12-7.伊織の相談①

 俺達は、学校からバスで十分と少しの場所にある、中央公園にきていた。春休み、伊織と一緒にきたあの公園だ。中央公園の真ん中には大きな池があって、池の中ではあひるボートなどで楽しんでいるカップルや家族がいた。俺達は、その池の傍にある屋根付きのテーブルベンチで向かい合って、昼食を取っていた。


「ごちそうさまでしたっ」

「ごちそうさま」


 伊織が可愛く手を合わせて言ったので、俺もつられるように言った。伊織は家でも「いただきます」と「ごちそうさま」を言う。こういったところにも、彼女がちゃんとした教育のもと育てられてきたんだな、ということを実感する。そんな彼女の姿を見て、正している部分も多い。


「美味しかったぁ。お母さまにお礼言わないと」

「だな」


 これまで親から当たり前に作ってもらっていたお弁当。伊織のこんな一言で、本当はそれさえも貴重で、感謝すべき事だったのだと気付かされる。実際に伊織が移住してからそう感じる事は多くなった。それは俺が母親からコキ使われるようになったというのもある。今まで随分と親に甘えてきていたんだな、と自覚させられる事も多いのだ。

 一方の伊織はというと、いつも自発的に家事の手伝いをしている。しかし、それは伊織からすれば、母親が亡くなってから当たり前にやってきた事なのだ。そんな彼女を見ていると、俺も少しは普段より家事を手伝わないと、と思わせられる。

 伊織との同居は、俺にとっても様々な気付きを与えてくれていた。


「いい天気……気持ちいい」

「ああ。ちょっとだけ桜も残ってたし、来てよかったな」

「あのボートって楽しいのかな?」

「乗ってみるか?」

「えー……落とされそうだから、やめとく」

「俺どんだけ信用ないんだよ」


 そんな会話を交わしつつ、池を眺めた。

 今度はサンドイッチを作ってお花見だ、なんて以前来た時は言っていたが、あの翌日から状況が一変してしまい、伊織の移住が決定……結局、春休み期間中にお花見は叶わなかった。

 残念ながら、お花見のシーズンからは少し経ってしまっているので、桜の花は葉桜と混じってしまっていた。それでも春の陽気とともに自然を楽しみながらお弁当を食べるだけで、幸福感と開放感を味わえた。


「それで、朝に言ってた相談ってのは?」


 彼女が珍しく相談したい事があると言っていたので、こちらから切り出してみた。伊織は滅多に俺に相談をしてこないので、どんな内容なのか気になっていたのだ。


「あ、うん。実は二つあるんだけど、重めの相談と軽めの相談、どっちからがいい?」

「なんだかアメリカ人みたいな聞き方だな。良い情報と悪い情報、どっちから聞きたい? みたいな」

「実はちょっと意識してみたの」


 くすっと笑って伊織は答えた。こういうのは重めの相談から聞くのがアメリカ人的発想だろう。


「なんだそれ。じゃあ、セオリー通り、重めの相談の方から」

「えっと、重めっていうか……進路のことなんだけど。真樹君って、もう進路決めてる?」


 進路か。確かに重めの相談だな。俺も決まってないし、俺にとっても重い内容だった。


「一応は進学はするつもりだけどな。でも、まだ大学とか学部とかは全然決めてねーや。伊織、前に大学は行きたいって言ってなかったっけ?」


 以前、確か三学期の頭だったかで、音楽室でそんな会話をしていたと思う。あの時は、大学に行かないで働こうとしていたら、お祖父ちゃんに見抜かれて叱られたと言っていたけども。


「うん。でも、実際大学で何したい、とか、何学びたい、とかそういうの全然なくて……大学ってお金もかかるじゃない? それで、どうしようかなぁって」


 伊織は、俺から目を逸らすように、原っぱでおにごっこをしている子供たちへと視線を移した。俺もつられるようにして、子供達に目を向ける。子供たちは迷いもなく、楽しそうに走り回って遊んでいた。

 俺もあのぐらいの時までは、将来に不安もなく、毎日遊び回っていた。今は、そんな彼らが、ただただ羨ましい。あの当時の俺は、大きくなれば、もっと自由になれると思っていた。どこにでも行けて、何でも買えて、毎日楽しいことばかりだと思っていたのだ。

 しかし、高校三年生になって感じたことは、ただただ不自由さだけだった。そして、歳を重ねるともっと不自由になるであろうことが、理解できる歳になってしまった。

 進路、ねえ……。

 自分も同じ悩みで行き詰まっているのに、彼女の相談に無責任に乗ってやれるわけがなかった。俺も学びたい事も将来なりたい職もなくて、どんな進路を取るべきか、全くわかっていないのだ。

 ただ、伊織も同じだったんだな、と少し安心感を得ている自分にも腹が立った。伊織が進路を決められていないからと言って、俺も決まってなくて良いという風にはならないからだ。

 その時ふと、先日の榊原春華とのやり取りが蘇った。


『本人がピアノ弾きたいって気持ちあるんやったら、支えてやってくれへんか?』


 春華は、こう言っていた。その時、俺は『本人にその意思があるなら』と返した。

 もしかすると、伊織はピアノという選択肢がなくなってしまったので、大学で何をやりたいことがない、どうすればいいかわからない、と悩んでいるのではないだろうか。もしそうだとすれば、彼女の状況は、俺のそれとは大きく異なる。

 確か、春華は伊織が音大に行きたがっていたと言っていた。その言葉が嘘でないなら、伊織が本当に行きたいのは、音大なのではないだろうか。

 ちょうど良いタイミングだ。少し怖いが、ここは突っ込んでみるところなのかもしれない。


「……本当か?」


 俺は伊織の方を向き直して、そう聞いた。


「え?」


 伊織がハッとしたように、こちらを向き直した。


「本当にやりたい事、ないのか?」


 じっと伊織の目を見つめる。少しだけ、彼女の瞳が、迷いで震えたのがわかった。しばらくそうしてその瞳を見据えたまま黙っていると、彼女は溜息を吐いて、困ったように笑った。


「ほんとに、真樹君は……なんでも私の事、わかっちゃうんだね」

「そんな事ねーよ」


 春華の入れ知恵がなければ、到底気付けなかった。彼女に感謝すると同時に、伊織を騙しているようで、少しだけ罪悪感が芽生えた。


「本当はね、私、音大に行きたかったの。お母さんみたいなピアニストになりたくて」

「うん」

「でも、私、もうピアノ弾けなくなっちゃって……」

「去年、音楽室で弾いて聞かせてくれたじゃねーか」

「そうだけど……あれだって、本当に弾けるかどうかわからなかったから。夏ぶりだったんだよ、弾いたの」

「なんで弾くのやめたんだ?」


 敢えて聞いてみた。彼女が本当はどう思っているのか、その本音が知りたかった。榊原春華の言っていた事を信用していないわけではない。あの状況で彼女が俺に嘘を吐くメリットなどないからだ。

 ただ、伊織の口からその本心を聞きたかった。


「それは……」


 言おうとして、彼女は口を噤んだ。

 テーブルの木目に目をやり、落ち着かなそうに、指先を弄んでいた。しばらく落ち着かない様子を見せながらも、彼女は口を開こうとしなかった。

 言いたいけれど、言えない。或いは言ってしまうことで、それが事実だと認識するのが怖い。或いは馬鹿げていると笑われる。そういったところなのかもしれない。

 このままでは埒が明かないと踏んだ俺は、勇気を出して、もう一歩だけ踏み込んでみることにした。


「それは……お前のピアノが、人を殺してしまうからか?」


 意を決して、俺は言ってみた。もう後には引けない。ただ、伊織の人生と向き合うならば、きっとこれは避けて通れない問題だ。今ここで、彼女の本音を聞き出す必要があった。

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