11-11.伊織がピアノを辞めた理由
春華の口から出てきた言葉は、やや衝撃的だった。
伊織がピアノを辞めた理由……それは、両親の死が絡んでいたのだ。いや、ピアノのコンクールが絡んでいたと言った方が正しい。伊織の両親は、偶然にも、どちらも伊織のピアノのコンクールの日に亡くなっていたのだ。
まず母親が、伊織が中学二年の頃のコンクール当日に、急性心不全で何の前触れもなく、いきなり亡くなった。そしてその三年後、またコンクールの当日、父親が応援の為にコンクール会場に向かっていた際に、車の事故で亡くなられたそうだ。それ以降、伊織はピアノを弾くの辞めた。正確には、弾けなくなってしまったのだという。
『私のピアノは大切な人を殺してしまう』
彼女はそう言ってから、自分が得意だと言っていたピアノを辞めてしまった。そういえば……音楽室でピアノを弾いてみせてと言った時、彼女は凄く躊躇していた。弾いても大丈夫なのか、また誰かを傷つけるのではないかと不安だったのだろう。
知らなかったとは言え、軽率に弾いてと言ってしまった自分の軽はずみな発言をひどく恨んだ。あの話の流れでピアノを弾かないのは不自然だ。伊織としても、弾かざるを得なかったのだろう。
もちろん、彼女自身、本当に自分のピアノが呪われているとは信じ切れていないだろう。だが、偶然にも二度続いてしまっている事から、その可能性を捨て切れていない。現に、伊織はこの前、もうピアノは弾きたくないと言っていた。
「あの子、あんまり自分であれ好きとかこれやりたいとか言わへんやろ?」
「言われてみれば、そうだな」
「ピアノはな、そんなあの子が唯一自分で好きでずっとやりたいって言うてたもんやねん。でも、お父さんも亡くなりはった後……さすがに誰もピアノを弾けて言われへんかった。本人もピアノの前に座ったら手震えてしもて弾けへんかったし」
「…………」
言葉を失った。それほど恐怖心を持つほどのことを、俺は弾いてくれと頼んでしまっていたのだ。
「どしたん?」
「いや……その状態で俺、弾いてって頼んじゃったんだなって思ってさ。たまたま音楽室でピアノの話題になって」
「それでも、弾いたんやろ?」
「躊躇はしてた。かなり迷ってたし緊張もしてたと思う。変だなって俺でも引っ掛かったからさ」
「ちゃんと弾けてた?」
「元の状態のピアノを知らないから何とも言えないけど……それでも、上手かったよ。少なくとも、素人の俺でもわかるくらいには」
「せやろ、あの子のピアノ凄いねん」
そう言う春華は、どこか自慢気だった。伊織のピアノは、春華にとっても自慢だったのかもしれない。
「あの子な、ほんまは音大行きたいって言うててん。お母さんみたいなピアニストになりたいって言うて」
「…………」
「でな、多分やけど、あの子まだピアノの事嫌いにはなってないと思うねん。せやから……」
「俺に弾かせろって?」
「頼むわ、多分あんたにしかできひん事やから」
「無理言うなよ。本人が弾きたくないって言ってんのに、どうして弾かせれるんだよ」
「せやから、もし、もしや。本人がピアノ弾きたいって気持ちあるんやったら、支えてやってくれへんか?」
「……まあ、本人にその意思があるなら、な」
「おおきに!」
春華は、満面の笑顔を見せた。彼女なりに、伊織の幸せを願っているのだろう。人格には問題があるが、良い友達だと思う。
「あの子はな、ピアノ続けるべきやねん」
「……?」
「うちらと伊織な、仲良くなったん中学入ってからやけど、うちは伊織のこと小学校の時から知っててん。向こうは知らへんねんけど、こっちが一方的に」
急に神妙な顔になって、春華は、コンクリートを眺めて、ぽそりと言った。
「へえ、なんで?」
「うちもピアノやってたから」
このやかましい女が上品そうなピアノを? と思うと、何とも信じがたい。
「あ、今嘘やと思ったやろ」
「思ってない思ってない。それで?」
ここでツッコみを入れると、話がまた長くなる事はわかっていた。敢えて流すと、春華は納得がいかなそうだったが、そのまま話を続けてくれた。
「小五やったかなぁ……コンクールでな、伊織のピアノ初めて聴いた時、めっちゃびっくりしてん。同世代のピアノで感動したん初めてで。案の定コンクールでも伊織の圧勝やった」
「へえ……」
「訊いたらピアノ始めたの小三からって言うやん。幼稚園の頃からやってたうちはもう涙目やったわ」
「それは、確かに」
才能というやつだろう。スポーツや芸術では、才能が八割だと思われる。努力で補える部分は限られているのだ。伊織はピアノの才能があったのだろう。少なくとも、幼稚園からピアノを続けていた春華の努力を、僅か二年ほどで圧倒してしまうほどに。
「ライバル宣言しなかったのか?」
「するかいな。何もせえへんかった」
「意外だな。ライバル宣言して毎回負ける役にでもなるのかと思ったのに」
「嫌やわ、そんな役。ピアノをそこでやめただけや」
「え? やめたのか?」
「うん、きっぱり。伊織には昔ピアノやってた~くらいには言ってあるんやけどね」
少し意外だった。春華の性格なら、ライバル宣言をして「あんたを超える!」とか言いそうなものなのに。
「意外だな、素直に負けを認めるなんて」
「幼いながらに気付いてしもたんやなぁ……努力でどうにもならん壁があるって。せやから、努力で何とかなる勉強だけはしっかりやってるねん」
「なるほど……確かに、勉強は平等だよな」
「せやろ」
勉強や成績は、勉強すればした分だけ、結果が出やすい。確かに、頭の作りや地頭の良さで差はあるだろうが、努力で補える範囲なのだ。芸術の世界よりよほど平等だ。芸術の世界は才能やセンスがほぼ全てだ。努力はそれらを伸ばすものでしかない。
「せやからな、あの子にピアノやめてほしくないんよね。うちの分まで弾いてほしいねん」
うちの勝手な押し付けやねんけどな、と春華は言った。彼女は、伊織に自分の夢を託したのだろうか。なんとなく、そんな空気を感じた。
「無理に続けさせんでもええけどな、あの子がピアノ弾きたがってたら、支えてやってくれへん?」
「まあ、最善は尽くすよ」
「ええ答えや」
そう話がまとまった時、春華のスマホに着信の表示が入った。
「げ、伊織や! どないしょ」
「そりゃいきなりいなくなったら心配するだろ……」
「ちゃんとLIMEでコンビニ行ってくるって送ったで!」
「じゃあちょうどコンビニいるし良いじゃねーか」
「あ、せやな」
言って、春華はスマートフォンの『通話』をタップして電話に出た。
「あ、伊織。どないしたん? ああ、大丈夫大丈夫、ちょっと迷ってんけど、ちゃんとコンビニ行けたから。今から帰るで。うん、ほなー」
軽くそれだけで済ませて、すぐに通話を終了させていた。
「ふう。外出バレたし、帰ろか」
春華は立ち上がって、伸びをした。
「あ、ピアノの事話したの内緒な」
「わかった。なんとなく自然に聞き出しておくよ」
「頼むわ」
そう言って、俺達の密談は終わった。伊織の家の近くまで送っていく途中、俺は気になっていた事を聞いてみる事にした。
「そういえばさ、前に言ってたクイズ、全然わかんないんだけど、答え教えてくれないか?」
「クイズ? うちそんなん出したっけ?」
「ほら、清水寺の別れ際にさ。『伊織は最初から〇〇やった、ヒントは図書室』ってやつ」
「あー! そういうたらそれちょっと話したな」
「あれなに?」
「伊織に絶対言わへんって約束できる? 約束できるんやったら教える」
もちろん、と俺は頷いた。
「それな、めっちゃ簡単やで」
「簡単?」
「答えはこうや」
春華は、その後こう続けた。
『伊織は最初からあんたが気になってた。図書室に案内してもらうなり何なり口実作って仲良くなれって言うたのはうち』
その答えには驚いた。伊織と仲良くなる切っ掛けは、間違いなく図書室に案内して、そのまま一緒に帰った事だ。そう考えると、ある意味切っ掛けを作ったのは春華だということになる。
「まじか」
「あーあ、言うてもうた。絶対言うたらあかんで?」
「言わないけど、さすがに驚いたな」
俺と初めて目が合った瞬間から、伊織にとって俺は気になる存在だった、という話は前に聞いていた。それは、幼稚園時代の幼馴染だったからだという事も、つい最近わかった。しかし、一番最初のアクションがまさか春華の入れ知恵だったとは思わなかったのだ。
「じゃあ、俺はお前にお礼言わなくちゃいけないな」
「なんでや?」
「あの時図書室に案内して、その後一緒に帰ったから、伊織と仲良くなれたんだ」
「あー、それな。ちょっとだけ聞いてるで」
「だから、ありがとう」
じっと目を見て、心からお礼を言った。きっとあの時伊織がアクションを起こしていなければ、仲良くなるまでもっと時間がかかったかもしれない。そう考えると、俺と伊織が付き合えた事への功労者の一人に、春華も含まれると思うのだ。
「やめえや、恥ずかしい。うちは面白がって伊織を嗾けただけや。それで行動したんは伊織やし、それ切っ掛けで伊織に心許したんはあんたや。うちはなんもしてへん」
「そうかな」
「せやで」
春華は、恥ずかしそうに笑った。こいつは案外、お礼を言われたり誉められたりすることに、慣れていないのかもしれない。
偽悪的な人間というか、本当は割と良い奴なのに、それを隠そうとしている。やはり、春華は信と少し似ていた。伊織が彼女と友達付き合いを続けているのも、少しわかった気がした。
そんな話をしていると、伊織の家が見えてきたので、春華とはそこで別れた。最後に「うちも大学は東京にしよかなぁ」と不吉な事を言っていたが、敢えて聞かなかった事にした。
頼むから来るな。頼むから。
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