12章・新しい生活
12-1.新しい家族
翌日の昼下がり……そろそろ伊織がうちに来る時間帯だ。
春華は昼の新幹線で大阪に帰るらしく、伊織も駅まで見送りに行っているとの事だった。そのあと一度家に帰って荷物を取ってから、その足でうちに来る事になっていた。彼女が来るのが待ち遠しい。
せっかくの春休みなのに、待ち遠しくて、無駄に早起きしてしまった。自分の部屋も何度も掃除したし、彼女がこれから使う予定の部屋も、何度も掃除した。以前物置部屋だったのが嘘みたいに、今は綺麗な部屋へと変貌を遂げている。
基本的に掃除は好きではない。でも、彼女のためならば、そんな掃除も苦じゃなくなってしまうのが、恐ろしいところだ。
埃をはたいて、掃除機をかけて、空拭きをして、水拭きをして、そのあと床にワックスまでかけている。その半分でいいから、自分の部屋も掃除してほしいと母親から呆れられたが、自分の部屋だからこそ、どうでもいいと思ってしまうのは、きっと俺がダメ人間だからだろう。
ただ、これからはいつ伊織がふらっと入ってきてもいいように、最低限汚くはないという状態ぐらいには保つように努力をせねばならない。
母親もああは言っていたが、伊織がこれから住むという事もあって、リビングから廊下、階段や化粧台、洗面台、お風呂など、いつも以上に気合を入れて掃除をしていたので、このあたりは親子だなぁ、などと感じていた。
そんな感じで親子ともどもそわそわしつつ、無駄に自分の部屋を掃除していた時……家のインターフォンが鳴った。それだけで、胸が跳ね上がる。しばらくすると、「伊織ちゃん、来たわよー」と母親の声が階下から聞こえてきた。そんなのいちいち確認しなくてもわかる。
俺は、慌てて階段を下りて、玄関扉を開けた。
「あ、こんにちは、真樹君」
門扉の前から、会いたかった人の声が聞こえてきた。
榊原春華のせいで、数日会えなかった人。俺の大好きな人で……そして、今日からこの家で暮らす人。
「いらっしゃい、伊織」
顔を見るだけで、お互い笑みがこぼれる。
「えっと、今日から宜しくお願いします」
「こちらこそ」
今更ながら、お互いに頭を下げ合う。それからもう一度照れ笑いを交わして……また微笑み合う。
「緊張してる?」
「うん……ちょっと」
「最初はしょうがないか。そのうち慣れるだろ」
「慣れた頃に何かミスしそうで恐いの」
表情から少し緊張が見えたので、軽口を言ってみたが、彼女は大きく溜め息を吐いていた。緊張で息が詰まる、といった様子だ。
「荷物、多いな」
彼女は大きなスーツケースを持っていた。一番大きなサイズのスーツケースで、まるで海外旅行でも行くような荷物だ。
「これでもだいぶ減らしたんだよ?」
「必要だったら取りに帰ればいいのに。近いんだし」
「そうだけど……気持ち的な問題?」
「なんだそれ」
「えっと、花嫁修業的な……?」
言ってから、伊織は顔を真っ赤にした。
自分で言っておいて自爆するのはいいが、こっちまで恥ずかしくなるような事は言わないで欲しい。
「今日は母さんだけだけど、来週くらいから親父も戻ってくるから」
父親のビリヤード店の方も、順調そうだった。友人のCUE(ビリヤードで使う棒)職人を店長として雇うことで、春からはオーナー業に専念できるとの事だった。自分の好きな時に行ってビリヤードを楽しむぐらいで、毎日店に行く必要がなくなったのだ。
マスターと言い、父親と言い、俺の周りの大人はやたらと経営者が多い。
「そうなんだ……緊張するなぁ」
「しなくていいよ。前見た通り、うちの親父なんて適当だから。さ、入って」
伊織の代わりにスーツケースを持って、先に中に入った。思ったより重くて、玄関の上に上げる際、腰が逝きそうになった。一体何が入ってんだか。
これを階段の上まで持って上がるのか……? 軽く絶望していると、母さんが台所から出てきた。
「あら、いらっしゃい。伊織ちゃん」
「あ、あの! 今日から宜しくお願いします!」
伊織は姿勢正しく、お辞儀をした。
「だから、そんなに畏まらなくていいって。今日から家族なんだから」
「家族……はい」
あんまりそういう事を言ったら、また伊織が泣くのではないか。ほら、感激して瞳にうっすら膜張ってるし。
彼女にとって、誰かとこうして家族のように暮らすのは、夢のような心地なのかもしれない。
「じゃあ、とりあえず真樹、部屋に案内してあげて。お茶入れておくから、LIME送ったら降りてきて」
「うい」
そう言って、俺は階下に鎮座するスーツケースとにらめっこをする。持って上がるのか、こいつを。
「手伝うよ? すごく重いから」
「いや、大丈夫」
本当はあまり大丈夫じゃなさそうけど、伊織の前で格好をつけたい。男なんてそんなものだ。例えば、スポーツジムでも、美女がその場に現れると、男の筋トレ速度が倍近く上がるというデータもあるそうだ。
結局、人類だ文明だと言いながら、本能的に雄は雄なのだ。動物と変わらない。大きく息を吸って呼吸を止めて、力一杯持ち上げる。一気に両腕に負荷がかかった。
ぐえええ、重い……何入ってんだコレ……。
一度下すと持ち上げる気力がなくなりそうだったので、そのまま勢いで階段を駆け上っていった。もう、これは腕の耐久時間との勝負だ。
何とか休まずに階段の上に着くと、どさっとスーツケースを降ろした。思わずスーツケースに持たれて、ぜえぜえと息をする。
「だ、大丈夫?」
「何を入れたらこんなに重くなるんだ……?」
「えっと、色々……?」
何なんだ、色々って。女の子の色々、恐ろしや。というかお前よくこれを家から持ち出せたな。
そのまま俺の部屋の前を通り過ぎて、横の部屋の扉を開ける。
「どうぞ」
「わぁ……広い。それに、すっごく綺麗。こんなにいい部屋、ほんとに使ってもいいの?」
伊織が部屋の中を覗き見て、感嘆の声を漏らした。元物置部屋は、ここ数日の大掃除によって、そこそこ良い感じの部屋に生まれ変わっていた。これだけ喜んでもらえるのなら、大掃除も頑張った甲斐があった。
「広いか? 六帖くらいだったと思うけど。俺の部屋と同じくらいだよ、確か」
「ううん、こんな立派な部屋を使わせてもらえるだけで感激だよ」
一応この部屋にはもともとタンスやクローゼットが常備されていて、一階の客間からテーブルを持ってきた。あとは、母親が昔使っていた化粧台も持ち込んでいる。女の子にとって必要だろう、とのことだ。とりあえず暮らす分には問題ないだろう。
その後はWi-Fiの接続IDやパスワード、トイレの場所などを教えてやった。すでに二回ほどこの家には来ているので彼女もわかってはいると思うが、念の為である。
「あ、エアコンは、夏までには一階の客間のやつをこっちに付け替える工事するから、ちょっと待ってて」
「え、いいよ、そんなの。工事って結構お金もかかるし……」
「どうせ客なんて来ないし、それに、熱中症になられたら困るからさ」
「うーん……でも、居候させてもらっててただでさえ色々してもらってるのに」
「いいからいいから。うちの親がやるって言ってんだし。まあ、もしエアコン間に合わなかったら……」
「間に合わなかったら?」
「えっと、俺の部屋で、寝てもいいし」
「一緒に……?」
「まあ、そうなる、かな」
「……別の意味で熱中症になっちゃいそうだね?」
「だな……アハアハ」
お互い冗談のつもりで言ったのだろうが、それが互いに恥ずかしがって言ってしまったため、あまり冗談にならなかった。ただただお互い恥ずかしい思いをしただけだ。
「あ、ベッドマットがまだ届いてなくて。今日だけ布団で我慢して。明日くらいに届くと思うから」
「え? ベッドも買ってくれたの?」
「らしいよ。布団じゃ悪いからって」
「そんなに何から何までしてもらったら、頭上がらなくなっちゃう……」
「いいんじゃないの。伊織に快適に過ごしてほしいんだよ、うちの親もさ」
「ほんとに……優しいね。真樹君のご両親は」
「そうか? たまに鬼のように怖いぞ。特に母さんは」
「もう。聞かれたら怒られるよ? あんなに優しいのに」
「猫被ってるだけだよ」
言って、二人で笑いあった。
春の昼下がりの暖かい空気が、窓から優しく入ってきて、部屋を吹き抜ける。伊織の髪がふわりと浮き、彼女は片手で押さえた。
一瞬だけ、部屋に沈黙が訪れる。
「ほんとに一緒に暮らすんだね……」
「全然実感ないけどな」
また、春風が部屋を吹き抜ける。その暖かな風が心地よくて、くすぐったい。なんとなしに俺達は見つめ合っていた。
目の前に伊織がいて、今日から一緒に暮らす。その事実がまだ信じられなくて、何かの夢ではないかと思ってしまう。
無意識に伊織を引き寄せて、そのまま抱き締めていた。彼女も黙ったままこちらに身を預けてきた。彼女の優しい香りと春の香りが混ざって、自分の家が全く異なる場所のように思えてくる。
四月。新しい季節。一年の始り。そんな大切なスタートラインを、こうして彼女と一緒に過ごせる。それはとても幸運で、幸せな事だった。
伊織がうちに来る事で、どんな毎日になるのか、全く想像ができない。でも、彼女が寂しくないような毎日にしてあげたい。それこそが、伊織と一緒に住む意義なのだから。
「真樹君、すごくドキドキしてる」
「伊織も」
「ちゃんとできるかなって不安で……」
「そんなに気負うなって」
「うん……」
伊織は目を閉じて、そのまま俺の背中に腕を回してきた。
「どうしよう、すごく嬉しい」
「だな……どうすればいいんだろうな」
伊織がそっと見上げてくる。そして、俺もそんな彼女を見つめる。時が止まったかのように思えた。伊織の唇に目がいってしまって、そっとそこ目掛けて唇を寄せた。
その時、スマホがブルルッと震えた。おそらく母からの合図だろう。時間切れのようだった。
「下いこっか」
「そうだね」
「続きはまた後で、だな」
「……うん」
伊織は恥ずかしそうに頷いて、また目を合わせて──そして、どちらともなく、キスをした。
これからはいつでも伊織と同じで、寝ても起きても彼女がいる。これ以上ない幸せだった。
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