに人は死んだか?」


 彼女は首を横に振った。当たり前だ。そんな人などいないのだから。


「偶然、大切な人が別々のコンクールに出た時に亡くなった。そう思うとジンクス的なもので不安になる気持ちもわかるけどよ……そんなの、偶然以外の何ものでもないんだよ」


 彼女の心を閉ざしてしまっている呪いを、少しずつ少しずつ解いていく。きっと、この呪いはピアノのせいじゃない。両親の死によって、彼女の心にかかってしまった呪いだ。自主洗脳と言ってもいいかもしれない。


「一回しか聴いてないけどさ、お前のピアノ、すごかったよ。俺だってもっと聴きたいし、あのピアノをたくさんの人に聴かせてやってほしい」

「真樹君……」

「別にさ、本当に嫌だったらコンクールに出なくたっていいさ。なんだったら、俺と一緒の大学行きながら、趣味でピアノ弾いて、サークルの発表会とかで披露したっていい。ピアノなんてどこだって弾けるんだし、例えばどっかのバーとかで弾く演者なら、資格なんてなくてもなれるだろ? 多分」


 知識がないから、本当のところはわからない。ただ、バーでピアノを弾くのに、音大卒の資格がいるとは思えなかった。ジャズバーだったり、個人経営のバーだったり、或いはバンドでピアノを弾いたり。なんだってできるのだ。


「とりあえず、ピアノが好きならさ、弾いてみろよ。コンクールだとかどうとか、そんなの後から決めればいいだろ。弾いてから決めたっていいし、趣味にしたっていい」


 不思議だ。すらすらと言葉が出てくる。きっと、それほどまでに、俺は彼女のやりたい事を、やってほしいのだ。


「それで、もし本気で目指したくなって、コンクールにも出たいってなった時にまた考えればいい。その時にまだ不安だってんなら、コンクールの日は朝から晩まで、俺がずっと一緒に行動してやるよ。それだったら安心だろ」


 俺が一緒にいる。不安なら俺がどこへだって一緒についていってやる。


「だから、もう好きな事から、逃げるな」


 その言葉に、彼女が反応して俺の袖をぎゅっと握った。親友や友達を置いて、彼女は辛い過去から、辛い過去がある大阪から逃げた。逃げて、東京に来た。そこで、俺と出会った。


「俺が一緒にいるからさ。二人なら、立ち向えるだろ」


 袖をつかんで、彼女は声を押し殺したまま、また泣き始めた。ただそれを、これまでと同じように頭を撫でながら、見守った。

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