12-3.ここに来る為の選択肢を選び続けてきただけ

 カチャ。パタン。パサッ。

 隣の部屋から色んな生活音が聞こえてきて、つい心臓が高鳴る。その音のせいで部屋の主が何をやっているのかがいちいち気になってしまうのだ。

 小学校の三年生くらいからこの部屋で一人で寝ているが、これまで物置だった部屋から、こうして人の生活音が聞こえてくることはなかった。しかも、物音を立てている主は、自分の大好きな彼女なわけで、ドキドキしないわけがない。伊織がうちで暮らし始めて数日が経過する今も、やはり慣れない。

 隣の部屋で人が暮らし始めてわかったが、案外壁が薄い。俺も極力物音を立てないように気をつけている。

 ただ、ここ最近少し心配事も出てきている。今日、伊織は昼食の後母親と買い物にでかけ、二人でクッキーと夕飯を作っていた。で、ご飯を食べた後は、今部屋に戻ってくるまで、ずっと母親とリビングでクッキーを摘まみに色々お喋りをしていた。

 今日は春休み最後の日なのに、ずっと母さんにつきっきりだ。母さんに無理に付き合わされてるのではないか、と不安を感じ始めているのだ。伊織の事だから、母さんに求められれば断らないだろうし、少しそれが心配だ。

 せっかく伊織が過ごし易いようにと思っているのに、気を遣わせて疲れさせていたら、本末転倒だ。母さんは母さんで伊織に気を遣っているのかもしれないし、そのあたりを上手い事調整するのも俺の役目なのかもしれない。

(ヒアリング、してみますか……)

 一体この家での俺の役割って何なのだろうか? と思ったが、それは今は気にしてはいけない。ただ、どちらも気を遣ってどちらも疲弊していては、それはそれで不幸だ。

 少し緊張した気持ちを整えてから伊織の部屋の前に立って、コンコン、とノックをする。数日前までただの物置部屋だったのに、その部屋の前に立つだけでこんなに緊張するだなんて、変な感じだ。


「はーい、どうぞ」


 部屋の中から伊織の声が聞こえたので、遠慮がちに扉を開けた。

 今、初めて伊織の部屋となったこの部屋に入る。結構緊張しているのはここだけの話だ。

 中に入ると、部屋の内装がどう変わったかよりも、部屋の主の笑顔に惹き込まれてしまった。

 伊織はパジャマ姿で、ちょこんとベッドマットに腰をかけていた。いつもはおろしている前髪をヘアクリップで留めている。すべすべで綺麗なパジャマに、ヘアクリップの伊織……彼女と付き合って三か月以上経つが、こんな無防備な姿は初めて見る。


「あっ……」


 伊織は自分の姿を思い出したのか、ヘアクリップを外して、慌ててブラシで前髪を梳かしていた。


「いいよ、気にしなくて」

「私が気にするの」

「いや、だって……そういう伊織見れるの、俺だけだし」

「そういう問題じゃ、なくて……」


 言うと、伊織が顔を赤くして、無言で前髪を梳かす。梳かし終わると、ちらっと鏡で自分の顔を確認してから、こちらを向きなおした。


「それで真樹君、どうしたの?」

「あ、いや。ちょっと話したいなって。いい?」

「いいもなにも、ここは真樹君のお家でしょ?」

「でも、今は伊織の部屋だし。そんな事言ったら着替え中とか寝てる時とかも入るぞ」

「そ、それはダメ」


 恥ずかしそうにイヤイヤする。その仕草や表情、どれもが可愛いと思えてしまうのは、ただの惚気だから許してほしい。

 思えば、こんな彼女が隣の部屋にいるのに、毎日悶々として過ごさないといけないのもなかなか拷問だな、と思えてしまう。


「それで、話したい事って?」

「ああ、うん……この家に引っ越してきて何日か経ったけど、どう? 暮らしにくくない?」

「すごく暮らしやすいよ。お部屋も綺麗だし、寝心地のいいベッドマットも頂いちゃったし……これで暮らしにくいなんて言ったら、バチが当たっちゃう」


 伊織は嬉しそうに微笑んで、そう答えた。

 部屋を見回すと、この数日でだいぶアレンジされていた。無機質だった空き部屋が、写真立てや小物や化粧品、ケア用品、衣装スタンドにかけられた衣服などで彩られて、女の子っぽい部屋になっている。

 あれから伊織は何回か自分の家に母さんと一緒に帰っては、荷物を持ってきている。男には見せられらないものもあるから、と言って俺の同伴は拒否されたのだが、その間に色々持ち運んできているようだった。

 何はともあれ、こうして彼女が過ごしやすい居住空間が出来ているなら、それに越した事はない。


「ああ、それならよかった。でも、部屋の設備とかじゃなくて、その、母さんの事なんだけど」

「お母さま?」

「ああ。なんだか伊織が無理して母さんのわがままに付き合ってるんじゃないかって思って」

「ううん、そんなことないよ」

「ほんとか?」

「ほんとに。っていうより、すごく感謝してる」

「感謝?」

「うん。真樹君のお母さまは、私がお母さんとしたかった事をね、どんどん叶えてくれていってるの」


 伊織の視線が、テーブルの上に立てられた写真立てに移った。そこには、伊織のコンクール優勝時に三人で撮られた家族写真が飾られている。今は昔のように奥に隠されているわけではなく、俺や春華達との写真と並べて飾られていた。


「一緒にお料理するのも、お買い物にいくのも、お菓子を作るのも、お菓子を食べながらお喋りするのも……お母さんとできなかったこと、もっとしたかったことを、私と一緒にしてくれるの。それが嬉しくて」


 伊織の瞳に、うっすら膜が張られる。最後の方は、ちょっとだけ涙声だ。そんな彼女の横に腰をかけ、肩を引き寄せて、そっと髪を撫でる。


「ごめんなさい、別に悲しいわけじゃないんだよ?」

「わかってるよ」


 鼻を啜りながら、恥ずかしそうに笑顔を作る伊織。

 俺なんかより、よっぽど母さんのほうが伊織の願いを叶えられているのだな、と安心する。ただ単に母さんのやりたかった事と伊織のしたかった事が合致しているだけなのかもしれないけども。


「お部屋も綺麗だし、ずっと話し相手がいるし……こうして、ぎゅってしてくれる大好きな人が隣にいるし……こんな素敵なところ、他にないよ」

「そっか。ならよかった」


 彼女の言葉通り、ぎゅっと肩を抱きしめた。嬉しそうに彼女は身を預けてきて、鼻先を俺の首筋に当ててくる。くすぐったいけれど、彼女がこうしてくるのが好きだった。


「でも、真樹君と最近あんまり話せてなかったのは、少し寂しかったかなぁ」

「お前が母さんとばっかり話すから」

「もしかして、お母さまに妬いてたの?」

「……少し」

「ふふっ、可愛い」


 言いながら、伊織がほっぺたにキスをしてきた。俺もお返しに、唇にキスをしてやる。そうすると、また伊織がキスを返してきた。

 そうして、お互いお返しをしあっているうちに、どんどんそういうムードになってきて、キスを繰り返す。しかし、舌を入れようとすると、「ダメ」と押し返された。


「ええ、なんで」

「明日から、学校だから」

「そうだけど……」

「それに、お母さまに聞かれちゃう」

「じゃあ、キスだけ」


 言うと、伊織はこくりと恥ずかしそうに頷いて、目を閉じた。そのままゆっくりと唇を重ねて、舌を交える。吐息と唾液を交えて、しばらくの間、そうして愛の時間を楽しんだ。

 ただ、これよりも先に進めないというのは、思っていた以上に忍耐が必要だった。彼女の瞳がとろんとしてきて、苦しそうで艶やかな吐息が頬にかかった。その時、彼女の体がびくっと震える。


「も、もうダメ!」


 そして、また押し返される。不服そうに伊織を見つめていると、彼女は赤く染まった顔で、睨んできた。


「我慢してるのは、真樹君だけじゃないんだよ?」


 言って、伊織は体をもじもじと動かした。

 ああ、なるほど。彼女もそういうスイッチにならないように我慢していたのだ。で、そのスイッチが入りそうになったから、ダメ、と。

 可愛い。あまりに愛しすぎて、頭が変になりそうだった。気がつくと、彼女をがばっと抱きしめていた。そのまま、ぎゅーっと抱き締める。


「ど、どうしたの?」

「どうもこうもない」

「もう。苦しいってば」


 伊織は恥ずかしそうに笑いながら、ぽんぽん、とタップするように俺の腕を優しく叩いた。

 少しだけ腕の力を緩める代わりに、彼女の髪やパジャマの香りを鼻腔全体で感じる。


「伊織、すげーいい匂い」

「さっきお風呂入ったばかりだから」

「いいや、ずっといい匂いだよ」

「使ってるシャンプーもボディーソープも、全部真樹君と同じだよ?」

「でも、いい匂い」

「もう、なにそれ? じゃあ、私も仕返ししちゃおっと」


 言いながら、伊織も俺の首に腕を回して首筋に鼻をあて、すぅーっと鼻で息を吸い込んできた。それが、めちゃくちゃくすぐったい。


「ばか、くすぐったいって」

「でしょ? だから、仕返し」


 伊織は離そうとしなかった。あまりにくすぐったいので、こちらも反撃せねば。彼女の隙だらけの脇をくすぐってやった。


「きゃっ! もう、脇はずるいよー!」


 小さな悲鳴とともに飛び退いて、恨めしげにこちらを睨んでくる。伊織の睨みは全く怖くなくて、もはや愛しさを感じるから、ずるい。


「そんな事するなら、私だって……!」

「わー、バカ! やめろって!」


 彼女も脇をこしょばしにかかってくるので、俺は必死に身をよじらせて、逃げ惑う。そして、お互いふと冷静になって顔を見合わせると、笑い合った。

 なにを高校生が子供みたいにこんなに必死にくすぐりあっているのだろう。でも、それがバカバカしくて、楽しい。


「真樹君って幼稚園の時もこうして私のこといじめてたよね」

「え? オマセの伊織チャンが純粋無垢な俺を惑わせてたんだろ?」

「それはあのキスの時だけだってば!」


 言って、また笑い合う。思い返せば、伊織とこんな風に笑い合うのは、初めてかもしれない。


「あー……楽しい」


 伊織は、目尻に涙を溜めながら、笑って言った。


「楽しくて、幸せ……」


 彼女が何気なく呟いたその言葉が重くて、でも優しくて。今こうして彼女がここにいて、そして幸せを感じられている事が、何よりも嬉しい。胸のあたりがきゅんとなって、もう一度優しく抱き締めた。


「真樹君は、幸せをたくさんくれるね」


 彼女も背中に手を回してきて、耳元で囁くように言った。


「俺はなにもしてないよ。この前の母さんの話じゃないけどさ、伊織が選んだんだよ」

「選択肢って言ってたっけ」

「ああ。俺と伊織と、うちの両親と……それ以外にも、いろんな人の選択肢があって、それで今って成り立ってるんだと思う。伊織はさ、すごく辛い事があったけど……そこから諦めず、今ここに来ようとする選択をし続けてきただけなんだと思うよ」

「うん……」


 もちろん偶然の要素も多分に含んではいた。というか、世の中なんてものに、奇跡はない。あるのは、偶然と必然、あとは誰がなにをしたか、だ。

 いろんな偶然はあったものの、ここに向かうための選択を、俺と伊織は、取り続けていたのだと思う。


「だからさ、もっと幸せになれる事、そういう未来選んでいこうな」

「うん。一緒に選んで、一緒に進んでいこうね」

「ああ、当たり前だろ」


 そう言ってお互いに目を見合わせ、軽く口付けをした。それから、名残惜しみながらも互いに「おやすみ」と言って、彼女の部屋を後にした。

 ……伊織はピアノをやるという選択肢を、もう取らないつもりなのかな。

 ふと、先日の榊原春華との会話が蘇った。まだピアノのことは聞けない。でも、少しずつそこにも迫っていかなければ、と思う。

 少なくとも、伊織はピアノをどうしたいのか。このまま辞めていいのか、本音ではまた続けたいのか。それだけでも知る必要があった。

 明日から高校三年生。伊織だけじゃない。俺も、もう進路を決めなければならない時期に入っていた。

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