12-2.伊織と母さん

 伊織がうちに来て、数日が経った。

 伊織がいる生活は新鮮ではあったが、想像よりもはるかに緊張する事も多かった。というか、油断ができない。

 朝起きて無防備にドアを開けたら伊織がいて、寝ぼけ顔と寝ぐせをしっかりとみられた(もちろん笑われた)し、お風呂上りやパジャマ姿の伊織にはドキドキさせられっぱなしで心臓に悪い(パジャマ姿を凝視していたら「恥ずかしいからあんまり見ないで」と言われた)。パジャマ姿の女の子ってなんであんなに良い匂いがしそうな雰囲気なのだろう。実際良い匂いがするのだけれど。

 今は、伊織と母さんがキッチンに並んで二人で昼食を作っていた。なんだか楽しそうに会話をしているのがリビングまで聞こえてくる。案外、伊織が来て一番喜んでいるのは、母さんなのかもしれない。

 昨日の夜は二人でガールズトークだとか言って、リビングでお菓子を摘みながら遅くまで話し込んでいたし、今日はこの後二人でスーパーまで買い物に行くらしい。

 ちなみに、昨夜は俺が飲み物を取りにリビングに行ったら(母親に)追い返され、今日も一緒にスーパーに行こうかと言ったら(母親に)邪魔と拒否られた。もはや俺から伊織を取り上げられているようにすら感じる。

 そんな俺を見て、伊織は可笑しそうに笑うのだった。いや、彼女が楽しいのであれば良いけども。なんだか、女二人に男一人は分が悪い。あいつらすぐに結託してくるし。


「あ、真樹君。ごめん、今手が離せないから、食器並べておいてくれない?」

「ふぁい」


 俺は大きくあくびをしながら応えた。ダラダラと食器を並べていると、母がちょうど良いところに、という感じで声をかけてくる。


「ついでに醤油とお茶も出しておいて」

「…………」

「なんで伊織ちゃんの時だけ返事して、母の要望は無視するのかしら?」

「出します出します、出しますよ」


 伊織はそんな俺を見て、やっぱり楽しそうに笑っていた。

 彼女が来てから、無駄に仕事を振られている気がする。今まで母親がやっていた事を、伊織がいる事で上手い事手伝わされている気がしてならない。俺が伊織の手前、断れない事を知っているのだ。

 ここ数日、色々運ばされたり掃除に行かされたりと、なんだか家での雑用が増えたように思う。女はしたたかで恐ろしい連中だ。男を手のひらで操る方法をよく知っている。

 しかも、伊織は伊織で自分から進んで家事を手伝うので、「伊織ちゃんは手伝ってくれるのにね~?」と嫌味を言われるようになって、俺の立場がどんどん弱くなっている。

 早く親父に帰ってきてもらわないと、このままでは俺だけが責められる。親父、早く帰ってこい。そして、痛みを分かち合え。

 これらは、伊織が移り住む事で、予期していなかった副作用だ。母さんに無理矢理手伝わされているのではないかと心配してこっそり聞いてみたところ、伊織は自分がやりたくてやっていると言っていた。誰かと一緒に住んで、その人達のために頑張れるというのが、彼女にとっては嬉しいらしい。

 このことから察するに、伊織にとって、たった一人で生活していた半年と少しの期間は、とても寂しいものだったのだろう。自分から進んで独り暮らしをするというのと、そうならざるを得なかったのでは大きく異なる。きっと彼女は、孤独だったのだ。


「お待たせ。あ、お腹空いてたら、先に食べていいよ?」


 伊織が嬉しそうに微笑みながら料理を並べて言った。

 今日は和食だが、魚料理とお味噌汁の他、煮物や御浸し、その他少量の炒め物二種。母親と二人で分担して作っているので、品数がこれまでより一.五倍くらい増えた。

 これも伊織が移住してきた予期せぬ作用だった。おかずの種類が増えて、なおかつ美味しい。食べ盛りの男子高校生的には、嬉しい誤算だった。


「いや、せっかくだし待ってるよ」


 今、母親はご飯を装っている。母親の装ったご飯を取りに行って並べるのを手伝っていると、母親はそんな俺を見て「やれやれ」といった仕草をするのであった。

 食事中は、雑談しながら食べる。内容もあるようでない、本当の雑談。テレビ番組を見ながらその番組について話したり、コマーシャルの俳優について話したり。そんな、どこにでもあるような、食卓での会話。

 伊織は、そんなどうでもいい会話でも楽しそうに交わしていた。基本的に母親が何かを発して、伊織がそれに反応して、伊織から俺に話を振ってきて、というのが最近のパターンだ。

 伊織のお陰で、母親と二人きりのときより、会話が増えたのは間違いなかった。そういう意味では、伊織の存在は親子関係も活性化させているのかもしれない。

 彼女がお味噌汁を啜っている際、お椀越しにふと目が合うと、目だけで笑ってくれた。こういう時に、とてつもない幸福感を味わえて、一緒に暮らしている事を実感する。こんなやり取り、一緒に暮らしていなければ、味わえなかった。

 ただ、それにしても、やはり慣れないものは慣れない。伊織が麻生家の食卓にいて、うちの親と一緒にご飯を食べている……この光景があまりにも非現実的で、見慣れなかった。


「ねえ、真樹君」

「なに?」

「私が作ったやつ、どれだと思う?」

「ええ……?」


 全く意識せずに食べていたので、少し困ってしまった。というのも、明確に味付けがうちと異なるものがあまりない気がするのだ。


「煮物?」

「うん、正解だよ」

「あと、この御浸しも、かな」

「それも正解。あともう一つあるよ?」

「え、まだあるのか?」


 煮物と御浸しに関しては、母親が普段作らなそうだな、という予測だけで当てただけで、味で判断したわけではない。


「……わからないな」


 全部を味わってみたが、本当にわからないので素直にそう答えると、伊織と母さんは顔を見合わせ、いきなりハイタッチをした。


「え、なに?」

「このお味噌汁も、実は私が作ったのでしたっ」

「味噌汁? ほんとに? 味の違い、全然わかんなかったんだけど」


 味噌汁だけは絶対に無いと思っていた。普段母さんが作っているものと、全く同じ味をしていたように思えたからだ。


「でしょ? 麻生家の味を完コピしたんだよ」

「いやぁ、伊織ちゃんお料理のセンスあるわぁ。ちょっとしか教えてないのよ? それでここまで味を似せれるなんて」

「お味噌汁は一昨日作って頂いたので、その時になんとなくこんな感じかなぁって……あとは細かい分量をお母さまにさっき直接教えて頂いて。でも、もうちょっと味が濃かった方が近かったかもしれないです」

「はあ……料理もできて真面目で性格も良くておまけに可愛いって……」


 母親が感嘆の声を上げながらそんな伊織を惚れ惚れと眺めている。そして、こっちを見て、言った。


「で、あなた達、いつ結婚するの?」

「ブフォッ」

「ゲホッゲホッ……!」


 味噌汁が気管に入って噴き出した。伊織も咳き込んでいる。


「あの、母さん、何言ってんの……」

「伊織ちゃんなら学生結婚も全然OKよ。お父さんなら説得したげる」

「そういう問題じゃ……」

「あのね、あんたわかってる? 伊織ちゃんみたいな子なんて、この先何年生きても出てこないわよ? 自分の器ってものを考えなさい。明らかにあんたとじゃ釣り合わない子と付き合ってるんだから、早くに結婚しとかないとすぐ奪われるわよ」


 ひどい言い草だ。いや、もちろんそれは間違いないし、俺も理解しているし、ずっと一緒にいるつもりではいるけども。


「母さん、それ以前に、俺まだ十七……」

「あ、そうだったわね」


 ずるっと二人してこけた。何なんだよ、息子の年齢忘れんなよ。法的に結婚できる歳じゃないって。

 伊織はお椀で顔を隠しつつ、目だけこっちを覗かせていた。耳まで真っ赤になっている。そんな彼女を見て俺も恥ずかしくなって、ご飯を無理矢理流し込んだ。


「あらあら、なんだか気温が上がったみたいね。冷房でも入れたほうがいいかしら?」


 そんな俺達を見て、母さんが面白そうにからかってくる。飯くらいゆっくり食わせてくれ。頼むから。


「そういえば伊織ちゃんってお菓子作り得意なんだっけ?」

「あ、はい。得意かはわかりませんけど、お菓子作りは好きです」

「じゃあ、お昼食べて少し休憩したら、クッキー作らない? 夕飯の買い出しと一緒に材料も買いましょ」

「え、あ……ぜひ!」


 嬉しそうに伊織は返事をしていた。本当に仲良いな、この二人。


「は~。私、こうして娘とご飯とかお菓子を一緒に作ったり、買い物したりするの夢だったのよねー」


 念願叶ったり、と満足そうな母親と、なんだかにこにこと嬉しそうな伊織。この数日で仲良くなりすぎだろ、お前ら。

 嫁姑関係って大体どこでも悪いって聞くけど、うちは問題なさそうだな……などと、そんな二人を見ていて考えていた。

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