11-9.真樹の過去

「真樹、ちょっと来なさい」


 家に帰って、そのまま二階の自分の部屋に戻ろうとすると。リビングから、父の声が聞こえた。


「なに?」


 リビングに顔を出すと、両親がテーブルに並んで座っていた。なんだか、ちょっと空気が硬い。


「まあ、今のお前にはそんなに影響がないからもう話してもいいと思ってな」

「…………?」


 俺は疑問を感じながらも、先ほど伊織が座っていた椅子に腰かける。テレビはついておらず、部屋はしんとしていた。何を話されるんだろうと思って緊張していると、ふいに父が尋ねてきた。


「幼稚園の頃の写真見て、当時のこと何か思い出せたか?」


 少し驚いた。さっき伊織を送っていったときに、彼女との会話で俺自身が気になっていた事だったからだ。


「いや、全然。伊織は結構思い出してたみたいだったけど。なんで?」

「そっかー……やっぱり」


 母さんはそう言い、残念そうに息を吐いた。


「やっぱりって?」

「あなた、小学校に上がる前に記憶喪失になってるのよ」

「え⁉」

「記憶喪失って言っても、名前とかそういうのまで全部忘れたわけじゃないんだけど……」

「どういう事……?」


 初耳の情報だった。もちろん、伊織との事は初耳だが、記憶喪失になっていた話なんて、これまで出た事もなかったのだ。


「なんで? 事故?」


 母は首を横に振った。


「真樹と伊織ちゃんは学区が違うから、違う小学校に通う事になったじゃない? それを伝えたら、あなたすっごく嫌がったのよ」

「そうなの?」


 それが記憶喪失にどう繋がるって言うのだろうか。


「納得できないってずっと泣いてて、いやだいやだって喚いて……家が近いから学校終わったら会えるよって言っても聞かなくて」

「真樹はわがままを滅多に言わない子だったから、さすがにこれには手を焼いたなぁ。なにせ、学区違いは親がどうにかしてやれるものでもなかったからな」


 父が懐かしそうに笑って言った。そうだったのか。俺にはその記憶すらないので、他人事のようにしか聞こえなかった。


「よっぽどつらかったのかなぁ……何回も説得して、伊織ちゃんと一緒に学校に通えないって頭で理解したと思ったら……今度は、伊織ちゃんと過ごした幼稚園の頃の記憶だけをすっぽりと忘れたのよ。自分の名前とか読んだ絵本とか、そういうのは覚えてたんだけどね」

「……マジか」


 それには驚いた。まさか俺にそんな過去があったとは思わなかったからだ。確かに、こうして記憶をたどっていても、小学生低学年の頃の記憶は比較的あるのに、幼稚園の頃の記憶は無い。自分でも不自然なほどに。


「心配したんだぞ、あれ。病院にも連れていった」

「医者はなんて言ってたの?」

「自分の心を守るためにつらい記憶を消したんじゃないか、どこかに隠したんじゃないかって……心因性の記憶喪失って言ってたわ」


 心因性の記憶喪失。テレビや小説ではよく見かけるが、まさか自分の身にそんな事が起こっていたとは思わなかった。


「きっと、当時の真樹にとって、唯一の友達で大好きだった伊織ちゃんと別れるのは、とてもじゃないけど耐えれるものじゃなかったのね。私達からすれば、ただ小学校が違うだけって思うけど、幼稚園児からすれば、生き別れみたいに感じたのかもしれないし」

「そこから麻宮さんのご両親にも事情を話して、理解してもらって……なるべく二人を会わせないようにって頼んだんだ。会った時にどんな事が起きるのか、全く予測できなかったからな。幸い、特に問題なくお前は普通に学校に通えていた。それを壊したくなかったんだ。一応、引っ越しする前にご両親だけ挨拶に来てくれてたんだけどな」


 他人事だけど、他人事じゃない事実。そう考えると、俺と伊織の仲も不思議なものだった。覚えているようで、覚えていない。いや、彼女だけが覚えていて、俺が覚えていない。それは、少し申し訳ない気持ちになった。


「ショックか?」

「いや、まあ……あんまり実感ないっていうか。ただ、あれだけ写真見ても、幼稚園の頃の記憶が何一つ浮かばないから、変だなって思ってたんだ」


「悪いな。伊織ちゃんの前で言うと、あの子ショック受けそうだからな」

「確かに。伊織なら、自分のせいで~とか勝手に思って責めそう」

「あの子、昔からそういうところあったわね」


 母は昔を思い返しながら、懐かしそうに笑った。


「まあ、でも関係ないよ。もともとお互い覚えてなかったし、その状態でこういう関係になったわけだから。今更俺の記憶がそこだけ飛んでようが、何も変わらない。ちょうどさっき帰りにそんな話をしてたんだ」

「二人がそういう考えなら、それで良い。何も問題ないな」


 親父も笑った。確かに気にしていないし、気にもならない。ただ、昔の伊織を知っていたはずなのに、それを覚えていないのは、少しだけもったいない気がした。それだけが悔やまれた。だが、そんな事はどうでもいい。これからの伊織をずっと記憶に刻んでいけば良いのだ。


「ところで伊織ちゃんは、どうするって?」

「明日から大阪の友達が数日間泊りにくるから、その子が帰ったらこっちで暮らしたいって」

「そうか……じゃあまだ部屋の掃除も余裕がありそうだな」

「これから賑やかになりそうね。私、娘がいたらやりたかったって事、たくさんあったのよね~!」


 両親はまるで、自分に新しい娘ができたかのように、嬉しそうに話していた。その時、初めて……初めて、俺はこの両親の子供でよかったと感謝した。これまで感謝すべき事はいくらでもあるのだろうが、ここまで親に感謝した事はなかった。


「あの、ありがとう。伊織の事」


 恥ずかしかったが、俺はその気持ちを隠さず伝えようと思った。

 伝えるべき時に気持ちは伝えておかなきゃいけない──これは、俺が伊織との付き合いで学んだ事だった。


「俺もさ、心配だったんだ。寂しがってたのも、一人でつらいっていうのわかってるのに、何もしてやれなくて。で、あいつはあいつで家族と過ごす時間の大切さを知ってるから、俺にそういうの言わなくてさ。何とかしてやりたいって思ってたんだけど、ただの高校生だし……何の力もなかったから。だから、二人がああして申し出てくれた事、嬉しかった。本当にありがとう」


 両親は、そんな俺を見て少し驚いてから、お互い顔を見合わせて寂しそうに笑った。


「はあ……息子が大人になっていく様ってやっぱり寂しいわねぇ」

「色んな意味で大人になったんだろ?」

「お父さん、子供の前で下ネタはやめなさい」


 母に窘められながらも、親父は反省した様子もなく笑っていた。


「まあ……お前も大変だったろ。一人で抱えるのは」


 親父が優しくそう語り掛けてきた。

 親父の言葉が、思わず胸にぐっときて目頭が熱くなった。それは俺だけが感じていて、俺だけにしかわからないと思っていたからだ。


「あの子も大変だけど、きっとあの子を支える真樹も大変だったと思うわ。私だって、お祖父ちゃんとお祖母ちゃんが亡くなった時はお父さんに随分助けられたもの」


 ここでいうお祖父ちゃんとお祖母ちゃんとは、母親の両親だ。俺にとってのお祖父ちゃんとお祖母ちゃんという事になる。俺に合わせてなのだろうが、母は父親の事をお祖父ちゃんと呼ぶようになっていた。


「まあ……結構、大変だった、かな。どうしていいかわかんないところもあったし、何言っても傷つけちゃいそうなとこもあるし」

「そういう時は、これから大人の力を借りていいんだぞ。この家で暮らす以上、あの子も家族だ」

「ええ。家族は支え合って生きていくものだもの」


 ああ……なんて優しい親なんだろう。俺の親が、この親でよかった。心からそう思った。

 家族って、こういうものなんだな。自分だけで支え切れないものを、一緒に支えてくれる。そんな存在なのだ。


「まあ、でも……こっちの監視下に置いておけば、いきなり出来ちゃった報告とかもされなさそうだし、私らも安心って言うか?」

「それもあるな。いくら俺達が甘いからと言っても、さすがに高校生でデキ婚は許さんぞ!」


 面白そうに言う両親。前言撤回。最低な親だ。


「するか! このアホ親!」


 俺はそう叫んで、二階の自分の部屋に戻った。

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