11-7.母の提案

「ご、ごめん、結局また泣いちゃった」


 リビングで出迎えてくれたのは、目を赤くした伊織だった。

 大丈夫だよ、と少し微笑んで、またさっきの席に座った。本当は抱き締めてやりたいと思ったけれど、親の手前、それもできない。母はキッチンで紅茶を淹れ直しているようだ。


「本当に、すみません」


 伊織は、同じくテーブルについた父に頭を下げた。


「いいっていいって。無理に我慢するよりいいさ」


 親父が優しく伊織を見ていた。まるで家族を眺めるような視線だった。

 母さんがキッチンからティーカップをトレイに乗せて戻ってくると、伊織が慌てて立ち上がって、そのトレイを受け取る。


「あ、じゃあカップ並べておいてくれる? ティーポット持ってくるから」

「はい!」


 二人がそんなやり取りをしてみせた。伊織は母さんから受け取ったティーカップをテーブルに並べる。親父も何も言わなかった。

 あれ、客人に手伝わせるんだ? さっきと言ってる事違うくないか? などと考えていると、母さんはティーポットをキッチンから持ってきて、伊織が並べたティーカップに紅茶を注いだ。


「ねえ、伊織ちゃん。提案があるんだけど」

「はい。なんでしょう?」


 伊織はもう一度隣に座りなおした。背筋はピンと伸びている。

 全ての紅茶にお茶を入れるまで、母さんは何も言わなかった。紅茶をティーカップに注ぎ終えると、四人それぞれの前にカップを置く。とりあえず、間が持たなかったので、その紅茶を手に取って、口に運んだ。母さんもテーブルにつくと、伊織を真っすぐに見て、単刀直入に訊いた。


「伊織ちゃん、この家で一緒に暮らさない?」

「ブッ」


 伊織が驚く前に、俺が紅茶を噴き出していた。

 そうして、入れたての紅茶が俺の手にこぼれる。


「は⁉ てか、あっっつ!」

「だ、大丈夫!?」


 伊織が慌てて手元にあった布巾を取って、拭いてくれた。

 口もヒリヒリしている。


「ちょっと真樹、汚いしうるさい! 大事な話してるんだからおとなしくしてなさい」

「いや、母さんこそ何言って……」

「真樹、いいから」


 今度は親父にも目で制される。

 え、親父も知ってたの? てか、もしかして、さっきの目配せってこれだったの?

 マジで? 本気で言ってんの?


「どう? 伊織ちゃんさえよければ、今日とか明日からでもいいわよ」

「え、え……?」


 伊織は、母さんが何を言っているのかわからない、という表情だった。言っている内容はわかるが、頭が追い付かないのだろう。俺も追い付いていない。


「まあ、いきなりこんな事を言われたら困惑するのもわかるけど」

 心配なのよ、と母さんは付け足した。

「でも……」


 伊織は困惑して、ちらっと俺を見る。

 どうして俺を見るのだ。俺も初耳で大混乱中だから、頼らないでほしい。


「もちろん、伊織ちゃんが一人のほうが落ち着くっていうなら、今の生活でも全然良いと思うわ。ただ、もし、寂しかったり心細かったり、不安だったりするなら……一緒に暮らしましょう?」

「そんなの迷惑じゃ……」

「迷惑じゃないぞ。お金だって気にしなくていい。一人増えたくらいでそんなに変わるもんじゃないさ。それに、そんなにうちの家計は火の車ってわけでもない。高校生一人増えたって何も変わらないさ」


 親父が伊織の言葉を遮った。母さんも続ける。


「天国のご両親もきっと心配していると思うわ。真樹を一か月一人で置いていくのも、親としては不安だったわけだし」


 母が俺をちらりと見て言った。

 こちらとしては親の目がなくて快適な一か月だったわけだけれども、親からすれば心配だったようだ。


「どういう縁かわからないが、二人が偶然再会して、こうしてうちに来た。彼らの一人娘が困ってるなら、俺たちは助けたい」

「もう伊織ちゃんは覚えてないと思うけど、結構伊織ちゃんのお母さんやお父さんと仲も良かったのよ」

「お父さま、お母さま……」


 伊織の瞳から、先ほど止まったはずだった涙が再び湧き出てくる。とりあえず俺はティッシュ箱を取って、伊織に渡した。


「うぅぅ……ごめん……」


 涙声で辛うじて聞き取れるような声でそう言い、ティッシュを取って、目に当てた。俺はそんな彼女の背中を摩ってやるくらいしかできなかった。


「もちろん、近くに自宅もあるのだから、そっちで暮らして、寂しくなったり一人でいるのがつらくなったりした時だけこっちに来てもいいのよ? 伊織ちゃんが一番暮らしやすい方法でいいから」

「そんなわがままばっかり通してもらうわけには……」

「わがままじゃないの。選択肢よ」

「選択肢……?」

「そう、選択肢。自分が一番良いと思うものを選ぶのよ」

「でも、やっぱり迷惑なんじゃ……」

「迷惑じゃないわ。お父さんはお店があるから、まだ向こうで暮らしているし、真樹は高校に上がったらめっきり構ってくれなくなるし、私も寂しいのよ」


 何故か俺を非難の目で見る母。

 いや、高校生にもなって母ちゃん母ちゃん言ってる奴もそれはそれで気持ち悪いと思うのだが。

 ただ、これは伊織の言い訳をひとつひとつ潰していっているだけなのだ。お前の本心はどうなんだ、と。伊織は、どう思っているのだろうか。俺と暮らす事に抵抗はないのだろうか。


「真樹君は……? 嫌じゃないの?」


 伊織が鼻をぐずらせながら上目遣いで訊いてきた。あのな……そんな目をされて嫌と言えるわけがないだろう。


「嫌なわけないだろ。というか、まあ……ずっとそうなればいいなって思ってたからさ。今両親からこういう申し出があった事には驚いてるけど」


 正直な気持ちを言った。あまりにも伊織が一人でいるのがつらいなら、いつか俺が親に頼み込もうかと思っていた。初めて伊織の家に行った時、彼女の家からは心細さが溢れていたから。それが、こうして親の方から提案してくる形になるとは、夢にも思っていなかった。


「お前はどうなの? 別に急いで結論出すことでもないと思うけど」

「私は……」


 伊織は鼻が詰まってちゃんと話せなかったからか、一度鼻をかんでから、呼吸を整え直した。


「私は……寂しかった、です。一人で暮らすのがこんなに辛い事だって思わなくて。もう大丈夫と思っていたけど、家の隅々に昔の記憶が残ってて……忘れるために東京に来たはずなのに、やっぱりこっちに来ても苦しくて」

「伊織……」


 やっぱり、あの家で暮らすのは彼女にとってもつらい事だったのだ。

 いや、きっと今の伊織にとって安息の地などないのだろう。ただ、もし……全く違う環境で、血縁からも逃れられたら。もしかすると、また変わるのかもしれない。


「だから、一緒に暮らそうって言ってくれて、本当に嬉しいです。もし、皆さんが迷惑でないなら、一緒に住ませて下さい。おうちの事は、何でもお手伝いします」


 伊織は椅子から立ち上がって、綺麗にお辞儀した。頬に涙が伝って、テーブルにしずくが落ちる。


「いいのよ、遠慮しなくて。こちらこそよろしくね、伊織ちゃん」


 母さんが立ち上がって、そんな伊織の肩をぎゅっと抱き寄せる。また伊織の涙は止まらなくなってしまった。ただ、きっと……今この流している涙は、悲しみでも後悔の涙でもない。

 人からの優しさ、大人からの優しさ……保護者からの優しさ。彼女はそういったものに飢えていたのだ。孤独を癒す存在が、いなかったから。

 当たり前にいた存在が、数年の間にいなくなる。そんな悲しみを簡単に乗り越えられるわけがない。もちろん、俺が力を貸したからといっても、孤独の時間を全て埋めてやれるわけではないのだ。

 こうして両親が申し出てくれた事は、俺にとっても嬉しい事だった。


「あ、でもさ、伊織の部屋、どこにするんだよ?」

「二階に一部屋余ってるだろ?」


 ああ、もはや物置状態になっているあの部屋か。

 ではまずその部屋の掃除から始めなければいけないし、荷物を別の場所に置き換えなければならない。どのみち今日からは難しい……って、待て。それ、俺の部屋の隣じゃないか。親父はそれに気づいていて言ったのだろう。にやりとこちらを見ていた。

 伊織と隣合わせの部屋……いや、喜ばしいのだけど、すごく緊張するというか、変な事もできないというか。これはこれで、なんだか気疲れしそうな生活が待っていそうだ。

 結局その日は、伊織が落ち着くのを待って一旦お開きとなり、いつから伊織がここで暮らすのかなどはまた後日決める事になった。

 伊織と家族みたいに暮らす、か。こんなに早く実現するとは思ってなかったけれど、なんとも不思議な状態というか、現実感のないものだった。

 ──家族、か……なるほど、そういう事だったのか。

 伊織に紅茶のティーカップなどを並べてもらった意図に、今更ながら俺は気付いた。

 あれは、客人ではなく家族として扱うぞ、という両親の意思表示だったのだ。家族であれば、誰かが食器を並べたり手伝ったりするのは当たり前だ。これからは、そんな光景がこれから当たり前になるのだろう。

 伊織と一緒に暮らす我が家……一体、ここの家での暮らしはどんな風になるのだろう?

 全く想像がつかないが、きっと、それはそれで、楽しい家になるだろうな、と確信した。

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