11-8.ファーストキスの再現
伊織がうちで暮らす事になったものの、その後は伊織が泣いてしまって収まらくなったので、具体的な話が進まなかった。うちで暮らし始める日程などはまた後日決めるとして、今日は家に送っていくことになった。
今は泣き止み、少し落ち着つきつつあるが、まだぐずぐず泣いている伊織。そんな彼女を、家まで送っている最中だ。もちろん、手は繋いでいる。
「もう、いい加減落ち着けよ」
「そんな事言ったって……」
左手に持ったハンカチで目元を押えて、こちらを恨めし気に見る。泣かせたのは誰だ、と言わんばかりであるが、今回は俺ではない。
「嬉しかった?」
訊くと、うん、と彼女は頷いた。
「俺も嬉しいよ。伊織と一緒に暮らせるの」
「夢みたいだね……」
彼女の手が握る手を強めた。それに応えるように、ぎゅっと大切に握り返す。
「まあ、邪魔者はいるけど。二匹ほど」
「こら。そういう事言わないの」
邪魔者とは、もちろん両親の事である。親がいてはなかなかイチャイチャもやりづらい。隙を見るしかあるまい。
ともかく、今の俺たちにしては上出来だ。これで、俺も伊織が夜ひとりで大丈夫かどうか、心配する必要がなくなる。やはり、女の子を一人にしておくのはずっと不安に思っていた。彼女が安心して暮らせる環境が手に入るなら、今はそれで良い。二人っきりになって暮らすのは、もっと大人になってからだ。
「はぁ……ちゃんとできるかなぁ、私」
「できるよ。伊織はしっかりしてるから」
「家事とか手伝える事手伝わないと」
「そんなに気を張らなくてもいいと思うけど」
「張るよー。真樹君の彼女として認めてもらわないといけないんだもん」
「まあ、無理しない程度にな……」
もう認めてるから一緒に住まないか? という提案をしたんだと思うんだけどな。彼女なりに拘りもあるのだろうか。
「それにしても、私たちが幼馴染だったなんてね」
「ああ、ほんとにびっくりした」
まさか当人の俺達がさっぱり忘れ去っていたのに、こうして結ばれるなんて、奇跡的なものを感じた。
もっとも、前世からのソウルメイトでなかったことは少し寂しい気もするが……ただ、現世で魂で繋がってなければ、こんな再会はできないと思うのだ。きっと俺達は魂単位で繋がっている。そう確信した。
「ああして写真見てると、私結構思い出してきちゃった。昔の事」
「え、まじ?」
「真樹君はほんとに全然覚えてないの?」
「ああ。小学生に上がる前の事ってなにも覚えてないんだ」
「そっかぁ……じゃあ、私達のファーストキスも、覚えてないんだ?」
責めるように、じぃっと見上げてくる。
「うう……ごめん」
「ショックだなぁ……私のファーストキスだったのに」
「だからごめんって……」
「……ふふっ、なーんてね。いいよ」
言ってから、伊織は悪戯に笑っていた。
「だって、今の今まで私も忘れてたんだもん。私に責める資格はないよ」
「お前な」
「いつもいじめられてる仕返し」
俺がいついじめてると言うのだ。こんなに溺愛しているのに。
「でも、ほんとに残念に思ってるんだよな。俺だって伊織との事思い出したいのに、何も浮かんでこない」
あれだけ写真を見たのに、何も覚えていない。自分の幼い頃の写真だというのは何んとなくわかるのだが、それより先の記憶は一切なかった。まるで空白になっているかのように、しっぽすら掴めないのだ。
「じゃあ、再現してあげよっか?」
伊織が手を離して、少し前を歩いてから振り向いた。
悪戯に微笑む彼女の笑顔が夕日に照らされて、どきっとする。
「うん、してほしい」
「いいよ?」
彼女は、こほん、と咳払いして、息を整えた。
「まぁくんは……」
「待て」
いきなり変化球が来て思わず止めてしまった。
「なんだ、その〝まぁくん〟っていうのは」
「昔、真樹君の事〝まぁくん〟って呼んでたんだよ」
「まじ?」
「うん、まじまじ」
伊織はにっこりと嬉しそうに笑って、頷いた。
「すげぇ恥ずかしいんだけど」
「今から〝まぁくん〟に戻そっか?」
「やめてくれ」
「真樹君がどうしてもっていうなら戻すけど」
「だからやめてくれ。恥ずかし過ぎる」
「私も、ちょっと今更その呼び方に戻すのは恥ずかしいかな」
伊織は頬を掻いて苦笑いしていた。
恥ずかしいなら今呼ぶのもやめろよ。
「じゃあ、続けるよ?」
「あ、ああ……」
「まぁくんは、好きな人いる?」
ぶっ、と噴き出した。
いきなりド直球すぎるだろ、幼き日の伊織ちゃん。
「笑わないでよ、私だって恥ずかしいんだから!」
「わ、悪かったよ」
伊織にこの時くらいの大胆さがあれば、俺達はもっと早く付き合っていたのだろうか。
「そしたら、俺なんて答えたの?」
「えっとね、『いるよ! 伊織ちゃん!』って言ってた」
頭を抱えたくなった。
幼き日の俺も十分ド直球だった。この時くらいお互い真っすぐだったらよかったのになぁ。
「だから、真樹君も『いるよ! 伊織ちゃん!』って返してね?」
「俺もやるのかよ。その恥ずかしいやり取り」
「当たり前でしょ? じゃないと再現にならないもん。じゃあ、最初からね?」
しかも最初からかよ。
「まぁくんは、好きな人いる?」
「……イルヨ。伊織チャン」
「ねえ。ちょっと棒読みすぎない?」
「演技は下手なんだよ」
恥ずかしすぎて、ちゃんと言えない。
いつもなら言えるのに、幼少期の再現、しかも自分の記憶にない時のとなると、恥ずかし過ぎた。
伊織は若干不満そうにしているが、続けた。
「じゃあ、まぁくんとは両想いだね!」
「……ソウダネ」
「もうっ、真面目にやってよ!」
「だから、覚えてないんだって」
「ほんとかなぁ……『そうだね』って合ってるんだけど」
まじかよ。適当に言ったのに。
「『そうだね』って言って、その次私が話したら、首を横に振ってね?」
「わかった」
「じゃあ、もう一回最初からっ」
また最初からかよ。お前、絶対楽しんでるだろ。
悪戯っ子みたいにニヤニヤしているその顔からもわかる。
「まぁくんは、好きな人いる?」
「イルヨ。伊織チャン」
「じゃあ、まぁくんとは両想いだね!」
「ソウダネ」
「両想い同士って、どうするか知ってる?」
俺は言われた通り、首を横に振った。
「こうするんだよ」
言うと、伊織は近付いてきて……そっと、自分の唇を俺のそれに押し付けた。
あまりの不意打ち具合に、今更ながら心臓を射抜かれた。
彼女を照らす夕日、路上の真ん中……幸い人は誰もいないけれども、まるで時間が停まったような感覚に陥った。時間は停まっているのに、心臓だけがバクバク叫んでいる。
数秒間唇を合わせた後、伊織は唇を離して、半歩ほど後ろに下がった。
お互い顔が真っ赤だった。
「幼女の伊織チャン、積極的過ぎ」
「うるさいなぁ、もう。私だってマセてたって思ってるよ」
「でも、伊織からキスしてくるのって昔からだったんだな」
俺の部屋で初めてを迎えたあの日も、伊織からこうしてキスをしてきたのだ。伊織もそれを思い出したのだろう。すごく恨めし気にこちらを睨んでいる。
「……それを今言うのは、反則」
「いじめられた仕返しです」
「じゃあ、またいじめるから」
「やめろ」
「教室でまぁくんって呼ぶからね」
「頼むからやめてくれ」
言って、二人で笑い合った。
「これ、確かテレビドラマでやってて、それをそのまま真似たんだと思う。お母さんが見てたのを横で私が見てただけなんだけどね」
「幼稚園児に恋愛ドラマなんて見せるなよ、お母さん」
「ほんとにね。そのせいで娘は次の日早速キスをしちゃうのでした」
恥ずかしそうに言って笑った。
「その時、俺どんな反応してた?」
「うーん……ぽかんってしてたと思う」
だろうな。俺はその当時、きっとキスなんて知らなかっただろう。
しかし、小学校から全然モテた記憶がなかったのだけれど、幼稚園の頃モテてたんだな。いや、モテてたというのかわからないが。
「これもさっき写真見てた時に思い出したんだけど、昨日行った公園も、真樹君のご両親と行ったんだよ?」
「そうなんだ。うちの親だけ?」
「ううん。私のお父さんとお母さんも一緒。そっか……だから、あの公園の事も思い出したのかも」
そうか。そんなところでも繋がっていたのだ。
伊織も昨日、公園を見て感嘆していたし……もしかしたら、そんな記憶も影響しているのかもしれない。
「それにしても、俺たち、どうして小学校に上がったら会わなくなったんだ? それだけ仲良かったら学校違っても会ってそうなのにな」
「…………」
「伊織?」
伊織は少し考えてから息を詰まらせ、こちらが呼び掛けるとハッとして首を横に振った。
「あ、ごめん……そこは私も覚えてないなあ。小学校に上がった後に会った記憶がないから、お互い小学校の友達と遊んでた、とか?」
俺の方にも、別の小学校の女の子と遊んだ記憶はない。
というか、小学校は男とばかり遊んでた気がするので、女の子と遊んだ思い出があれば覚えているに違いない。
小学校に上がってからの記憶は割としっかり覚えているのに、それ以前の記憶がないのは、何とも気持ち悪かった。
そんな話をしているうちに、ちょうど伊織の家の前に着いた。俺達は繋いでいた手を離して、向かい合う。
「まあ、今こうやって会えたんだし、付き合ってるんだし。昔のことはいいか」
「うん。大事なのは、これから、だよね」
そうお互い笑い合って、軽く唇を重ねた。
愛しくなって、抱きしめたい気持ちをぐっと抑える。
「あ、いつからうち来るの?」
「明日からしばらく春華が泊まりに来るから……四月入ってからかも」
「了解。親にそう言っとくよ」
「春華とは会わないの?」
「ああ……まあ」
「春華の事、苦手だもんね」
「苦手じゃない。なるべく話すのは避けたいってだけだ」
「それ、苦手って言うんだよ」
言ってから笑って、伊織が家の中に入るのを見送ってから、俺も背を向けた。
ほんとに伊織と一緒に暮らせる。
未だ現実味がないが、きっと楽しい日になりそうだ。スキップしたい気持ちを抑えるのが大変だった。
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